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間違っているのは私のほうだろうか

「サン・ジョルディの日」である。書店が瀕死の状態になっているというが、私もそれに加担している以上、聞こえのよいようなことを言うつもりはない。せめて本を買うことに関してだけでは、出版界に参与していると言わせてもらえれば、と願っている。
 
先日、あるキリスト教関係の出版社のサイトを訪ねて、ある本の紹介文を読んでいた。すると、文意が解せないところがあった。
 
その本がAという本だとしよう。その本は、同じ著書が半世紀ほど前に書いたBという本のテーマを発展させたものである。ところがその紹介文の中に、「『A』(1964年)でデビューした」というように著者のことが書かれていたのである。
 
AとBは、一部の語が入れ替っただけで、同じテーマを含む本である。私はもちろんそのどちらの存在をも知っている。だが、これは発行年も異なるし、デビューしたのは当然Bの本のはずである。
 
原稿を打ち込むときに、つい間違った、ということはありうるものだと思う。それを咎めるつもりはない。しかし、Bの存在を知らずしてこれを読む人が正しい情報を得られないし、きちんと読む人は、考え込んでしまう。さらに、嘘の情報を流しているとなると、出版社の信用度のためにもよろしくない。気づいた者が指摘するのが、世の中のルールであると理解するので、ウェブサイト内の「問い合わせ」機能を利用して、Aの本の紹介にある「『A』(1964年)」はBの誤りだろうと思われます、とだけ打ち込んで送信した。これで気づかないとは思えなかった。
 
だが、数時間後に返信が届いていた。それがとんちんかんであった。その著者には、AとBの両方がありますよ、という口ぶりで、両方の紹介のサイトのリンクが張られたものが返ってきたのである。
 
リンクを張るということは、自社のそのウェブサイトを知っているわけで、そこを開いて読み直せば、気づかないはずはなかった。要するに見返していないのである。それどころか、指摘したこちらが、AとBと両方があることについて知らないのだ、しょうがないなぁ、とでも言いたげに、これ見よがしに、両方の存在を教えてあげたような態度だったのである。いや、どう解したとしても、ずいぶんととんちんかんな応対であることは、いまお読みの方にも伝わることだろうと思う。
 
私はムキになることはなく、気づいてもらえないことは残念です、とだけ返信した。するとしばらくして、間違いに気づいたことを謝るメールが届いた。ウェブサイトのほうも、修正されていた。改善への協力への御礼の言葉が返ってきたが、なんだか空々しかった。
 
この話を妻にした。医療従事者である。妻の分析は簡単だった。要するにその出版社の担当者は、「自分は絶対に間違っていない」という前提で応対したのであり、「相手が間違っており無知なのだ」と決めつけて、さっさと返信したのだろう、と。
 
ところが医療従事者は、そういう態度をとることは決してしない、という。それは医療事故を呼ぶ第一の原因となる。もしかすると何か間違いがあったかもしれない、という前提から調査をしなければならないのだ。また、患者からの訴えには、何らかの理由があるはずだ、それは何だろう、と調べることからまず始めなければ、解決はしない、とも言う。
 
いや、医療従事者だけではない。教育界でも同じである。何を言われようと、こちらに落ち度はない。文句を言うのは相手が悪いのだ。そのような態度をとることは、百年前の教育界ならばどうだか知らないが、いまはありえない。
 
妻の見解はこうだった。人間には、自分は正しいという前提からまず考えるタイプと、そうでないタイプとがある。そういう人は、どんな仕事をしても、どんな事態に遭遇しても、自分は正しいというところからしか、始めることができない性質なのだろう、と。
 
些か厳しい断定ではあるが、なるほど、人間の資質のひとつである、というのは、有力な対処法であるだろうと感じた。
 
もちろんしょせん人間である。なにもかも原則通りにできるわけではないし、私もまた、まず決めつけて失敗した、ということが何度もある。だが、そういう失敗をしたからと言って、何もかも自分が正しいから始めるという気持ちはさらさらない。完全にタイプを分けてしまうのは厳しいとは思う。もちろん、妻もまた、機械的にそう分けているというわけではない。人間観察の、ひとつの手法として有効なものだ、ということが言いたかったはずである。
 
だから私は、単純に誰かが悪い、ということを言い連ねることはしたくない、というところからまずスタートすることをモットーとしている。だから、政府の対応がおかしいと言って、すぐに政治が悪いとか議員が悪いとか、そういう叫びを挙げるつもりもない。マスコミ報道も疑ってかかる。政治家も一所懸命やっている。それぞれに言い分があるだろうし、見ているところが違うということもあるだろう。
 
何かが報道されるとすぐに政治が一切悪であるかのように断ずる教会グループがあるが、私は苦手である。だから、教会単位で社会的な運動はしない、と説明した牧師がいたとき、それを決して生ぬるいとは捉えなかった。そして、政治の力に屈しないということは、しばしばそうした観点の信仰者によりなされてきた歴史を思い返した。むしろ、やんやと反対運動をしていたグループが、一旦支配されると掌を返したように国家体制に順応していったという歴史もあったのではないか、とも思う。
 
私が、何かがおかしい、とはっきり口にするのは、たいていただの思いつきではないし、相当な証拠をもって考えた末でのことである。どちらかというと、私は最初は、誰の言うことも信用するタイプなのだ。それで騙されたことも幾度もある。騙すよりは騙されるほうがいいのさ、と嘯いていたこともあるが、騙されたことで、また誰かを騙すようなことになることは、本当に申し訳なかったと省みている。
 
その私が、繰り返しおかしい、と言っていることがある。もちろん私自身が間違っているのではないか、としつこく疑った末のものである。それでも、自分がおかしいのではない、というところに流れ込まなければならない水路がそこにあったのだ。それはよほどのことだというわけである。お読みになる方は嫌気がさすだろうとも思うが、発言することが誠意だと思う限りは、考え尽くした点は明らかにするのが義務だと考えている。それを「預言者気取り」と非難する人もいるだろう。それでも構わない。然りは然り、否は否、なのである。ただ、それ以上のことは、とやかく言わないほうがよいかもしれない。

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