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「土」と「農」

今日はゲスト説教者。アジアを中心とした地域への支援者を育成する機関の代表者であった。もちろん、キリスト者である。私の理解が行き届かない場合、虚偽の情報を伝えてしまう場合があるため、団体名はここには示さないことにする。もちろん、誤りについては私の責任だが、その場合も、団体にご迷惑がかからないように、との配慮をしたいのである。
 
支援といっても、それは農業を基盤とするものである。直接の農業指導者であると共に、福音伝道の役割を果たすこともあるように聞こえたが、実際のところがどうであるのか、それについては上に記したように、明言できないものとしておく。
 
従って、紹介してくださったその機関については、ここに再録できないことをお断りしておくが、それ故に、そこからこぼれてきた福音という点について、私の応答という形で零してゆくことにする。
 
その育成のために、「共に生きる」というモットーがあることが示された。これもいまでは「よくある」言葉の一つであると言えようが、口先だけでそれを言い放つのと、汗水垂らしてそれを行っているのとでは、提灯に釣り鐘である。その一言を口にするために、どれほどの試行錯誤や失敗、努力の積み重ねがあったか知れない。
 
だから、「平和と和解へ至る道のり」を歩いているのだ、というような言葉の中にも、たんに「重い」などというレベルのものではなく、そもそも言葉にならないような涙や疲弊や絶望すら、折りたたまれていることを想像するしかないのだと思う。涼しいところでそれを聞く私たちは、せめて、それくらいのリスペクトを胸に、息を呑んで窺わなければならないのである。
 
その指導の中で、より具体的に目標としているものとして、「フードライフ」というものがあるという。食と命とは切り離せない、という視点がそこにある。それだけ聞くと、SDGsの考えのひとつの姿だ、というようにも考えられようが、そこには相手に対する敬意と、赦しと、それから和解が潜んでいる。これが、キリスト教精神に基づく、重要な注目点であると言えよう。
 
加害者から、権力や圧力を有するままに、和解を提示するというのは、筋が通らない。被害者が、赦しを宣言するところからのみ、和解への道の可能性ができてくる。その道の向こうに、平和が待っているかもしれない、と言うことはできるだろう。
 
最近、イマキュレー・イリバギザさんの本を読んだ。ルワンダ虐殺のときに、隠れて生き延びた証人である。その証言が、世界的なベストセラーとなった。ただそれらの本は、虐殺のレポートをしたものではない。家族を残虐な仕方で殺され、自身も隠れた生活で悲愴な姿になりつつも、奇蹟と呼んでよいような経緯で生還した。しかし、その現場で、彼女はただ「ゆるし」を与えてきた。カトリックの強い信仰が、神に祈りながら、「ゆるし」を神から与えられ、人に与えてきたのだ。
 
この農業指導者の育成機関においては、土との闘いがあっただろう。その「土」から、「平和」へと続く道は何か。もちろん、とても一言では言えない。しかしまた、何か言おうとすることを妨げられてはならない。
 
聖書は、創世記の、あの土地の管理の場面が引かれた。それは、人が神から与えられた初めての仕事であった。
 
主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。(創世記2:15)
 
歴史の中で、いつしか人間は、特に西欧社会の人間は、自然を支配する王となっていった。もちろん、それは決して信仰に基づかないものではなかった。神の栄光を称えるために、神の知恵を探究し、近代自然科学が始まった。神の国を実現したいと願い、聖書を原理とした社会を築こうとした。だが、人間の自然に対する力ばかりが膨らんでゆき、人間の思いは、当初の目的からどんどん逸れていってしまった。そのときにもなお、自分は神に奉仕しているものと思い込んでいたのである。
 
そもそも、「自然」を「人間」に対するものとして置いたことが、大きくずれていく原因であったと言えるかもしれない。時に、それを聖書に根拠をもつものとして示しつつやっていくと、まるで聖書の原理が悪であるかのように見なされる時代へと移り変わってゆく。地球規模で、危機が訪れたからだ。
 
説教者は今日、「土」という概念に留まっていた。賢明だと思う。ひとつの説教は、ひとつの概念を掲げるだけで精一杯であろう。創世記は、人間の自然に対する支配を根拠づけるものではない――そのことを言う神学も、近現代に慌てて現れてきた。人間がずらしていったとしても、聖書そのものがどう記されているか、について弁明をしなければならなかったのだろう。しかし、聖書そのものが変わったわけではない。聖書から聞く私たちの態度が変わるべきなのである。聖書の弁護のためでなく、私たちがこれから、聖書に絶大な知恵を見たいのだ。
 
説教者は、先の創世記の言葉にある「人がそこを耕し」の部分を、「人が土に仕え」の意義に受け取った。それは、土を偶像とすることではもちろんない。土を通して、神に仕えるのである。人間には、こうした「責務」があったのである。あるいは「責任」と呼んでもよい。
 
私たちは、自分の発言について、どこまで責任を負っているだろう。斬れば血が噴き出るような言葉を、私たちは発していると言えるだろうか。
 
有機農業のこと、人は自然の一部であること、私たちは本当に土の上に立っているか問うこと、そうしたことが次々と聞こえてくる。食することなしに、人は生きてゆくことはできない。その食を育むのは、土である。この土においてこそ、生きることそのものの根源があると見てはいけないか。「神の国」とは「神の支配」のことだ、と抽象的な説明がよくなされるが、「神の国」の基盤が「土」にあると言ってもよいのではないか。旧約聖書のイスラエルの民は、神に導かれて荒野を旅し、やがて土地を与えられ、その土の上に、民の歴史を築いていったのではないだろうか。そして、神の祝福は、地を受け継ぐことに外ならなかったのではないだろうか。
 
「土」を基盤に、命を考える。人はもっと「土」に近づくべきだ。しかし、近年人間はますます、土から遠ざかる生活をしている。泥団子に嬉々とした顔を見せる子どもたち、砂遊びに熱中する子どもたちは、まだいい。しかし園芸に趣味をもつのでないかぎり、学生から大人にかけて、土に触れることすら殆どない。土に触れずして、「土」から「平和」へと続く道は、始まるはずがない。それは、私自身もまた、省みなければならないことである。
 
しかし、「土」への着目はそれでよいとして、「命」にはまた、もう少し視野に入れておきたいことがある。私たちは、「土」を食べて生きているわけではないからだ。私たちは、日に日に無数の命を殺して食べて、そして自分が生きている。植物とて、殺していることには違いない。まして動物を殺していること、そこに目を留めると、今日の説教では触れることのできなかった、もっと大きな世界が目の前に迫ってくる。
 
中学3年生の理科では、「生物のつながり」という学習項目がある。生態系から食物連鎖を知るものだが、私はその生物ピラミッドの中に、人間が描かれない教え方に疑問をもっている。そのため、必ずそこに、人間はどうだろうか、と生徒に問い、気づかせるようにしている。あるいは、それに気づきながら、教科書にそう書いてあるから人間は気にしないでいいのか、と逆に開き直りの学習をすることに歯止めをかけるために、問うている。
 
それでいて、心通わせる家族としての動物もいて、それは虐待してはならない、しかし食物としての動物は殺すのは当然だ、と、人間は二枚舌を使い分けている。もちろん、近年は、屠殺においても、苦痛が少しでも減るように、という法的配慮ができてきているが、それだけのことが免罪符になるとは、私にはとうてい思えない。
 
農業は、植物を扱うだけではないだろう。直接畜産業に関わっているのかどうかは知らないが、その機関が、「農業」と限定せず「農村」という言い方を多用しているとするなら、私たちはさらに「動物」をどのように捉えてゆくのか、続きをお聞きしたいと思った。
 
なお、この「土」というテーマで、私はふと思い出した。『福音と世界』にその特集があったはずだ。それで探してみると、2022年10月号の特集が「土と農を愛する」というテーマだった。私はその中の、エップ・レイモンド&荒谷明子さん(有機栽培農園目のビレッジ長沼)による、「天のめぐみ、大地の力、いのちのつながり」という論文に、関心を寄せていた。「平和な社会の土台は土である」という確信が、そこには述べられていた。
 
そこでは、具体的に食糧不足の問題を挙げ、いまが転換期であると指摘する。これを「悔い改める時」だと呼んでいる。そうして「神の国は今ここに存在していることをただ信じて、土に生きる道を模索しています」と記している。
 
それから、李民洙(リ・ミンス)さんの「土と農を大切にする」という論文にも、心が留った。本来「土」と「農」という言葉が、農民にとって同じ意味をもつことを明確にした上で、その「農」を国家が手段として利用するようにしてきたのだが、「「農」とは自然の「いのち」を育んだ生態系の一部分である」から、手段化されることを拒否すべきである、と強く主張しているのだ。
 
そして、「土と農を大切にする」ために、やや概念的に傾くが、提言をしている。まず「メタノイア」という語についてである。もちろんそれは「悔い改める」と訳される語だが、イエスは「視点を移しなさい」と呼びかけているのだという。「人々の痛み、苦しみを共感できるところへ視点、立場を移す」ということが求められているのだ。それは「農」の見直しへと進む。「いのちを営む「農」を自分自身のように大切にしなさい」とまで言い換えたい思いがある、というのである。
 
もうひとつ「コンメンサリス」という言葉もそこで挙げられている。「食卓を分かち合う」という意味の語である。「食卓」とは「神の創造物」と筆者は理解する。だから「農」こそ、分かち合うべきものであり、「いのち」を分かち合うことの実行が、そこにあるのである。それはまた、やがてまた土に還る人間自身も、そこに含まれていることを想起させるはずである。
 
引っ張り出してきた、二年ほど前の雑誌ではあるが、やはり時々こうして振り返ることは大切だと思わされる。あのとき呼んだとしても、通り過ぎただけであった。これを再び見る機会を与えられたことを、素直にうれしく思う。そして、ありがたく今日も、食べ物を、そして命を、いただく幸せを感じるのである。痛みを覚えつつも。

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