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へりくだって祈れ

「交換講壇」と呼ばれるものがある。近隣の教会で、牧師が交替して、互いに別の教会で礼拝説教をすることだ。京都では、同じグループの教会がいくつかあったので、よく行われていた。事情が複雑なので詳しく説明することは控えるが、同一宗教法人で、直線距離にて6kmほどのところに、二つの教会堂があり、それぞれに牧師がいたため、月に一度交換講壇をする、という習慣をもっていたときもあった。
 
今回も、いろいろ複雑な背景がある。無牧の教会が近くにあった。この教会には二人の牧師いる。そこで頻繁に、どちらかを派遣する形で、牧師のいないその教会の講壇を支えていたのである。
 
だが、去年、しばらくぶりにその教会が牧師を招くことができた。今日はその牧師と、こちらのひとりの牧師とが、講壇を交換する形となった。その牧師にとり、ここで語るのは初めてであった。
 
若々しいお声ではあるが、実は今年で御年82となる。十年ほど前に、神学校に入ったという。しかも、夫婦揃ってという形で、稀有なケースとなった。
 
さて、その冒頭で、ここ4年にわたるコロナ禍というものを振り返った。教会に集えないことは痛いが、どうやら説教者は、それをかなり大きなことだと捉えている様子が感じられた。つまり、リモート参加は本物ではない、という感情が伝わってきたのだ。これは私の誤解だったら申し訳ないと思う。
 
入院中の人、福祉施設などで外出が難しい事情にある人などにとり、リモートでの礼拝へのライブな参加というのは、「福音」であったのではないか、と私は思う。その他、職場からその間だけ休息とさせてもらい、視聴するということは、私も経験した。遠方に住んでいても、また山奥に暮らしていても、出張中でも、自分の教会の礼拝に加わることは、私はなんら問題とすべきことではない、と思っている。通信手段の発達が実現させた、新たな事態である。
 
ただ、集えないことについての問題は、理解できる。互いに顔を見るというのもあるが、同じところで実際に交流すること、教会形成のための協同作業など、リモートではできないことは、やはりある。教会を建て上げるという作業については、実際に共にいることは、何ものにも替えがたいはずである。
 
説教は、サムエル記下の最終章における、ダビデの罪を舞台として展開した。人口調査について、司令官ヨアブは、王ダビデのその命令に疑問を抱いたが、ダビデの命令は厳しかった。しかし、神はこれをダビデの罪と捉えさせた。
 
人口調査が何故に罪であるのか。もちろん多くの研究者や神学者の知恵で研究されている。たぶんユダヤ教側の解釈もあるのだろう。だが、聖書が告げるのは、「民を数えたことはダビデの心に呵責となった」ということだけである。そうして自ら、「わたしは重い罪を犯しました。主よ、どうか僕の悪をお見逃しください。大変愚かなことをしました」と告白している。
 
このときに、神は先見者ガドを通じて、三つの選択をダビデに迫る。ダビデは「疫病」を選ぶことになる。結果的に、イスラエルの民に犠牲を払わせることになった。私はそこに別の検討の余地があるのではないか、と素朴に感じるが、説教者の眼差しは違った。説教者は、ダビデの「へりくだる」姿勢に的を絞った。救いは神にしかないというところへ目を向け、「へりくだり、神に祈る」ことが、この説教の本筋ということで現れることになった。
 
このとき、神を観念的に捉えることの戒めが聞こえた。歴史の中にイエスは現れた。この神は生きていた。否、私たちの信仰からすれば、この神はいまも生きている。人間が過去や未来と呼んでいる、そのすべてにわたって、神は存在する。在りて在る者たる神は、時間の制約を受けないのだ。そうなると、聖書に描かれているイエス・キリストを、いまここにいる私たちもまた、同様に経験することが可能なはずである。経験しなければならい。イエスと出会わなければならない。
 
説教者は、そのようなことを言おうとしたのではないか、と想像する。ただ、私には解せない表現があった。「神の実存的な愛」を知るのだ、というふうなことだったろうか。「実存」というのは、推測するに「現実存在」の意味であるのだろう。だが、説教者がかつて流行のように聞いていた「実存」という言葉の意味は、たんなるそういうものではない。同時代の会衆の多い中、その聞き手はやはり、実存主義のことが頭に浮かび、戸惑ったのではないだろうか。その際、一般の人たちは、「実存」が「現実存在」という意味だというふうには、あまり意識していないであろうことを鑑みると、適切な表現ではなかったのではないか、と考える。
 
今週の水曜日はレントである。「灰の水曜日」とも言われ、復活祭から主日の日曜日を除く40日の始まりを意味する。イエス・キリストの苦難を偲ぶ期間とする、教会暦である。それが、「へりくだり、祈る」ことへの導きとなったのではないかと思う。
 
共に開かれた新約聖書は、ルカ伝5章の癒やしの記事であった。屋根を剥がして、中風とされる患者を釣り下ろした話である。人がごった返していたので、室内のイエスのところに患者を届けるには、それしかないと考えたのであろう。屋根を剥がすことは、当時の構造としてはありうることではあったが、この患者の友たちが、なんとしてでもイエスに癒して戴こうという信仰をもっていたことが評価されるのである。
 
説教者は問うた。もしあなたがその現場にいたら、どうすればイエスの許に患者を渡せるか、思案をし、また行動しただろうか。それを胸に問うてみる必要がある。
 
それは、いまここに困難を抱えている人がいたとき、それを助けようと心底思案したか。行動したか。なにより、祈ったか。
 
例の皮膚病の患者が、イエスの前に跪く。「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と信仰を明らかにする。マルコ1章の終わりの記事が引き出された。ここから、救いが神にのみ、イエスにのみあるものと信じる信仰を浮き彫りにしたかったように話がつながったように聞こえたが、私の聞き間違いだっただろうか。目の前にイエスの業が起きているのを見ているにも拘わらず、このイエスの神性に気づかないのは、思い上がっているからだ、という指摘だった。人間の驕りと浅はかさは、このように神の業を知ることができない。「へりくだる」ことの大切さが、再び強調される。
 
ただ、私はもうひとつすんなりと、それらがつながらなかった。イエスの業を見ながら信じない指摘は、ヨハネ伝にはいくつもなされている。マルコ1章からは、その点についてはなかなか感じられない。むしろイエスの、腸がちぎれそうなほどに身を痛めるほどの「憐れみ」のほうを強く受け取りたい気がした。だから、神のみができる業については、元のマルコ5章を引き継いでいるものと捉えるようにした。
 
ともかく、説教は、「心からへりくだって、神に祈る」ことを勧めるものであった。「心を注ぎ出す」という表現も複数回聞かれた。それは、「困難」あるいは「苦難」の中にあってこそ、ますます必要になることであろうと思われる。
 
コロナ禍は、医療従事者や福祉従事者をはじめ、経営を破壊し、物価上昇をももたらした。そもそも、生命を奪われること、活動を制限されることは、人間世界への半端ないダメージを与えたのだった。中世以来、人間の移動があってこその社会となってからは、その移動と共に疫病も移動するという事態を招いた。そのため、度々疫病は、人類の活動に影響を与えてきた。いま私たちはその渦中にいる。まだ抜け出たわけではない。この中で、自分の力を頼って貪ることに警告を与えるメッセージが語られた、ということを受け止めておくことにしたい。
 
しかし、自分が育まれてきた環境こそが、唯一の真理なのではない。教会音楽はオルガンに限る、などという思い込みをする人がいるが、大した歴史をもつ楽器ではない。半世紀前の教会の常識は、いますでに非常識と見られることもある。変わるものと変わらないものを見据えるためには知恵が必要だ。私たちはいま、「へりくだる」ことへ向きをシフトしなければならないのだ、というメッセージであるのならば、「へりくだる」ことの逆である人間の有様をも、対照的に明確に映し出すことが必要だったのではないだろうか。いま変革期であるとして、私たちが当たり前だと思っていることの中に、「へりくだる」ことの反対のものが隠され、またのさばっているのではないか。私は、その眼差しを鋭く向けることに、説教者のひとつの責任があるのではないか、と思っている。
 
「へりくだる」がキーワードだったはずなのだが、用いられた聖書箇所には、「へりくだる」という言葉が見えなかった。また、「へりくだる」という言葉は新約聖書において、それが神によって逆に「高められる」という対比によって捉えられることが多い。「へりくだって祈る」という表現も聖書にはないが、何よりこのことは、ルカ伝にあった、ファリサイ派の人と徴税人の祈りの対比において、これ以上ないくらいに、はっきりと示されている。徴税人の祈りにおいて、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と祈った場面である。しかしこれにしても、自分の罪を神の前に示しているわけで、ダビデの場合と重ねることができるであろう。
 
このように、「へりくだる」ことと「祈る」ことにおいては、逆に神により高められることか、または自らの罪を告白することか、というシチュエーションが、聖書において設けられている。それはそれでよいのだが、私は、キリストの姿をここに鑑として掲げておくことにしたい。結局、このキリストもまた、へりくだることによって、高められることへとつながるのではあるが。

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