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自分というテーマ

諸事情で、今週も神学生の礼拝説教となった。リモート対象者にはなかなか情報提供の点で親切さを感じないことが多いが、どういう方なのか推測する要素もないので、どのように聞いてよいのか少々辛い気持ちにもなる。もちろん、取り次がれた聖書の言葉をただ受ければ良い、というのは本当ではあるが、説教の技術にしても内容にしても、初心者だから仕方がない、と考えてよいのか、このまま牧会に間もなく入るというのならよろしくないのではないか、と評すべきか、その辺りは悩ましいところである。
 
旧約と新約と両方から聖句が掲げられるのが通例である。旧約のエレミヤ書が先に挙げられたが、そちらについて説かれることはなかったように思う。それは構わないが、あまり関連性も伝わってこなかった。パウロ書簡のフィリピ書のほうは解説もあったが、学んだことをきちんと語ろうとするのは、学生らしかったとは言えるだろう。
 
関心は「私」ないし「自分」というところにあることは、説教題からも窺えたし、説教全体もそこに終始していたから、一貫したものは感じられた。しかし、私たちの「自己中心性」ではよろしくないのであって、キリストが中心である、という、信仰の表明として大変立派な心がけで単純に終わってよかったのかどうか、には疑問が残った。
 
というのは、キリストの中にこそ本当の自分を見出すことで安心できる、というところが結論にあったらしいからである。「本当の自分」とは何だろう。いっとき、「自分探しの旅」というものが精神的な次元で流行したことがあった。依然としてそれはあるのかもしれない。信仰とは、「本当の自分」を見つけ出すことなのだろうか。それは、依然として一種の「自己中心性」に過ぎないのではないだろうか。
 
同じパウロは、キリストが私の内に生きている、という境地をガラテヤの人々に対して突きつけた。ここに私がいるのは、否定する必要がない。しかしそれは「私」というものが生きているわけではない。「私」はキリストの十字架と共に死んでいる。復活のキリストこそが生きているのだ、命あるものなのだ、だから命は永遠なのだ、そのような形で、キリストこそが中心である、というように捉えられるのではないだろうか。
 
もちろん、その人なりの捉え方があってよいのだから、何が正しいとかどうとか言うつもりはない。私がそこから何かを受けて、応えればよいだけの話である。だから、そういうものとしていまぶつぶつ言っているだけのことである。「キリストを得、キリストの内にいる者と認められる」というところを説明しようとしたのだとすれば、それはそれでよいのかもしれない。但し、聞く側は、説教題とつねに比較しようとするものである。「キリストの内に」は「キリストにあって」のような可能性があり、キリストの内側にという図式で説明できるかどうかは分からない。聴き手がいろいろ心に思い浮かべるかもしれないことを想定しながら、先手先手で説明を加えていくということは難しいが、やがてそうしたことを身につけていくようになることを望みたい。
 
聖書協会共同訳はいろいろ画期的な変更をもたらした。新共同訳と殆ど変わらない、と壇上で強調した人がいたが、たぶんお読みになったこともないし、日本聖書協会の出版物にも関心がないのだろうと思われる。しかしこちらでは、例の「イエス・キリストの真実」をきちんと見ていた。元来の「イエス・キリストを信じる信仰」を、比較的近年よく言われるようになってきた、属格の解釈に基づいて「イエス・キリストの真実」と訳した点である。かつての姿は自分中心の角度であり、後者はキリストが中心になっているように見受けられる、というのである。パウロは両方を頭に置いていたのではないか、と私は推測しているが、もちろんこれも素人が決めるべきことではない。ただ私は両方を大切にしたい、と思っているということだ。
 
ただ、もし説教者が言うように、自分中心ではいけないのであって、キリスト中心がよいのだ、という形で結論づけようとするならば、この解釈も、「イエス・キリストを信じる信仰」ではいけないのであり、「イエス・キリストの真実」としなければならない、ということになってしまうだろう。対比構造の話のときには、聴者は自然と、「それはどちら側のことなのか」を振り分けて考えるようにするからだ。恐らくそのつもりではないのではないか、と思うのだが、事例を持ち出すとき、特にこのように「対比」で語るときには、その「対比」の図式で聞く側が受け止めてよいかどうか、そこは慎重に扱わなければならないだろう。
 
いろいろ家庭におけるエピソードもあり、また、世間で時折言われること、つまり「心の弱い人が宗教を信じる」という偏見にも触れていた。確かに一時心の弱さ云々はあったが、それに対してキリスト教界も、ステレオタイプの回答をこれまでもたくさん返してきた。やや古めかしい図式に見えて仕方がないが、それはともかく、結論としては、信じることで強く立つことができるから弱いのではない、というような方向に走ったように思う。
 
だがそれでは、終始「弱い」のはよくない、という価値観をもつ点で、ある意味で同じではないか。むしろ、新約聖書から私が受け取ったのは、私は弱いがキリストは強い、という事実であった。私が弱いのは当然であり、それを否む必要はない。ただ、神は強い。キリストは強い。あのような弱い姿を晒されたが、そこには強さがあった。私にはキリストのような真似はできない。だからこそ、いわば代わりに成し遂げてくださったのだ。宗教を信じるのは弱くない、強いのだ、という言葉が無意味であるとは思わないが、それを強調することは、私だったらしたくない。というより、私は事実弱いのだから、できない。キリストにあって強い、というあり方を拒みはしないが、それだとやはり中心には自分がいるような気がしてならない。強いのはキリストだ、とすることによってこそ、キリストが中心であるということにはならないだろうか、と思う。
 
さて、最後に「語る」ということについてである。懸命に原稿を読もうとする姿勢は、初々しいもので、とやかく言うべきことではないことかもしれない。ドキドキだったことだろう。息の様子や、度々読み間違えては「すみません」のような言葉が零れることからも、それは窺えた。初めてかそれに近い形で講壇に立ったのなら、全く問題ないから、また慣れていけばよい。度胸もついてくることだろう。
 
しかし、度胸がついてきても、癖や方法は変わらないかもしれないので、余計なことを告げようと思う。それは、ずっとただ作文を朗読しているような「読み方」であった、ということだ。原稿はあってもよい。だが、「これを伝えたい」「ここで少し考えてほしい」といった思い、実はそれこそがメッセージなのである。簡単に言うと、メリハリが必要だ、ということである。語る速度を変える。声の大きさを変える。会衆全体に視線を這わせる。こうしたことで、いったいこの説教で自分から何を伝えたいかをはっきり示すことが必要なのである。というより、伝えたいことがあれば、自然とそのようなことが変化するはずではないだろうか。
 
私は学習塾で子どもたちを相手に日々話をしている。自分が正しいことを話していれば、それで仕事が成り立つわけではない。生徒一人ひとりに、知識が伝わり、解法が身につくのでなければ、何も話したことにはならないのである。だから、先程から申し上げているようなことを絶えず実践している。そうしなければ仕事にならないのである。伝わってなんぼの世界であるからだ。
 
「私」という問題は、青年期において重大な「気づき」である。私とは何か。問わざるを得ない。私はどこから来て、どこへ行くのか。私は何を知ることができるか。私は何をすればよいか。何を望んでよいのか。哲学の基本的に問いが集まっている。自我の目覚めに始まり、自己意識が強くなる。私も自己中心を尽くしてきた。いまなおそうであるかもしれない、とすら思う。ただ、キリストに出会ったときに、自己中心的であることを突きつけられ、その愚かさについて鉄槌を下された。神という他者、しかも絶対的な他者(この表現は表向き矛盾しているが、いろいろ深い考察も多分に含まれている)の前に引きずり出されたとき、自分というものを思い知らされたのである。
 
単純な教義の言葉の結論に急ぐ必要はない。説教ひとつで、何か重大な発見や結論を示す必要もない。「本当の自分」を見つけ出すというのは、そう簡単に言ってしまえることではないだろう。但し、「信仰」というものは、確かにそのような体験をすることだろうし、その喜びを与えられる。だから私はその体験を何も否定はしない。しかし、その体験ですべてが終わるわけではないのが通例である。また何か問題が起こり、悩みを抱え、それからキリストにあってそれを乗り越えて、キリスト者の歩みは進んで行くだろう。「本当の自分」を見つけた、救われた、喜びましょう。それでおしまい、ということにはならないのではないか。
 
より大切なことは、これまでもキリストが共にいて、いまキリストが共にいて、これからも共にいるということ、それへの確かな信頼ではないかと思う。神の言葉がいまここで語り、語られる。それが私の内で出来事となり、生きて働く。私が生かされ、世界が生かされる。私はそのことを「知る」。この「知る」が、知識だけのことではないのは、言うまでもない。

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