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イエスの言葉を思い出す (ルカ23:50-24:12)

◆復活はあるのか

キリスト教について、奇蹟が信じられない、と言う人がいます。そもそも「奇蹟」とは何か、問い直す必要もありますが、しかし聖書の記事の中の不思議さは、現実のようには思えないし、癒やしでさえ、どうかという気がすることは、理解できないわけではありません。ただ、奇蹟の中でも、イエスが「復活」したというのは、どうも子どもじみているほどに、ありえない、という声も聞くことがあります。
 
子どもじみているというと、その子どもたち自身は、昨今、簡単にリセットする術を知っています。ゲームをリセットしているうちに、命についても、死んでも復活することができる、と当たり前のように思うのではないか――「命を大切にしよう」というキャンペーンが大人たちによって時折声高に叫ばれるのは、そういう懸念があるからかもしれません。
 
子どもの命が失われていく、というのはたまらないものです。その当事者がいらっしゃるかもしれませんから、分かったような口を利くことはしないでいるつもりです。
 
子どもたちが命をリセットできると錯覚できる、ということが大きく社会問題のように言われたのは、私の記憶では、半世紀余り昔のことです。「たまごっち」が大流行しました。育成型ゲームですが、世話が行き届かずキャラクターが死んでしまう事があります。けれどもリセットすると、また生き返るようなふうにゲームが続行できるのだそうです。
 
ですから、素朴に、死んでも生き返る、というルーチンが営まれるわけで、その点から大人たちが心配した、というわけです。ほかにも戦闘もののゲームは、コンピュータ的なものでもカードゲームでも、こうした復活が当たり前のようにルール化している場合がありますし、アニメでも、以前お知らせしたように「転生」(どういうわけか「てんしょう」という読み方はしないのですが)ものは、いまもひとつの王道を進んでいます。
 
私は、子どもがそんなに単純に考えているわけではない、とは思います。でも、確かに一部の子どもが、一時的にそのような信じたことがある、ということは否めないだろうと思います。ごく一部、戦慄的な行為に出た者もいたことは間違いありません。
 

◆ヨセフという議員

イエスの死を見届けた人々を、受難週の礼拝においてお話ししました。とくに女性に光を当てたことを、覚えておいででしょうか。今回も、その女性の動きを中核に据えます。女性に叙述が傾いていると言われる同じルカによる筆ですから、それも当たり前かもしれません。女性たちをメインに、イエスの復活と出会う物語を、私たちも生きていきたいと願います。
 
イエスは十字架の上で息を引き取りました。親しい人の中にも、イエスのこの死を見届けた人々がいました。その中で、ただ悲しむ云々ではなくて、現実的な問題に対してまず動いたのは、ヨセフという議員でした。
 
ユダヤの議員ですから、いわば祭司長などの支配下にある人間です。それでありながら、イエスを攻撃する群衆の一部にはなりませんでした。彼らに「同意しなかった」というのは、消極的であるように見えるかもしれませんが、勇気ある態度であり、よく頑張ったと私は驚いています。現在でも国会議員は、党の決定に反対することはできませんが、「同意しなかった」ということがあろうものなら、大きなニュースになるからです。
 
この人がいなかったら、復活劇はずいぶんと違ったものになっていたことでしょう。イエス遺体は、遺体置き場に捨てられるのが通常でしたでしょうし、墓という密室がつくられたからこそ、神秘の復活の出来事がお膳立てされるに違いないからです。ヨセフ自身が意識していたようには考えにくいのですが、ヨセフのこの願い出が、確かにイエスの復活を証言することになったのです。
 
ヨセフの「したこと」を列挙してみましょう。まず、ピラトに「願い出た」。それから遺体を墓の中に「納めた」。ヨセフがしたことは、以上です。ヨセフのしたことは、ごく簡単なことでした。もちろん、先ほども触れたように、それを願い出るということには勇気が必要です。他の議員たちがイエスを敵としている中で、イエスの肩をもつようなことをしゃしゃり出ると、自分の立場が悪くなります。危険だ、とも言えます。しかしヨセフは願い出ました。それから、イエスの遺体を墓に納めました。
 
ヨセフは、意識していなかったでしょうけれども、復活の舞台を用意したことになります。神は、必要な人材を選び、用い、神の出来事の中に配置していくのです。
 

◆金曜日の女たち

54:その日は準備の日であり、安息日が始まろうとしていた。
 
日没からが、ユダヤの新しい一日の始まりです。ここは、聖書協会の訳では区切りにしていませんが、私はいまここで区切ることにします。それは、ここからカメラが女たちを映すからです。
 
イエスと共に、ガリラヤから旅してきたのは、男の弟子たちばかりではありません。女性もいました。さすがに新共同訳の「婦人たち」という語は、現代では使い辛いのでしょう、「女たち」という言葉が新しい訳で使われています。女たちは、イエスと弟子たちの旅の生活を支えていたものと推測できます。
 
偉大な芸術家には、その食事を毎日つくっていた召使いがいます。貧しい芸術家の場合には、妻がその役割を果たしていたと思われます。たとえば画家の生涯の物語に、時々出てきます。洗濯や掃除に勤しみ、何よりも食事の世話をしてきました。
 
芸術活動に、またそのために神経質になる夫のために、いつも気を使いながら暮らしてきた家族がしばしば存在します。けれども、それが知られることは稀です。逸話では時折見え隠れすることがありますが、逆に夫に仕えなかった妻は、モーツァルトの場合のように「悪妻」と叩かれて名が知られるのがオチのようです。
 
苦労した女たちの故に、偉大な芸術が完成した一面があります。でも、妻に光は当たりません。イエスの旅でも、そうです。かろうじてこのように数名の名前が遺ったのはまだよいほうですが、彼女たちが衣食住など生活の世話をした、ということは文字では記されません。福音書はそうした生活の背後については何も語りません。
 
この女たちが、イエスの死後「したこと」をピックアップしてみましょう。まず、ヨセフに「ついて行った」。墓と埋葬に様子を「見届けた」。そして帰宅して、香料と香油を「準備した」。安息日に仕事をしてはならない規定がありますが、こうした準備は認められていたのでしょうか。それとも、安息日が明けたところで、そうした活動をしたのでしょうか。
 
56:女たちは、安息日には戒めに従って休んだ。
 
だから、安息日の規定は守ったはずです。仕事と呼ばれ得ることを少しもせず、穏やかに一日を過ごします。沈黙の時間を過ごします。
 

◆日曜日の女たち

その安息日は、土曜日の日没で終わります。そこから活動することは認められますが、なにせ昔の夜のことです。基本的に真っ暗でしょうし、夜に墓に何かをしに行くということができるとは思えません。城門は閉じられています。しかし、夜明けにその城門が開くとすると、もう明けきれぬ前にも、気が急いて、出かける姿勢を見せていたことでしょう。それが「明け方早く」という言葉から窺えます。
 
ただ、墓には重い石が蓋となっており、それを転がさなければ、中に入ることはできません。その心配を相談していたのが、マルコです。しかし不思議なことに、マタイもルカも、女たちのその心配の記述をむしろ消してしまいました。女たちは、無邪気に、香料を手にして「墓に行った」のでした。
 
女たちは、「ついて行った」「見届けた」「準備した」、そして日曜日の夜明けと共に、「墓に行った」のでした。
 
墓とは横穴式の洞窟だったと思われます。死海文書が発見されたクムランの遺跡は、いまもそうした姿を教えてくれます。女たちが心配すらしなかったその墓の石の蓋は、脇へ転がされていました。
 
マルコの女たちは、驚き、また天使と思しき若者たちの言葉に、激しい恐怖を覚えています。実質、その言葉がマルコ伝の末尾と見られているのですが、ルカの女たちはそうした恐れを見せません。怯みません。なんと墓の「中に入った」のでした。女たちの感情についてルカが無頓着であるのか、それともこの女たちの胸の中に、イエスへの信頼か信仰のようなものがあることを描いている、と読むことも可能でしょう。ずっと一緒に旅してきた先生に会いたい気持ちの強さのためだ、と理解してもよいのだと思います。
 
しかし、女たちは「途方に暮れた」のでした。遺体がないのです。先生のからだはどこに消えたのか、心配です。否、誰かが遺体を持ち去ったのだろうか、と考えたかもしれません。この驚きは、イエスが復活してそこにはいない、という予想が含まれてはいません。そこにあるべき遺体がなかった、そのことを意外と受け止めているのです。
 
そのとき、二人の人が現れます。輝く衣を着た二人です。それで、女たちは「恐れて地に顔を伏せた」といいます。不思議な二人は、イエスの行方を女たちに教えました。ここで、イエスがどうなったか、が明らかになります。
 
6:あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。
 
遺体がここにない、ということの意味が、「復活」という言葉で説明されました。それから天使らしいこの二人は続けます。
 
6:まだガリラヤにおられた頃、お話しになったことを思い出しなさい。
 
女たちは、思い出すことを命じられます。何をか。「人の子は、必ず罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活する」ということを、です。イエスがそのように口にしていたことを、あなたたちも聞いていたはずであろう、というのです。このことから、女たちが、旅の生活で常にイエスと共にいたことがはっきりします。正にイエスに従っていたのです。
 

◆女たちのしたこと

ペトロがイエスを諫めたあのときのことを、思い出せ。十字架につけられ復活するという、謎の言葉を思い出せ。生活の中で、誰よりもイエスのそばにいた、とも言える女たちです。いつもイエスの言葉を聞いていたのです。だから「思い出せ」と二人は命じます。
 
人は、すっかり忘れていることがあります。私はよくあります。教室から職員室に何か用があって降りてきたとき、誰から話しかけられでもしたら最後、「はて」と立ち尽くすことがあります。何のためにここに来たんだっけ。
 
聖書をいくら読んでいても、それを覚えているわけではありません。だから礼拝説教が語られます。それを聞いて、神の恵みを思い出すことができます。もちろん、初めて聖書の言葉の意味に気づかされることもありますし、説教が語られるその言葉によって、神と出会うこともあり得ます。神は言葉として現れもするのです。。
 
哲学者プラトンだったら、人はイデアの世界を元来知っているのだが、それを想起するように知を愛そうではないか、とその学園で話していたと思われます。無学な少年でも、少しずつ導けば、自ら幾何学の問題を解くことができるようになる、などという例を挙げることもありました。
 
8:そこで、女たちはイエスの言葉を思い出した。
 
はっと気づくのです。自覚したのです。意識の内に、イエスの言葉が蘇ってきます。そうすると、人間は行動を起こすことができます。いわば確信をもった、とでも言えばよいかもしれません。意識していなければ、自分のすることについて自信がもてません。何のためにそうするのか、という目的意識は大切です。学習でも、そのことは大いに用いられます。大人もまた、近年「モチベーション」などと言って、自分の目的意識を大切に扱うようになりました。
 
9:そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。
 
女たちは、弟子たちがいるところに「帰った」とき、弟子たちメンバーに、事の次第をすべて「知らせた」のでした。
 
ルカは女たちの名を並べます。「マリア」という名は、よくあったのでしょうか。何人もいます。女たちはこれほどイエスの生活を支えたのに、立場としては「弟子」扱いをされるかどうか、というレベルです。それに対して、選ばれた「使徒」という者たちがいます。その使徒たちに、女たちは「話した」のだと言います。
 
ここまでが、女たちの「した」ことです。二人に出合った女たちは、「思い出した」。そして、「知らせた」のでした。
 
女たちの「した」ことを、改めて振り返ります。女たちは「ついて行った」「見届けた」「準備した」、そして「墓に行った」。しかし「墓の中に入った」「途方に暮れた」、そこで二人が現れて、「恐れて地に顔を伏せた」後、「思い出した」のでした。そして最後に「知らせた」、これが女たちの「した」ことです。
 

◆弟子たち

まずヨセフ、それから女たち。それぞれが、何を「した」か、に目を向けてきました。最後にここからは、弟子たちが「した」ことに注目します。
 
女たちが、墓についての情報を知らされました。これを聞いた弟子たちは、何を「した」でしょうか。
 
11:しかし、使徒たちには、この話がまるで馬鹿げたことに思われて、女たちの言うことを信じなかった。
 
衝撃的です。「信じなかった」のです。いえ、それがこのときの弟子たちの確かな姿だった、と言えばそれまでです。ただ、ペトロが特筆されています。「もう一人の弟子」と一緒に走ったことがヨハネ伝に記されていますが、ルカはペトロ一人であるように描いています。
 
12:しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。
 
弟子たちは「信じなかった」のですが、ペトロは、墓へ向けて「走った」。墓の中を「覗いた」。イエスの遺体がそこにはないのを見て、ペトロは出来事に「驚いた」。そして家に「帰った」。これがペトロの「した」ことです。
 
聖書は、人間のすることに対して、必ずしも理想を盛り込みません。むしろ人間のダメな姿、罪のカタログが聖書だ、と言っても過言ではないでしょう。ペトロが墓へ走ったとき、もしや復活か、という思いが少しでもあったのかどうか、私には分かりません。それを神学的に決定する資格は、私にはありません。たぶん意識まではできなかったのだろう、というのが私の眼差しです。
 
それでも、ペトロには、良いところがありました。目で見て、素直にそれに驚きました。但し、女たちは「一部始終を知らせた」のでしたから、「三日目に復活する」と言われて女たちが思い出した、という話を、ペトロは聞いているはずです。何かむずむずするような感覚が、心にあったのではないか、と私は想像します。はっきりとした信仰という形ができてはいないにせよ、主のあの言葉の意味は何か、とむずむず思い巡らせていたのではないか、と思うのです。
 

◆次へ進むために

聖書は概して、男たちを中心として、それを当然として書かれています。人数は男の数だけを数えます。罪も、男だからこその罪として、律法は延々と描きます。当時の社会が男の社会であったから、それも仕方がないことかもしれません。でも、いまも人間社会は男中心であるままだ、ということを考えておく必要はあるでしょう。
 
聖書を読むことについても、いつの間にか、男の目線で読んで当然なのだ、というふうに、男である私は思いこんでいたのだと思います。いくら、女性を大切に扱う、などと綺麗事を言っても、歪んだ男中心の視線でしか捉えていないのだと思います。ルカ伝は女性を重んじている、などという贖宥状のようなことを安易に信じているのも、そうです。
 
ルカ伝でも、どうしようもなく男中心でしか書いていないのに、自分は女を尊重している、というポーズをとるために、そんなふうに都合の好いことを口にするわけです。ちょうど、教会はLGBTQの人たちを応援します、などという態度をとるのと同様です。彼らを痛めつけてきたのは、キリスト教会自身であったことなど、少しも気にしないで、社会の動きに合わせて、正義の味方を自称するのです。
 
戻りましょう。イエスの復活のとき、男たちは、大したことをしていませんでした。むしろ、「墓」にしがみついているように見えて仕方がありません。ヨセフは墓のことばかり考えていました。それは復活のお膳立てであったにせよ、ヨセフには墓しか見えていませんでした。ペトロは墓を確かめに行く行動力がありました。しかし、驚いてただおとなしく帰るしかありませんでした。
 
しかし、女たちはそこから次へ進む動きに満ちています。女たちの行動には、勢いがあります。
 
女たちの「した」ことを、もう一度振り返ります。女たちは「ついて行った」「見届けた」「準備した」、そして「墓に行った」。しかし「墓の中に入った」「途方に暮れた」、そこで二人が現れて、「恐れて地に顔を伏せた」後、「思い出した」のでした。そして最後に「知らせた」、これが女たちの「した」ことです。
 
これは、示唆的です。教会に行くようになったとき、誰かに「ついて行った」ことでしょう。そこで大切なことを「見届けた」のであり、それからどうやって求めていくか「準備した」かもしれません。それから「墓に行った」「墓の中に入った」というのは、それぞれの人にとって体験が異なることでしょう。自分の罪を知り、自分の罪に死んだという場合もあろうかと思います。「途方に暮れた」のも当然です。
 
そのとき神と出会います。「恐れて地に顔を伏せた」ことでしょう。それから、聞き知っていた聖書の言葉の意味が初めて身に迫るのです。いわば「思い出した」ことになるでしょう。聖書に書いてあった言葉を「思い出した」ら、それが自分のことだと分かります。自分が新しく生まれ変わります。これを自分の体験として、信仰の証しとなるような形で、「知らせた」のでした。今度は伝道となります。そう力を入れなくても、自分の救いについて、証しという形で「知らせた」のであってよいのです。福音を外へ向けて知らせるのです。
 
神の側から復活の意味を解くことも、ひとつの恵みです。けれども私には、神の秘密を暴くような真似はできません。神の僕の、そのまた下っ端であり、かろうじて神の領域に引っかかっているだけのような者です。私にできることは、せいぜい、私に与えられた恵みを解きほぐすことくらいです。真実与えられたことを、そのままに告白することくらいです。
 
最後に弟子たちの側に立ってみると、復活すると言った主イエスの言葉が真実だったのではないか、という知らせを受けたことを、「馬鹿げたこと」だとは思うまいと考えます。ペトロのように、自分の目で見たいという行動を起こすようでありたい者です。しかし、中を覗いて亜麻布があるだけで、主の姿が見えないからといって、「驚きながら家に帰った」のでは、もったいないような気がします。
 
この復活の朝を記念する礼拝の後、あなたは変わることができます。ただ物語を聞いた、というだけで終わらないようにしましょう。映画を観ただけで、何か勇気が湧いてくるということさえ、私たちは経験しています。ましてこれは、命の言葉です。信じられないようなことを、信じることの大切さを受けた礼拝です。イエスの言葉を思い出した女たちの姿に、励まされたいものです。
 
イエスの言葉を、私たちも改めて思い出しましょう。イエスの言葉を噛みしめ、自分の魂の中にそれが命となって注がれることを、見届けましょう。復活とは、起き上がること、立ち上がることです。そう訳されることもある語です。今日この朝が、イエスと共に、あなたが起き上がり、立ち上がる朝となりますように。イエスと共に旧い自分が死んだ後、イエスと共に立ち上がらされますように。そう、切に願っています。
 
そして、知らせましょう。このよきおとずれを、まず自分の魂へ、知らせましょう。それから、あなたの大切な誰かへ、知らせるのです。

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