なくしたけれども
大学時代、柄にもなく偶々ブランド品のポーチを買ったことがある。大学生協でプラトン全集の「法律」(私にはかなり高価だった)を購入して、そのポーチに入れて持ち帰っていた。日が暮れて、住まいの近くの電話ボックス(いまあるのかなぁ)で電話をして、帰宅した。
と、ポーチを持っていないことに気がついた。そうだ、電話ボックスで電話機の上に置いたのだった。歩いて5分とかからないところだったが、ポーチはなかった。
なけなしの額を払っての本でもあった。落ち込むこと限りなかった。そのダメージは自分で思うよりも大きく、以後その本を買うこともできなかった。何十年か経って、ようやく古書で手に入れた。コロナ禍の中、全集を全部読むためだった。
先日妻が、ショッピングモールで涙目でやってきた。私と別行動で、買物をしていたのだが、トイレで、エコバッグを忘れたのだという。戻ってみたが、なかった、と。
お気に入りのエコバッグ、その中にももうひとつバッグが入っていて、特にその中のもののほうが、特に愛していたものだった。
商品は入れていなかった。入れていたら、見落とすことはないのだという。だが、気づいたらそれらを手に持っていない。そして、どこに置いたか、どこまで持っていたか、記憶がない。こういうとき、焦れば焦るほど、記憶が混乱するものである。
私は冷静に応対した。もちろん、責めるようなことはひとつも言わなかった。諦められない妻の気持ちを察したので、一緒に行動することにした。トイレも別のルームまで見たが、ない。では、トイレではなかったのか。
訪ねた店――ユニクロに、行ってみることにした。途中、モールのインフォメーションセンターがあったので、そこで訊いてみたが、届いてはいなかった。書面で捜索をお願いした後、ユニクロに行ってみた。自分の動いた売り場を辿るが、あるわけがない。店員さんに相談してみることにした。
少しして、店員さんが、二つのエコバッグを持ってきてくれたとき、妻は小走りに受け取りに行き、頭を下げていた。どこにあったのか、真相はついに分からなかったが、セルフレジの可能性が高い。それを誰かが届けてくれたのだろう。届けてくれた客もありがたいが、ユニクロの動きも見事だった。
日常当たり前のように使っているものも、いざ紛失すると、大きなダメージを受けるものである。そのとき初めて、いかに大切であったかが分かる、という真実も知る。また、自分が如何に不注意で散漫なのか、自信をなくすこともある。私もどれだけ自分を責めたことか。
諦めず、求める気持ちが、人の好意と相俟って、妻の手元にバッグは戻ってきた。戻る途中で、インフォメーションセンターに、見つかったことを報告すると、安堵の息を吐いた。
私は、きっと見つかる、とも言わなかったし、見つからないだろう、とも言わなかった。ただ横にいて、一緒に歩いていた。心の中で、見つかりますように、との祈りはもっていたが、あのお気に入りのをまた買うといくらかかるかなぁ、などとも考えていた。不信仰なのかもしれない。
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