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チョコレートのように甘くない話

バレンタインデーが今年も話題に上る。チョコレートの祭りだとなってから、たぶん半世紀以上になると思う。ところが最近、だいぶムードが変わってきた。女性から男性へチョコレート、という安直な図式が、必ずしも成り立たないというのだ。
 
ジェンダーの問題であれば、まだ社会的な意味合いもあるのだろうが、そうでもないようだ。男女関係なく、というのもあるようだし、自分へのご褒美、というものも少なからずあるらしい。推しチョコなるものも顕著になってきて、芸能人の許にわんさか送られてくるのだともいう。もちろん、チョコレートに限らず、他のお菓子やグッズ、酒、などというのもあるが、これは以前から多い。
 
チョコなんて、と背を向けていた若い男の子が昔いたが、僻みだろう、との評価があった。チョコなんか意味がない、などという「思想」を、多数派の前で公言するのは、とても言いづらいことだったのだ。
 
だがいまや、平然と「チョコなんて意味がない」という「思想」が、言えるような雰囲気になってきた。大多数の常識に反することを言えば異端扱いされるが、それが必ずしも多数とは言えなくなってきた場合、かつての常識を打ち破る新たな「思想」は高評価され、やがてそれが少なからぬ多数へと変貌する。このことは、社会的な「よくある」現象であるように感じる。
 
みんなが言わないことは、言いにくい。だが、みんなが言い始めたら、容易に言える。こうして、非常識と非難された「思想」さえも、一度メジャーになり得る権利を獲得すると、何かの拍子にそれが一気に広まり、それが新たな常識へと成り代わる。
 
何がどのようにキャスティング・ボートになるか、分からない。だが、世の動きや他人の様子を観察して、安易にそれに同調する者が多いと、世の中は簡単に動いてしまう。天秤の針が、逆方向にどっと動いて、社会がかつてと全く違う方向に走り出すことがあるのだ。自分の「思想」に頑固であるほどの言行を保持できない者は、簡単に宗旨替えを行ってしまうのだ。
 
この心理的なからくりは、たいてい自分自身では意識されていない。その都度、自分は適切な判断をした、という自己正当化をすることにより、自身の精神を安定させる。その意味では、キリスト者が必ず経験する「罪の意識」や「悔い改め」というものは、やはりかなり特殊な、特異な事件であるのだ。
 
歩きタバコについて、昔、いくら訴えても、世間は耳を貸さず、何の見向きもしなかった。だが、いまは殆どいない。タバコが値上がりしたから、ということでそこまで減りはしないだろうと思う。もはや歩きながらタバコを吸わないことが、常識となったのだ。これは、よい方向に変わった例である。もちろん、かつてどうして人々がそれの非を明らかにしなかったのか、不思議ではあるが。
 
エスカレーターを歩く者は、まだ少なからずいるが、減少傾向にあることは実感する。最初は、啓蒙が始まってもなかなか減らなかったが、時間が経つと、じわじわと少なくなっていると思う。
 
電車内で、ドアや壁に背を向けることは、まだまだこれからだ。ネットでは、それが迷惑だという声がそこそこ挙がっているが、メジャーではないらしい。一般のエレベーターでドアに背を向ける人は、まずいないのだが、電車では、実に迷惑なのだが、その手の人間は相当いる。これもいつか、非常識だという認識が広まるのだろうか。早く広まってほしいものだ。
 
善悪とは何か。それは、場所や時代により異なるものである。情況によっても大いに異なる。「人を殺すのは悪に決まっているだろう」とお考えになるかもしれないが、そうではない。戦争では、人を殺すのが善なのである。死刑制度も、そうである。倫理観が実に様々であったとしても、何ら不思議ではない。
 
善悪や倫理観が、著名人の一声で動くこともある。「不倫は文化だ」の一言でも、小さくない影響を与えたに違いない、と思う。但し、当然それも非難されたり、呆れられたりした経緯はある。が、いまだに言及されることがあるところをみると、やはり何かを動かしたのだ。こうした声が、いまならネットという速攻動くメディアにより、炎上することもあるが、他方神対応されることもあるが、その境界線は紙一重であるような気がする。
 
キリスト教会の中では、いまLGBTQの味方のような顔をしているところも少なくない。聖書にはそれがこう書いてある、と力説すれば、教会が社会的に攻撃されることが分かっているのだ。だが、いくらいま味方をしていても、そうした人々を糾弾して、これまで追い込んできたのは、紛れもなくキリスト教会なのである。恰も保身のためと言わんばかりに、手のひらを返したように、人権だの多様性だのいう言葉を楯に、正義の味方となっている。元来迫害してきた当人が、身を翻している好例である。そしてこれが、私が先に、自分では意識しないままに、「思想」を簡単に変えてしまう、と言ったひとつの意味なのである。
 
皮肉なことに、教会が、安易に「宗旨替え」をしているのである。だが私はなにも、教会が「思想」を変えてはいけない、と言っているのではない。「罪の自覚」と「悔い改め」が、そこに必要だ、と言っているだけである。
 
信仰や教会は、人間の業である。それが常に正しいとするわけにはゆかない。自己正当化がいつまでも続くわけではない、と言っているのである。こういうときに、悔い改めをする、というのが、教会の教会たる所以であると思う。
 
世の組織は、涼しい顔をして、宗旨替えをごまかしてやるかもしれないが、教会は、そういう卑怯なことをするはずがない。と以前の私は信頼していた。だが、いろいろなケースを見聞きするにつれ、私は自分の愚かさを改めて、考えを変えることにした。悔い改めた教会が、さて、あっただろうか、と問うことにした。そこでは、教会が教会でなくなってゆくような気がしてならない。

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