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教会の当事者は誰なのか

コリント一3:1-9 
 
パウロにとって、コリント教会というところが特別であったことからかもしれません。自ら切り拓いたとされますから、その不都合な面に細かく口を出してしまうのも、やむを得ないだろうと思われます。社交辞令を送るわけにはゆかないのです。あんたらはまだ子どもだ。そうぶつけます。子どもじみた教え方しかできない、と吐き捨てたいのでしょう。
 
ここでは「肉の人」のままだと暴言も見せています。切実な思いが伝わってきます。「ただの人」ではないか、と呆れています。その例はいろいろあったわけですが、ここでは、派閥争いのような分裂を挙げています。そもそもこのことは、1章で挨拶の後にすぐに述べていました。この手紙で真っ先に、どやしつけたことだったのです。
 
ケファに、キリストに、とその分裂は情けないレベルであったようです。キリストにつく、というのはともかく、それぞれ神に仕える僕を崇拝するような恰好です。あらあら、本当にコリント教会は困ったものだな、と私たちは感想を漏らすかもしれません。しかし、これが自分たちのことなのだ、ということに気づかないならば、鈍感過ぎます。
 
私たちは、自分のしていることが見えません。それでは救いようがないことになりかねません。特にプロテスタントは、もう回復の糸口さえつかめないままに、バラバラになってしまいました。誰それのファンだと公言するようなこともありますし、信奉するものが分散している点では、恐らくカトリックもこの問題を免れてはいないと思われます。
 
コリント教会の当事者たちは、自分たちが分裂して、子どものような言い張り合いをしているなどとは、少しも考えていなかったことでしょう。だからパウロがガツンと介入したのです。指導者というものは、確かにいて悪いはずがありません。但し、それは神の協力者として任務を負い、教会の世話をする、あるいは仕える人でありたいものです。
 
こうした指導者に育まれる信徒たちは、神の畑です。神の建物です。教会派、神によって成長するのですが、要はキリストであるはずです。一人ひとりが、ひたすら神に結びついて、命を与えられます。自分の信仰もそうですが、教会というものがこのように成り立っていることを知る、そこで初めて「霊の人」ということができるのです。

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