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我らに罪をおかす者を我らが赦すごとく我らの罪をも赦したまえ (マタイ6:12, ルカ11:4)

◆さばきとゆるし

 私たちの負い目をお赦しください
 私たちも自分に負い目のある人を
 赦しましたように。(マタイ6:12)
 
「さあ、主の祈りです」と礼拝のプログラムで司会者に促され、皆一斉に同じ祈りの言葉を口にします。もう言い慣れてしまって、何の感動も、何の思い入れもなく、唱えているだけかもしれません。
 
私もその「スタイル」は分かります。でも、やっぱり、引っかかってほしいと思います。というより、私は引っかかるのです。口ごもってしまうのです。祈りの言葉の意味が胸に響くとき、この言葉は自分の中で「偽りだ」と苦しくなのです。
 
「お赦しください」、ここまでは祈れるのです。しかし「赦しましたように」と言おうと思うと、口がネバネバしてきます。嘘なのです。あろうことか、私はいま嘘を祈っている。これほど神を裏切ることがあるでしょうか。「赦しました」ですって? 大嘘ではありませんか。
 
昨日も、人を赦せませんでした。今日も、赦せませんでした。あの人間はきっとこうだ。この人間は悪そのものだ。いったい何を考えているのか。バカではないか。そんな思いが、ニュートリノ(素粒子)ばりに全身を始終貫き走っています。

そのようなことを、すぐに「さばく」と称する人がいますが、これは、聖書が告げる「さばく」ことではない、と私は思います。批判したり評価したりすることは、必要です。それは聖書の「さばく」こととは違うと思います。それが「さばく」ことで、やってはいけないのであれば、凡そ教育などはできません。
 
「さばく」というのは、神の裁きに匹敵するような最終的な判断を、人間の自分が下すことです。神の仕事を、自分がやってしまうことです。自分を神とすることになるからです。
 
他人を悪しく思うのは、神の裁きを下すというわけではないので、「さばく」ことではないと思います。ただ、「ゆるし」がないのです。悪いことは悪いと認めなければなりません。しかし、それをねちねちと根にもってそこに留まっている限り、「ゆるし」がなされていないことは確かです。
 
しかし、深刻な事態があります。犯罪被害者が、加害者を赦せるかどうか。赦さなければならないのか。何の反省もなく、むしろ被害者を愚弄するような加害者も、現実にいます。それを「赦せ」と迫るのがキリスト教なら、それはなんと残酷なことでしょうか。
 
そうしたことに苦しんでいる方のための力には、いますぐにはなれないことを、それこそお許しください。今日は、もう少し身近な、どちらかと言えば日常的な次元で、この「赦しました」を捉えていくようにさせてください。
 

◆どちらが先か

この「主の祈り」については、もうしばらくマタイ伝に固執します。ルカ伝とは、明らかに少し違うところが見えるのですが、それは少し後で触れます。しかし同じマタイ伝の「主の祈り」でも、これまでいろいろ訳されているその訳が、ずいぶん与える感じが違うのです。そこからどう読み取るべきか、意見の相違すら生まれてくるほどの違いなのです。
 
わたしたちの負い目をお赦しください。
同じようにわたしたちに負い目のある人をわたしたちも赦します。(フランシスコ会訳,2011年)
 
私たちの負い目をお赦しください。
私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。(新改訳2017, 2017年)
 
わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、
わたしたちの負債をもおゆるしください。(口語訳,1954年)
 
わたしたちの負い目を赦してください、
わたしたちも自分に負い目のある人を
赦しましたように。(新共同訳,1987年)
 
私たちの負い目をお赦しください
私たちも自分に負い目のある人を赦しましたように。(聖書協会共同訳,2018年)
 
他の個人訳を含めるとさらにサンプルは増えていくと思われますが、それはまた気になる方がお調べください。この違いについては、ギリシア語の使われ方を検討した、専門的な研究がたくさんあるはずです。ただ言えるのは、ここでは前二者が似ており、私たちも「赦します」とつないでいるのに対して、新共同訳も殆ど同じですが、聖書協会共同訳では「赦しました」というように、時間順が異なって意識されるということです。日本聖書協会では、ずっと「赦(ゆる)しました」となっています。
 
伝統的な「主の祈り」でも、「我らに罪をおかす者を我らが赦すごとく/我らの罪をも赦したまえ」でしたから、「赦す」方が先行しているように見えます。
 
学問的な研究は尊いのですが、これでは、「私が神に赦されたら、人を赦しますよ」と考えるのか、「人を赦しましたから、私を赦してください」と祈るのか、ずいぶん違う訳です。これは由々しきことです。いったい、どちらが先なのでしょうか。
 
学問的な探究は尊重します。しかし私はこうした場で幾度か申し上げているように、神の側では時間的制約がない、という前提を以て考えてみることには意義があると考えています。それで、どちらが先でもよいのだ、と思っています。神の現在形は過去でも未来でもあるわけですし(ここでの時制はアオリストですが)、どちらが先か、どちらが条件か、という議論は不毛なことになりはしないか、と思うのです。
 

◆赦せないことが問題なのか

どちらにせよ、私は「赦す」ようにしなければならないのは確かです。つまり「人を赦せ」というのは、特に新約聖書のイエスの、重要な教えの一つです。キリスト教徒にとっても、しばしばそれは話題になります。「赦さねばならない」との圧迫を感じる人もいますし、「赦すにはどうすればよいか」を問うこともあるでしょう。
 
マタイ18:23-33の話が頭を過ります。一万タラントンの借金を王に赦してもらった家来が、自分に百デナリオンの借金のある仲間を締め上げます。返済を待ってくれと懇願する仲間を、その家来は牢に引っ張っていきます。おまえも仲間を憐れむべきではなかったのか。そう言って主君は彼を拷問係に引き渡します。
 
この譬え話は、ペトロが、「主よ、きょうだいが私に対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」と質問したことに対する、イエスの回答でした。
 
あまりにも強烈で、しかも身に覚えのある事柄だけに、キリスト者は震え上がります。そうか。自分はこうして、赦されているのに、人を赦さないでいるのだ、と。でも、それでよいのです。
 
問題は別のところにあります。この譬え話において、締め上げられる仲間の立場に自分の身を置くキリスト者は、殆どいないのではないでしょうか。もちろんそのような義務はありません。聖書の読み方としても、あまり正しくはないと思います。でも、私の想像力には、小さな翼があります。主君が神であることは確かです。神から赦されるというのは、確かに信仰です。しかし、ここであの仲間は、人間に赦されていなかったのです。人間相手に赦しは完遂しておらず、締め上げられても、「どうか待ってくれ。返すから」としか言えない状態でした。
 
私は誰かに、赦されていないということがないのでしょうか。あなたはどうですか。
 
もっと踏み込みましょう。自分は、誰かを赦すか赦さないかという立場に、本当にいるのでしょうか。赦すべきか、を悩むことにしか関心がなくて、よいのでしょうか。
 
いやいや。クリスチャンは、神に赦された、という信仰をもっているのだよ、それがあるから、もう赦されているというのは当然であって、あとは、誰かを赦すべきかどうか、そこだけが問題なんだ――そのような声が聞こえてくるかもしれません。
 
でも私は、その意見には賛成できないのです。私にとって、そう思うことは、傲慢なことのように感じられてしまうのです。
 

◆気づかない

以前教会で、礼拝後のランチを、ちょっとお出かけして戴こう、という企画がありました。少しドライブして、それほど気取らないにしても、とても眺めのいい場所にある食堂に入りました。海の幸がふんだんにありますが、ランチタイムが殆ど終わりかけた時刻になりました。その後は休憩に入ります。が、訳を言って用意してもらいました。お酒こそ入りませんが、和やかな小宴会が始まりました。
 
私もそこにいたので、大きな口は叩きません。でもちょっと、心苦しかったのです。普通なら休憩時間に入るところまで食い込んでいます。店員さんの昼休みを削ったことになります。いま礼拝を終えてきた教会員が、そういう楽しみ方をして、よいようには思えなかったのです。
 
ふだんの教会の昼食でも、思うことがありました。女性が中心でつくる、というのをいまは問題にしませんが、うどんやカレーライスなどをたくさんつくる、そうした習慣がありました。しかし、高齢化や人数の減少もあって、作り手の負担が大きくなりました。それで月に半分くらいは、お弁当屋さんに注文することになりました。
 
受け取りに行くのでなく、配達してもらいます。あちらは商売ですから、悪く言うはずはないのですが、でも、私たちが気持ちよく礼拝している間に汗してこしらえて戴き、しかもそれを20人以上分、運んでもらう。果たして、それでよかったのでしょうか。
 
私も、少々「気づき」があったものの、それを言い出せはしませんでした。だから私もまた不誠実だったのです。それを承知で、それでも、いまここでそれを問いたいと思います。また、同様なことをいまも私が、私たちが、平気でやらかしていない、と言えるでしょうか。気づかないだけで、やっているのではないか、と怯えます。
 
神に赦された、ハレルヤ、と喜ぶのがクリスチャンだというのはそれでよいのですが、誰かを赦すかどうかを気にする前に、そもそも赦されないようなことをしているのではないか、探ってみる必要があるのではないか、と思うのです。
 
「赦すかどうか」を悩むのは、被害者です。私たちはそれほど、この世で被害者なのでしょうか。「信教の自由を阻害された」「信仰活動を迫害された」そうした訴えは、確かに時に必要です。しかしその背後に、キリスト教会が、社会に何か迷惑を与えている可能性がないか、問わなくてよいのでしょうか。私たちに、加害性はないのでしょうか。
 
つい最近も、カルトとも呼ばれる宗教団体が、その献金方法について、自分たちは正しいと主張し、被害者を出していても自分たちの自由な活動を制限するのは、信教の自由に反する、と自分本位なことを言っていたのを、報道でご覧になったことと思います。あのような無様な恰好を見て、他山の石と考えた人はいたでしょうか。
 
自分は加害者であるはずがない――もしもそう思い込んでいたら、それは傲慢そのものだ、と私は判断します。たとえば、「一神教が戦争を起こす」と言われても、それは誤解だ、だけで済ましていてもよいのかどうか、私たちの考え方そのものを、省みる必要がないか、と私は強く思うのです。
 

◆普遍的な負い目

ここで、マタイ伝とルカ伝のこの箇所を少しだけ比較してみることにします。
 
私たちの負い目をお赦しください
私たちも自分に負い目のある人を
赦しましたように。(マタイ6:12)
 
私たちの罪をお赦しください。
私たちも自分に負い目のある人を
皆赦しますから。(ルカ11:4)
 
「赦しました」なのか「赦します」なのか、その点についてはすでに触れました。もうひとつ気づく相違は、「負い目」と「罪」です。しかもルカは二度目にはマタイと同じ「負い目」を使っていると言えますから、何か意図があるように思えるわけです。
 
ルカが「罪」という言葉を好んで使うことは、よく知られています。福音書の中では、ヨハネ伝が最も「罪」という言葉の頻度が高いのですが、ルカは確かに目立っています。根本的に、救いへの道が「罪」から始まることを、随所で示しているように見えるのです。
 
しかし、ルカならば、どちらも「罪」にしてもよかったのではないでしょうか。「自分に罪を犯した人を赦します」としても、私たちの心には十分響きます。でも、ルカでさえ、「負い目」の語も交えなければならなかった、ということなのでしょうか。
 
ところでこの「負い目」という語は、話によるとどうやら経済用語だということです。マタイもルカもこの語を使っています。詳細に読める方は、ルカのほうが分詞だ云々などということを説明してくださることでしょうが、私たちにはそこまで必要ないと考えます。以前は「負債」という訳もありました。簡単に言うと「借金」です。
 
あなたは借金がありますか。家のローンがまだ私は残っています。車はなんとか支払っています。それだけ車もベテランになってきた、ということでありますが。
 
私は他人に貸すほうばかりだ。借りることなどないね。そんなふうに言える人は羨ましい。私なんか、貸すことができるのは本くらいのものです。しかも本というのは、貸したらもう返ってこない覚悟でいよ、とも言われています。不思議なものです。
 
貸す立場になどない私。借りるばかりであっても、まさか貸すなんて、そんな財や資金はありません。でも、もしかすると、精神的には、私は貸すばかりの立場だと思い込んでいなかったかどうか、ちょっと省みるべきでしょう。凡そそんな反省は、日頃からしたことがないように思うのです。
 
中には、そうした自己反省というものが全くできないタイプの人種もいます。世間を見ていると、最近、やや増えてきたような気がするのですが、それはともかく、この「精神的に貸す」というのは、どういうことなのでしょうか。
 
大岡昇平の『俘虜記』は、他の誰も書けないような問題作だと言えるでしょう。太平洋戦争時、フィリピンにいた日本兵の私。逃亡する中で、一人のアメリカ兵を見ます。若い兵です。こちらには気づいていません。自分が殺される可能性のある中で、敢えて自分は撃たないことを選びます。その米兵は、別方面からの音でそこを立ち去りますから、何事もなかったかのようにその場は過ぎて行きました。
 
まるで、貸したかのような場面にも見えます。これは「赦し」とはまた違うはずですが、結果的に自分は「負い目」を負わずに済んだことにもなります。大岡昇平は聖書をよく知っていますから、この小説にも神の眼差しを感じる場面が描かれています。優れた文学作品の背後に、神との関係は、このように様々に描かれています。できるだけそうした文学に触れると、様々な場面に立ったものの考え方や感じ方を教えてもらえるかもしれません。
 

◆主の祈りと赦し

日ごとの糧についての祈りから、祈りの中心には、神というよりも「私たち」があるように見えました。糧の問題について、こう考えました。この「私たち」とは誰なのだろう。それはこの「教会」の私たちのことなのか。「キリスト教徒」たる同胞の私たちなのだろうか。そして、その「私たち」を、もっと広い視野に置きたい、というように捉えました。教会に来ないような人々をも含むようにして、「私たち」を意識してみてはどうか、と言いました。
 
ならば、それに続くこの祈り「私たちの負い目をお赦しください」においても、「教会のメンバー」のような意味で制限しないほうがよいのではないか、と思います。と同時に、「私たち」というものをぼやかすことによって、結局「誰でもない者たち」にしてしまわないように、という戒めも自覚するべきでしょう。「私たちは地球を守りましょう」というような、言わば無責任な尤もらしいスローガンではなくて、「私は地球を守ります」という自覚と決意こそが、重要なのです。
 
「私たちも自分に負い目のある人を赦しましたように」は、やはりなんとも祈りにくい言葉です。これを無感覚になって、平気で口先だけで言い放つようになってしまいたくないと願います。「赦し」についての祈りは、形骸化してしまわないようにしなければなりません。
 
「私たち」の外延は拡がります。教会組織だけではありません。キリスト教世界だけではありません。すべての人へと拡がる祈りであってほしい。この救いを、秘密結社のようなキリスト者だけの特権にせず、すべての人がここに参与するようであってほしい。
 
それを願いたいのです。なぜならそのことは、すべての人が負債を返すべきである、ということを証拠立てることになるからです。私たちにとり、赦しは結局どこにあったのでしょうか。何によって赦されたのでしょうか。これほどに罪にまみれて、改善すらせずどうしようもないポンコツであるのに、イエスの口から「赦された」と言われたのは何故でしょうか。
 
イエス・キリストの十字架があったからです。十字架が神と私の間にあったから、私は赦され、救われました。私が神と自分との間に十字架を見たからです。ひとの罪を赦すには、それほどの犠牲が必要だったのです。まだイエスにお出会いしていない方、私はいまここでそれについて延々とお話しするようなことは致しません。その赦しを経験できるように、求めて戴けたら、と願います。
 
教会では、聖餐式というものがあります。パンを食します。そのパンは、ただのパンではありません。イエスは「私を食べよ」というようなことを言っていますが、そのパンはイエスそのものである、という捉え方をするのです。イエス・キリストの十字架を自分のため、自分のことだ、と受け止めることを「信仰」と呼ぶなら、このパンを食すのも、その延長上にあります。
 
そこに至るには、イエス・キリストの十字架の前で、私は突き動かされなければなりません。私は、破壊されなければなりません。私は、古い自分を殺されてしまわなければなりません。そうして私は、造りかえられました。これは証しです。私に確かに起こったことでした。これがあったからこそ、自分は「赦された」ということの真実を知りました。
 

◆それでも赦されている

 私たちの負い目をお赦しください
 私たちも自分に負い目のある人を
 赦しましたように。(マタイ6:12)
 
「赦しました」という言葉は、恥ずかしくてとても口に出せません。しかし、時間的な区別をしすぎないように、と私は皆さまに呼びかけています。原因と結果、前提と結論のように、役割を決めつけすぎず、もっと流動的に、神の次元での時間というものも想定してみよう、と申しています。
 
私は事実、「赦しました」と胸を張って言える立場にはありません。だったら、自分も赦されないのだ、というふうにがっかりする人がいます。とても純朴な信仰者であると思います。いっそ、「赦してはならないこと」が聖書にリストアップされていたらよいのですが、ないとも限りません。パウロもまた、実に反対者を呪っています。新約聖書には、実に激しい、「赦してはならない」の口調が飛び交っているものです。
 
他方、「赦しました」の精神をもつ一人の人物が、私の心の中に浮かんできます。イスラエルの最高の王とされるダビデです。初代の王サウルについて、とことん赦しているように見えるのです。そのことは、自分の子たちに対する「赦し」であったともいえ、実に甘い教育をしていたために、残念ながら息子たちは甘やかされて人生をしくじった者たちばかりでした。また、ダビデは「敵」を赦したわけではありません。容赦なく敵を切り裂き、またイスラエル建国のために尽力した将軍ヨアブであっても、呪いをかけるかのようにして殺せと指示しました。
 
やはり人間を理想化してしまうのはよくありません。私たちは「赦しました」とか「赦します」とか、安易に口にできない人間なのです。
 
だから私はまた、パウロが悩みつつ叫んだであろうように、自分が「罪人のかしら」だということを痛切に感じる者です。皆さまはそうお感じになりますか。心からそう感じるようであって戴きたい、と私は思います。
 
そうしなければ、自分は本当に「赦された」という思いに満たされないからです。自分は赦しができていないけれど、赦されたということは信じ、そこから動きません。そのような態度で、この「主の祈り」を口にする者でありたい、と思っているのです。
 
私たちはしばしば、「自分の罪がすっかり赦されていること」さえ、実はそんなに堂々と言えない身なのではないでしょうか。でも、それでも普通ではないか、と私はお声をかけたい。「私は赦されました。恵みです。もう私は完全に赦されています。そして、誰かから赦してもらわなければならない、というような立場には全くありません」、そんなことを、いけしゃあしゃあと言えるような心臓を、私は持ち合わせていません。少なくとも、持ち合わせたくありません。
 
「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、私はほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でなく、また、この徴税人のような者でないことを感謝します。私は週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人の私を憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。誰でも、高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」(ルカ18:10-14)
 
この徴税人の真似をする人が教会には続出します。見習おうとすることを悪くはもうしませんが、口先だけ、ポーズだけということがあるなら、見せかけだけの謙遜ほど、傲慢なものはありません。自己義認がどんなに危険なものか、分からないのです。
 
ですから、苦しい思いのままでいましょう。でも、「こんなこと、祈れません」と逃げるようなことはしないようにしましょう。胸を締め付けられるような思いで、でもそれでも、主イエスが教えてくださった祈りを祈りましょう。イエスのような赦しは、できそうにありません。しかしながら、赦すような立場には決してない私が、ひたすらそのイエスによって赦されたという岩を見出しました。どんなに地が揺れたとしても、そこに立っていましょう。
 
イエス・キリストは、ものすごいことをした方なのです。神のものすごさに、今日もまた気づかされるのです。

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