見出し画像

オルタナティブな読み方

説教は、「ヤコブの梯子」を見たという話から始まった。美しいその情景は、薄明光線などと言うと味気ないが、創世記でヤコブが見たことから、海外では「ヤコブの梯子」と呼ばれるのだ。雲間より光が、待ちきれぬかのように、雲の切れ目を探して降りてくる――詩人のような表現が、説教の冒頭を美しく飾った。その光はどこに落ちてくるのか。探す必要はあるまい。光はここに降りている。礼拝の時空において、その光がいまこうして満ちている。黙示録は、こうした礼拝のための書物である。ヨハネは幻を見せられて、それを書き記すように命じられた。
 
黙示録を読み進む。前回14:13までを扱ったので、今回は14:14からのつもりであった。通例はそれでよいだろう。だが、どうしても引き継ぎたいことがあり、14:13を今回も含めることにした。これは異例のことであると言えるだろう。
 
14:13 また、わたしは天からこう告げる声を聞いた。「書き記せ。『今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである』と。」“霊”も言う。「然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである。」
 
「主に結ばれて」は、先週触れたように、「主にあって」、詰まり「キリストの中で」の感覚を忘れないようにしたい。キリストの中で死ぬならば、それは幸いなことである。ここを説教者は、先週に続いて、黙示録の中心である、と示した。だからまた、今週も取り上げたのである。
 
死ぬ時に「労苦を解かれて、安らぎを得る」という点は、一見、煩わしい苦労から解放されて、というふうに書いてあるように見える。私たちはそのように受け取りたい気分になる。だが、説教者はそうでない別の角度の見方をヒントに出す。この労苦はそういう嫌なことを指すと受け取る必要はないのではないか。神を愛することや、世で人を愛し、イエスに倣い柔和に生きること、と捉えてもよいのではないか。そう言うのである。
 
それは確かに、簡単なことではない。私たちが如何に「善い人間」となったとしても、すべてにおいて気楽に、人を愛することができるものではない。神を愛することが楽にできますよ、などということは、口が裂けても言えない。かといって、それが苦痛である、というのも間違いである。喜んで奉仕する、喜びの中で生きてゆく。それも本当であろう。それであっても、それは確かにある種の「労苦」であるに違いない。その一つひとつの業は、天において無駄にはならない。報われるのだ。
 
だから、人生が無駄でなかった、という安心が得られるようにもなるだろう。最新号の『現代思想』は、特集が「人生の意味の哲学」である。私の手許に届いたため、今日から少しずつ読み始めた。聖書からでなく、思想として人生の意味について考えてみたい方がいたら、様々な論客の声を聞くことができるだろうことをお知らせしておこう。
 
今日のテーマは「刈り入れ」であった。
 
14:14 また、わたしが見ていると、見よ、白い雲が現れて、人の子のような方がその雲の上に座っており、頭には金の冠をかぶり、手には鋭い鎌を持っておられた。
14:15 すると、別の天使が神殿から出て来て、雲の上に座っておられる方に向かって大声で叫んだ。「鎌を入れて、刈り取ってください。刈り入れの時が来ました。地上の穀物は実っています。」
14:16 そこで、雲の上に座っておられる方が、地に鎌を投げると、地上では刈り入れが行われた。
 
N.T.ライトに、黙示録についての本があるという。説教者はしばしそこに留まる。それを参考にしながら、収穫の幻の姿を私たちに見せてくれるた。刈り入れ、それは収穫祭である。他人の収穫について、私たちもとやかく言わないようにしよう。他人を裁く思いは、実のところ自分自身をも裁いているようなものではないか。それよりも、私の手許に与えられた大いなる収穫を喜ぼうではないか。神は、それ見よ、と私の視点を自身へと向ける。こんなにおまえは豊かな実りを手にしているではないか。祝福されているではないか。
 
ヨハネの描くこの刈り入れは、最初はそれでよかった。実っている穀物を喜んでいればよかった。だが、祭壇のところから、別の天使が出てくる。火をつかさどる権威をもつ天使だという。先に出て来た、鋭い鎌を手にもつ天使に向けて、「地上のぶどうの房を取り入れよ」と指示した。
 
14:19 そこで、その天使は、地に鎌を投げ入れて地上のぶどうを取り入れ、これを神の怒りの大きな搾り桶に投げ入れた。
14:20 搾り桶は、都の外で踏まれた。すると、血が搾り桶から流れ出て、馬のくつわに届くほどになり、千六百スタディオンにわたって広がった。
 
なんとも不気味なものが示唆される。ぶどうの搾り桶から流れ出るのは、ぶどう酒ではなく、明らかに「血」だと記されている。キリストの弟子たちが始めた聖餐のイメージが確実にここにつながってくる。「多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」とイエスが示した杯を、ここに思い起こさないキリスト者はおるまい。
 
だが「千六百スタディオン」とは余りに壮大である。300km近くに及ぶ距離であり、福岡からならば鹿児島の海に出てしまう。エルサレムからなら、エジプトの入口にまで達する距離である。この数字や距離に意味があるかどうかは、推理の楽しみの素材くらいにしかならないかもしれない。私だったら、40×40であることに目を落とす。40は、聖書において、出エジプトや荒野の誘惑、鞭打ちの数など、ある過程がひとつ完成するための数字である。古代ギリシアでは、男の壮年期の年齢を表したし、人間の歴史の「1世代」を示すとも言われる。それの2乗であるから、十分な世代を囲い込むような狙いがあったのかもしれない、と想像するのも楽しいだろう。
 
この刈り入れと搾り場のモチーフは、ヨエル書4:13と重ねられ得ることを説教者は告げる。そこでは、「彼らの悪は大きい」と言われていた。だから当然、この黙示録の流れ出る血も、悪人たちの受ける罰としての血である、と捉えるのが自然である。神の裁きが容赦なく遂行されることが、ここからも分かるであろう。私たちは、これを軽く見てはならない。卑近な言い方をすると、罪と罰を軽んじてはならない、というのは確かである。
 
実際、世界の滅亡が、人間の手によってですら、簡単に起こり得る時代である。それは人間がなす、というのも確かだが、神が人間を用いて実行する、と考えれば、なにも神なしに世界の終わりが訪れるのだ、と決めつける必要はないだろう。
 
そうなると、救いに与る者には、これが慰めとなる。神が決着をつけてくださる。それまでの忍耐はあるだろうが、13節での中核たる、「今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである」が、いよいよそこで成り立つということは、やはり慰めとなることができるのである。
 
しかし、と説教者は告白する。もうひとつ別の読み方に、自分は惹かれるのだ。ほかの理解が可能ではないか。これからの人間の最終的な裁きの風景ではなく、これはすでにキリスト者が見たことのあるものではないか。
 
イエスの流された血を、そこに見てもよいのではないか。
 
「搾り桶は、都の外で踏まれた」とはっきりと書かれている。イエスは、エルサレムの城壁の外で、磔刑に遭った。そもそも、死体に触れる者は汚れるといった規定があるために、刑場が街中であるはずがなかった。イエスの譬で、ぶどう園の農夫たちは、主人の跡取り息子を殺すために、ぶどう園の、外にほうり出して殺したのだった。
 
イエスの血が、ヨエルと重なることにより、悪人のように描かれることに、抵抗があるに違いない。だが、イエスは完全な人となり、すべての人の罪を、悪を、背負って殺されたのだとするならば、イエスの上にすべての悪と呪いが背負わされたのである。イエス自身が、完全な悪をそこに負って殺されたからこそ、すべての人間の罪の赦しが可能になった、と見ることはできないだろうか。
 
説教者は、そういう、別の見方を提供する。このような解釈には、受け取ったその人の「信仰」を見るような思いがする、とも語られた。その通りである。自らの罪の大きさと、与えられた救いの大きさを知るからこそ、このような痛みに満ちた聖書の読み方ができるのである。
 
拡がりに拡がったこの幻の中の血は、無数の人間の罪のための死に匹敵するものだった。その赦しの血に、私もまた浸されたのである。そして、私の隣人も、それから私の敵も。その血の向こうに、イエスが受けた命がある。その命は、その血を通じてのみ、私たちにもたらされているのである。
 
もうひとつの別な読み方。オルタナティブな読み方。それは、そうして呈示された別の理解をするべきだ、という意味ではない。聖書が表すものは唯一これだけである、という狭い受け止め方に拘泥するべきではない。同じ三平方の定理でも、その証明方法はゆうに百を超えるという。数学でもそうである。人の心と神の思いに、せせこましい決めつけがあるはずがない。
 
人が神とつながるための道は、ただひとつの色に染められているのではないだろう。その代わり、自分に与えられた神への道、神との関係が、万人に同様にもたらされているわけではないことも、弁えておくべきである。その前提の上で、聖書の理解は唯一これしかない、と頑なにならず、もうひとつまた別の可能性があり、要するにそれがその人に命を吹き込むものであれば、その人がそれを大切に懐くようであってほしいと願う。そのとき、罪や救いなど、チェックポイントはあるものの、同じ主につながる者たちは、互いにそれぞれの信仰に、共感できる可能性があることを、忘れないでおきたいと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?