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教会はいま何を伝える

理不尽に休業せよと迫られる、飲食店があり、小売店がある。感染拡大を抑えるためだという大義名分を掲げて、権力が強要する。全く根拠がないとは思わないが、それが主要なのか、と疑問を挟みたくなる。むしろ、感染防止のために飲食店はずいぶんと配慮し、努力しているところが多いと思うし、むしろそれが閉まっているが故に別に集まって食べて感染することが多いとすれば、飲食店を閉めさせることは逆効果であるという側面も否定できない。実に気の毒である。
 
出席できない学生たち、友だちと遊べない子どもたち、様々な形で勤務できない情況にある社会人や学生、観光関係や運輸など、業務が立ちゆかなくなってしまう分野の方々の生活がどうなるのか、心配でたまらない。
 
反対に、仕事が忙しすぎるようになる人もいる。それは感染の危険の中で多忙を極めることになるし、だからといって拒否することもできない。いわば命を張って仕事をしていることになる。医療従事者や保健業務関係については、これまでにも度々案じてきた。
 
対して、教会は、新型コロナウイルス感染症が世に明らかになってしばらくの間は、他国の宗教団体におけるクラスター発生のために緊張が走ったけれども、その後は落ち着いてリモート礼拝などの活路を見出している。ただ、教会に出てこられない信徒が、高齢者を中心にいるとなると、その信仰がどうなっているか心配だという声もある。
 
百年前の、いわゆるスペイン風邪のときに教会がどういう反応を示したかは、『100年前のパンデミック』という本が出され、参考になった。急遽調べたらこういう資料があった、という程度の本ではあるが、類書がないだけに、しばらくこれを基準として、キリスト教会の近代における疫病対策の記録が理解されることになるだろうと思う。
 
今回、教会は、新しく教会を訪れる人、信仰をもつようになる人、こうした層が殆どなくなることとなった。2020年当初洗礼を考えていた人も、教会の礼拝に集まれなくなって、洗礼の時期を延ばすこととなり、あるいは洗礼の話も立ち消えになったという例もある。ミッション系の学校から、礼拝出席レポートを課すということもなくなり、教会に新しく来るという人が激減した。いや、正確に言うとゼロになったと言ってよいと思う。
 
礼拝に出なくなり、教会から足が遠のいてそのまま教会から離れる人もいるし、時間と共に亡くなる人も出てくる。離職したり退職したりする人も出てくるわけで、献金という名の教会の財政にも影響が出る。銀行振り込みでこれまで通りの献金を、多くの信徒はするだろうが、集会の中での献金がなくなるとなると、その分だけでも収入減少は避けがたい。
 
そんな中で、牧師の給与が引き下げられたという話は、(きっとあるだろうとは思うが)寡聞にして聞かない。秘密事項かもしれないが、そういうぼやきは、SNS関係でぽろりと出てきそうなものなのだが、まだ見たことがない。となると、牧師たちは、このコロナ禍の中で、実質生活苦の危機に陥っていないことになる。いろいろな声を聞いていても、生活そのものについてはかなり呑気なふうに見えるし、楽しそうな話題が多い。教会の規定で、安易に給与が減るということがないのだろうと推測される。
 
教会の牧師やそれに準ずる人の中には、純朴な祈りを投稿する人も少なくない。教会が、イエス・キリストの愛を伝えられますように、との祈りもある。
 
美しい祈りかもしれないが、さて、いったい誰に、どのように伝えることを求めているのであろうか。上に挙げた観点からすると、生活の危機と精神的な危機にある人々に対して、イエス・キリストの愛を、生活の危機も精神的な危機も感じていない教会の代表者が、愛を伝えるということになる。しかし実際、コロナ禍で困難にある人々に対して、教会が具体的な何かをしたという話は、これまた耳にしたことがない。かろうじて、インターネット操作ができず電話がつながらない高齢者のために、ワクチン接種の予約をとることを援助します、という教会を、ひとつだけ見た。実際要請があったかどうかは知れない。というのは、その援助の申し出が、インターネットの上で出されているからである。あとは教会の掲示板に貼ったものを、通りがかりの人が見るかどうか、であるが、さて、不要不急の外出をしない高齢者がそれを見る機会がどのくらいあったのか、分からない。
 
教会で集まれないならば、そのメールなりSNSなりでしきりに、信徒に連絡したり世間に訴えたりする必要があるだろう。しかし、教会の公式見解の中にも、祈りの課題の中にも、医療従事者はもちろんのこと、コロナ禍で絶望的な情況にある人々のために祈りましょう、というような言葉が、ついぞ出てこない(福山雅治さんが、あれほどのラジオのレギュラーをもっていて、その番組で恐らくすべてと言ってよいほどに、医療従事者やエッセンシャルワーカーに感謝します、と繰り返していることには本当に驚く。原爆や自然のレポートの仕事もして、隠れた努力や営みに目を配る人のなすわざであろう)。つまりは、教会としては、そうしたことは脳裏にない、ということである。その教会には、医療従事者もいるし、困窮している人もいる。だから、教会員のための祈りですから一般的なことは載せないのです、という言い訳も立つまい。
 
あげく、政府の判断がどうのこうのとか、首相がこんな変なことを言っているとか、政治の悪口さえ言えば自分が正しいかのような錯覚をままとかの露骨な姿を次々と投稿する牧師や教会もある。ワクチン接種にしても、それを援助するような動きや声ももちろん聞かれない。あるいは、高齢の牧師は、早くにワクチン接種を受けられるために、自分はこれで安心、と満足しているのであろうか。ただ、このワクチン、副反応が妙な形で報道されて、若い世代がその副反応のほうを恐れているといった倒錯した事情も生じているのと、また、中にはワクチンについて慎重にならざるをえない身体的条件をもつ人がいるのも確かであるし、思想的にワクチンに対して反対の立場をとる人もいるような面もあり、一概に何をどうしろと決めつけてはいけないから、事態は複雑だ。
 
教会は、誰にどのような福音を伝えようとしているのだろうか。そして、何のためにあるのだろうか。組織が、組織自身を目的にするとき、ろくなことは起こらない。政府が、政府自身や選挙のためだけに政策を考え決めようとするとどうなるか、私たちはよく知っているはずである。
 
もちろん、震災や水害の被災者の苦悩もあり、そこに力を費やしている教会もある。一部には、ほんとうに頭の下がる働きと労苦を続けている教会もある。ただ、そうした被災地域でも、このコロナ禍の下では、一定の共通な困難を抱えている。障害者問題であれ女性問題であれ、また子どもたちに対しても、様々な領域で、コロナ禍は問題を多く背負わせてしまっている。この世界に、教会は、「良いニュース」をもたらすこと、それをさしあたり最大公約数の使命だと捉えてはいけないだろうか。
 
だから、私もこんなことはやめて、明るい希望をもたらす言葉、ひとを生かす言葉が湧き出るような場を設けなければならないという、結局一番の問題点は、そこにある。人間くさい教会組織などに期待するのは無理だからもう諦めて、先ず隗より始めよ、こそが必要なことなのだ。

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