見出し画像

知らないこと

やはり、「蠅って、何ですか?」と訊かれたときには、正直面食らった。
 
ひとそれぞれに、知識も経験も違う。だから、誰それが何々を知らなかった、ということは、たとえ意外に思っても、それをとやかく言うべきではない。私もまた、無知の極みであるのだ。偶々、自分の知っていることだけを能弁に語るから、物知りのような演技をしているに過ぎない(このことは、物知りで知られる地元人気タレントのカミングアウトであった)。
 
だが、知っているものと思い接してしていた相手が、実はそのことを知らなかった、ということが頻繁にあると、そして世代的にむしろ知らないことのほうが普通だ、ということになると、そこに何らかの理由があると考えたくなる。
 
ツユクサを子どもたちが知らない、というのは、ずっと以前から分かっていた。レンゲソウを知らない子がクラスの殆どである、ということを意識したのは、10年くらい前だろうか。もっと前だったかもしれない。
 
このたび、優秀な中学生のクラスで、古文を読んでいるとき、ヒソヒソと話す生徒がいたので、どうしたのかと尋ねると、こう訊かれた。
 
「蠅って、何ですか?」
 
読んでいたのは、「枕草子」。「蠅こそにくき物のうちにいれつべく、愛敬なき物はあれ。……」という箇所である。一瞬私は度肝を抜かれたが、冷静に説明した。
 
生活の中に、もしゴキブリはいても、昨今、蠅はいないらしい。もちろん、蠅取り紙のことを知らない子がいても、当然だろうとは思うが、そもそもの蠅について認識がない、という事態には、正直戸惑った。ただ、確かに蠅と接することが、現代の生活では、非常に少なくなったであろうことは、想像できた。
 
食卓に食べ物を置いておくと、蠅がやってくる。畦道には動物の糞があり、蠅がたかっていた。イエバエは、確かに我が家にも普通、来ない。マンションだからだろう。ただ、ショウジョウバエあるいは小バエは、室内の生ゴミのところにやってくることがある。果たして清少納言が見ていたのは、どちらのタイプであるのか、私は知らない。
 
生活の変化は、常識を変える。軒や縁側が分からない子も、当然以前からいた。私とて、古い日本家屋の各部の名称には疎いところがある。ただ、文学作品にでも触れていれば、それなりに言葉の知識は得られることがある。もはや夏目漱石が古典だというのも、仕方がないと思っている。
 
だいたい私や私の世代もまた、その上の人々から見たら、無知極まりないものだった。草花の名前を知らないという自覚はあった。自覚があったからこそ、写真を趣味としてからは、調べて憶えるようにした。それでも、間違って理解しているものが多いことを、ある人から教えられた。付け焼き刃は、暴かれてしまう。
 
できるだけ古いものに対しても、知りたいという思いはある。京都の古書店で哲学関係の昔の本を漁って読んでいくと、旧字体には自然に馴染んでゆく。私自身はかなり融通の利くほうだと思っているが、しかし変体仮名は使えない。母から届く手紙には、変体仮名が使われていることもあって、勉強になった。
 
生活マナーというと新しい時代を感じさせるが、本当を言うと「しきたり」と呼ぶべきもの、それに対しても、私は無知である。妙な因習は心得ていることもあるが、世間で常識とされることを知らないことは度々ある。肯定的にそれが見られると、「歯に衣着せぬ」というように言われるかもしれないが、遠慮がちである基本があるにも拘らず、ずけずけとものを言うと指さされることもある。たいていは無視されるだけなのだが、さて、そんな中にも、もしかすると宝石の一つくらいは隠れている可能性はないだろうか。
 
それはともかく、以前は「無知の知」と訳されていたが、近年は「不知の自覚」と称されるようになってきた。ソクラテスにより哲学の基盤とされたこのことは、やはり強烈な戒めである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?