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習慣

実力テストであれば、テスト終了後、後ろから前に回して集める。自分の名前を上に見ながら、束の一番上に重ねる。こうすると、座席順からして、出席簿順に答案用紙が並ぶのだ。
 
ところが、中学生の大きな模擬試験だとやり方が違う。果たして他の教師は決まり通りやっているのかどうか知らないが、私は問題用紙に書いてある通りのやり方で集める。時間になったら、答案用紙を裏返しにして置くのだ。そして、「自分の用紙には触らずに、後ろから回ってきたものを自分の上に重ねて置く。そうして裏向きのまま、その全体を前に回す」ということを板書しており、また口頭でも説明して、集めさせる。
 
ところが、何人か、これができない生徒がいる。いくら説明を書いても、話しても、いつものように自分の答案用紙を片手に握りながら後ろから受け取り、一番上に置くのだ。いつもそうやっているからだ。いつものようにやってしまおうとしつつ、気づいて直す生徒はまだいい。結局私のところに集まってくるとき、5~10%の生徒が、間違った順番で重ねていることが分かるのだ。
 
説明が理解できないわけではないはずだ。自分のには触らないこと。自分の上に他人のを置くこと。これだけである。いわば、理性はそのように理解しているのだが、からだが理性に従えないようなのである。体はいつものように自然に動いてしまうらしい。
 
車検で代車を出してもらう。同車種のものだと問題はまずないが、少し違う車がくると、操作方法が異なる場合がある。頭では分かる。だが、「えっと」と考えながら、ぎこちなく操作することになる。使い慣れたものは、体が自然に動くが、使い慣れないものは、考えながら扱うしかない。生徒たちが戸惑う気持ちは、もちろん分からないわけではない。厳しいことを言っているのではないのだ。
 
「ハビトゥス」という概念がある。使う哲学者により含まれる意味は異なる場合が多いが、概ねそれは、「習慣」という角度から見つめることができる。ピエール・ブルデューが重要な概念として用いて有名になったが、そこまでいま検討する必要はない。物を「道具」として用いるというありかたを「世界内存在」という考え方から指摘したマルチン・ハイデッガーを持ち出す必要ももちろんなく、私たちは要するに、使い慣れた方法を、あまり意識したり考えたりすることなく、毎日習慣的に繰り返して生活しているのである。
 
そういう毎日の中で、自分の行動を意識していないものだから、「あれ、いま鍵かけたかな」と不安になり戻ったり、「コンロの火を消したかな」とキッチンに戻ったりする経験は、多くの人がもっているのではないだろうか。年齢を重ねると、こういうことが日常で多くなる。すぐに「強迫神経症」だ、などと言いたくなる人がいるかもしれないが、私たちが普段無意識で行動していることの証左というくらいに見てもよいのではないかと思う。
 
いちいち考えてやっていると面倒くさいことも、毎日の習慣、あるいはルーチンワークにしてしまえば、別に何だとも思わなくできるようになる。それがまた、「身につく」ということであるとも言える。だから子どもには、毎日それが習い性となるように教育していく必要があるわけだ。チャイルドシートに乗せない理由として、「子どもが嫌がるから」と言い訳する親がいるが、とんでもない愚かなことである。それは自分の怠慢であり、子どもの虐待である。
 
イエスのいた頃のユダヤでは、律法を守れない人々が、律法を遵守するエリートたちから見下されていた。生活の束縛感があったことだろう。エリートたちは、律法に従った生活が、習慣として身についていたことだろう。それらはみな守っております、と堂々とイエスに答えた者のことも記録されているが、習慣となればそれほど自分を克己して苦痛を伴いながら守るようなことは、していなかったものと思われる。
 
だがそんなに悠長な生活をしていたわけではない庶民は、律法規定に従って生活を定めるようなことはできない。もしも、自然に日常的に律法が守れるとしたら、どんなに神さまに褒められることだろう、と羨んだ人々もいたに違いないと思う。
 
律法はみな守っております、となどというエリートたちに対してイエスは、永遠の命を与えられたいならば財産をすべて施せ、と言った。だがエリートたちには、それは習慣になかったために、できないと去って行った。この姿勢に同情的に解釈する牧師が多いが、私はその必要はないと思う。彼らの習慣は、それとは違ったのだ。
 
だが、貧しい漁師や癒やしを求める民衆の多くは、捨て去ることについては、習慣があった可能性がある。律法規定に従って生活するのは、庶民にとり習慣とはなっていなかったが、神に献げ、人をもてなすことについては、庶民の生活は日々の当たり前であったのではないか。
 
これらの違いは、まさか財産を……と同情する必要はないのだ。自分の価値観と生活観に基づくふだんしていること、ふだんの生活そのものが違ったがための、異なる結果であったのだ。
 
パウロも自身嘆いていたように、自分の中には神の律法、あるいは愛の原理に従えないものがある、というのも事実であったが、初代教会の信徒の様子を見るに、実に純朴で、素直に従っている姿を見る思いがする。それは、その人たちにとって、そういう生活が、なじんだことだったからであろうと思うのだ。
 
からだにしみついた癖のようなもの。但し、庶民だからと言ってそのまま、それが永遠の命のための道とはならない。イエス・キリストという道を通らなければ、神に会うことはできないのである。それは、イエスと共に死んで生かされる、ということである。イエスと共にかつての自分に死に、新たな命に生かされて立ち上がるという、救いの決定的な体験である。それさえあれば、キリストの愛の律法に従うことは、なんら違和感のない、身になじんだことになるに違いない。キリストに従う喜びは、まるでただの習慣であるかのように、その人にまといつくものであろう。
 
新生、新たに造りかえられること、それは恵みである。もはや、わざわざ自分に鞭打って鍛えようとしたり、カットされて磨かなければといきり立ったりする必要はない。キリストにある生き方が、ごくあたりまえな日常となるのである。
 
そういうふうでなければ、依然として、模試の答案用紙を指示通りに集められない生徒のように、いつもぎこちなくしていなければならないことになるだろう。

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