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優先席に座る若者が普通になった

JRのいわゆる「優先席」の風景が、どうにも変化してきているような気がしてならない。若者が座っているのだ。
 
もちろん、座って悪いはずがない。だが、自分よりかなり年上の人が目の前に立っていても、何も気にしない、という形で立っている。
 
吉野弘に、席を譲ることができなくなった「娘」の姿を描いた詩がある(「夕焼け」)。小学生にも出題可能なレベルの問題でもある。尤も、この娘は、実は「としより」に二度、席を譲っている。譲った「としより」が降りて座ると、また次の「としより」が現れる、という具合である。ついに、三人目のときに、「娘」は立てなくなる。その「娘」がその後どうなったかを知ることもなく詩人は電車を降りる。ただ、「やさしい心の持主は/他人のつらさを自分のつらさのように/感じる」のだ、と詩人は知っている。
 
ところが、こういう風景が世の中にあるものか、と思うような空気が、昨今の電車の中には充満しているように感じられてならないのだ。一応、福岡でそうだ、ということであって、他の地域でどうなのか、それは知らないままに、もうしばらく呟いてゆくことにする。
 
席を譲るのに勇気が要る気持ちは、もちろん分かる。そのことの説明はしない。だが、そういう心理とは、どうも違う気がするのだ。
 
ある時代まで、そもそも「優先席」に若い自分が座るのは、「恥ずかしい」ことだ、という共通認識があった。だから、「としより」が乗り合わせていないときでも、「優先席」はたいてい空いていた。そのことから逆に、「優先席」などというものをわざわざ作らない方がよいのではない、という議論さえ社会に生まれた。そういうものがなくても、要するに誰でも「としより」に席を譲る社会こそ「あるべき」社会ではないか、というような声さえあった。
 
しかし、いま見ていると、「シルバーシート」というものが存在することを、全く知らないかのような風景が、「普通に」あるようなのだ。たとえその意味を知っていたとしても、空いていれば座る、それの何が悪いのか、という感じがする。
 
若い自分が「優先席」に座ることは、そもそも「恥ずかしい」、という感覚が、かつては広くあったように思う。だから私も、一定の年齢になるまで、「優先席」に座ったという記憶が全くない。
 
すると、こんな声もかかってくるかもしれない。若者だから「優先席」に相応しくない、というのは決めつけではないか、と。若者でも病人はいる。徹夜明けで倒れそうなこともある。外からは見えないが怪我をしているかもしれない。あるいはまた、妊娠しているかもしれない。「優先席」の背後の窓には、そのようなピクトグラムが貼ってある。
 
もちろん、私もできるかぎり善意で考えている。しかし、そんなふうではないと思しきケースが殆どだから、申し上げている。しかも、百%近く、彼らはスマホを見、また操作している。SNSかゲーム、動画、これらのどれかの可能性が非常に高い。倒れそうなこともないし、怪我の気配もない。男性は妊娠しないだろう。中には、足を組んだり、前に投げ出して目の前に人が立つことを排除するような者もいる。
 
スマホを一心不乱に扱う。これを私は以前、「免罪符」だと称した。スマホに熱中していれば、周りに「としより」がいても、「気づきませんでした」という言い訳ができる、すばらしい免罪符なのだ。倒れそうな人がつり革に捕まっていても、「知りませんでした」という言い訳が、いざ責められた時にも用意されている。だから顔を決して上げない。周りの人には、一切関心を示さないでいると、その言い訳ができるのである。
 
そういうのは、駅構内を大勢の人が歩くときにも、免罪符となると考えているらしい。周りの波を意識しないで、気ままに歩くために、普通に歩いている人にとっては、全く「空気を読んでいない」危うさがあるのだ。他人に危害を与えるかもしれないことなど脳裏にはひとかけらもなく、自分のゲームが重要だとするのである。
 
車内に戻ろう。スマホを免罪符にしている現代の風景に相当する形としては、昔は、「寝たふりをする」というのが常道だった。寝ていれば気がつかなくても当たり前である。そこで、誰かに譲ることもできない。「寝たふり」は有効な方法だった。本当に疲れて寝ているという様子ではなく、周囲から見れば、「寝たふり」であることは、殆どお見通し、というような三文芝居ではあるのだが、本人は言い訳が立つと思い込んでいるらしい。降りる駅に着くとぱちっと目を開け、スタスタと歩いていくのに、他の乗客は呆れた眼差しを送ることも、「恥ずかしい」と思うこともない。
 
ところが、あるとき、彼らの心理について、このような説明を耳にした。「席を譲る気はあるんです。でも、譲られたほうは、『自分はそんなに譲られるような老人ではない』と不快になるかもしれないじゃないですか。そんな不快な気持ちにさせるようなら、最初から譲らないほうが『思いやり』じゃないですか。つまり、そういう『やさしさ』ということなんですよ。」
 
まさか、と思った。だが、他の事例やドラマないしアニメなどの中で、この言い訳は、確かに「ある」ということを、じきに私は知ってゆく。
 
本人が「思いやり」とか「やさしさ」とかいう言葉で飾っている自分の言動は、凡そ通用するものではあるまい。「独り善がり」と呼んでしまうことにも抵抗がある。それは「自己中心の正当化の方便」とでも言うしかないのではないか。しかしそれは、奇妙な流行り方をした「論破」が自分でできると思うことにも似た、子どもじみた発想である。論理学も哲学も弁論術も学んだことがないのに、「論破」などという言葉を自分で使うこと自体が、無知をさらけ出しているに違いないのだが、自分の思いついた言い訳が正しいと思い込むのは、「子どもじみた」と「子ども」の名を用いることさえ子どもに対して失礼なほどに、愚かではないのか。
 
どうしてこんなふうに歪んでしまったのだろう。もちろん、すべての若者を一括りにしてそのように呼んでいるのではない。中にはとても健全な対応のできる人も、何人も見かけたことがある。ただ、そうでない人が、近年確かに増えているのである。
 
先日もあった。「優先席」が一列の座席の隅に二つあるが、ひとつに自分の荷物をどんと置き、ひとつに自分が座り、足を組んで前方に投げ出し、スマホのゲームをずっとしているティーンエイジャーの男性。何かスポーツをしてきた、その帰りであるらしい。その心理を勝手に決めつけることはしないが、こうした例はこの人物だけではない。同じ車両の「優先席」の半分以上は、似たような世代が座り、スマホをいじっている。その年齢の2倍も3倍もあるような人が、その前に立っている。
 
それとも「としより」とは、着物を着て背中が曲がり、顔中に皺が走っているような人であり、いまにも倒れそうな人のことしか指していないのか。「優先席」は、そのような「としより」がいなければ、自分が座って何が悪い、という思想を主義としているのだろうか。
 
自分は「王様」として育ってきたのだろうか。親世代は、そうした歪んだ王様を育ててきたのだろうか。彼らは、自分の思想をもつわけではない。「言い訳」は用意しても、「思想」はもっていない。だから、エスカレーターで誰かが歩き始めたら、自分も歩いてよいとして、次々と歩き始めるのだろう。社会が一気に転覆する幻が、私にははっきりと見える。民主主義が多数決となってしまったとき、あれが国を滅ぼしたのだ、と振り返り嘆くような時代が、間違いなく来る幻が見える。
 
黙示録は、決して絵空事ではない。そうなる世の中を、ちゃんとお見通しであったことが、丁寧に読むと分かってくる。自分が世界を破壊する、ということに気づかせるだけでも、聖書を読む意義はあるのである。
 
まず私からどうするとよいのか、神の命の言葉が与えられるようにと願うことにしよう。

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