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親ガチャ

嫌な響きの流行語である。メディアが最近よく掲げている「親ガチャ」というものだ。定義はよく知らない。ガチャ、またはガチャガチャというのは、コインを入れてレバーを回せばカプセルに入った何かが出てくるというアレだが、子どもは親を選べないということを意味するものらしい。
 
確かに、どうしてそこに生まれてしまったのか、と思わせるような、不幸な生い立ちというものはあるし、その人に、自己責任でなんとかすればよいのだ、などと冷たい言葉を浴びせる気持ちには全くなれない。もちろん、それを神の思し召しなのだなどと、分かったようなことを言うようなことは断じてすべきではない。
 
だが、この流行語は多くの場合、そこまでの深刻な場面ではないところで飛び交っているように見受けられる。そのとき、その構え方というものに対して、疑念が湧いてくることは避けられない。親がいなければ自分は存在しないのだから、自分が親を選ぶという発想自体、またこの喩え方自体がよく理解できない。そしてそれが、金持ちの家に生まれるか、貧乏な家に生まれるかの格差の問題に適用されると、つまりは金持ちの家に生まれて物質的に安楽で贅沢な暮らしをしたかったのか、という問いかけをしてみたくなる。
 
スマホやPCのゲームでも、設定というものがあり、その設定を基本的に自分が自由にできることから、自分の生活も自分で設定させろということなのだろうか。この発想が出て来たことが、実はよく理解できないのである。
 
「美女と野獣」というお話があることはよく知られているだろう。作者のボーモン夫人(離婚した最初の夫の名で呼ばれるのは不思議だが)は、子どものための雑誌にこうした話をたくさん書いている。18世紀の文化の中でのことだが、王様やお姫様がよく登場する、子どもの教育のための教訓話ばかりだ。二人のきょうだいの性格や境遇が対比され、一人は不遇な生い立ちだが気立てがよく勤勉に学ぶ。もう一人は優遇されて育つがわがままで人を見下すタイプ。当然だが、前者がその不幸から幸福になり、後者がその逆になるという筋書きになっている。
 
そうして、人は生まれや境遇で人生の価値が決まるものではないのだ、ということを強調している。子どもたちにも人気があったこうしたお話に馴染んで育った当時の人々は、きっと「親ガチャ」というような考え方をするものではなかっただろう。ただ、逆に言えば、やはりそうした考え方があったからこそ、ボーモン夫人は、そうではありませんよ、というお話を生んだのかもしれない。実情はそうだろう。となると、やはりこの「親ガチャ」は、普通の人々の素朴な欲求であるというように受け止めたほうがよさそうだ。
 
そうなると、いまこの「親ガチャ」なる考え方を、そうだそうだ、と支援するのではなく、そうではありませんよ、と正すような愛ある声が、まさに必要であるということではないだろうか。
 
教会が、聖書が、それを言わないでどうする、と思う。

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