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その事柄にかかわらせられている者だけが

ここのところ、立派な装丁の本を読み返している。要するにハードカバーというものだ。一日に触れる本は十冊以内くらいにしているが、そのうちの一冊を、この再読本にしているのだ。せっかく、かつてそれなりの金額を払って購入したものだ。一度読んでおしまい、ではもったいない気がしたのだ。もちろん、それだけ読む価値がある、と思うからである。
 
加藤常昭先生が訳した、ドイツの先生のハードカバーをずっと読み直していたが、最近読み始めたのが、スポルジョンの『説教学入門(新版)』である。もちろんこれはイギリス由来である。英語版も私はだいぶ読んだ。邦訳はその抜粋である。
 
最初に訳者のまえがきがあり、続いて編者のティーリケによる長い解説がある。最初の方しかまだ再読はできていないのだが、目を惹くところがあったので、メモのようにここに記すことにする。
 
「何を語るか」だけが重要なのではない、というようなことをティーリケは言う。「いかに語るか」である。もちろんこれは、スポルジョンの姿勢を強調している。スポルジョンの説教学講義では、声の調子や服装などについても細かい注意がなされている。神学生に向けての講義であるが、やたら手を動かして話す癖があるのは滑稽で説教の妨げになる、というようなところにまで言及している。
 
そもそもスポルジョン自身が、神学校などには行っていない。どこか成り行き任せで説教を任されたのが、日本で言えば高校生となったばかりの年齢。それが好評で、17歳にして教会から説教者として招かれている。
 
いかに語るか。それは、レトリックや演劇の学びによっても磨かれる。しかしまた、根本的には、「君が救いにあずかっているのかどうか」(p43)が問題であるという。説教が聴衆を参与させるということには、大切な原理があるのだ。「自分自身がその事柄にかかわらせられている者だけが、これにかかわるようにと人を誘う」(p48)のであって、「この人は信用に値するのだということを本質的に証明するもの」(p48)なのだ。
 
これが何を意味しているかをここで説明するのは無粋であろう。これが分からない人は、もう講壇で説教など語ってはならない。こうした優れた説教論は、たとえ著者の死後130年を経ようとも、変わらない。その1世紀後には、帰納的説教など、新たな提案がなされていて、その時代に応じた話し方やレトリックは適用が変わってくることはある。だが、霊の核心を見つめ、そこから汲み出す命の法則は、そう簡単に変わるものではない。現に、パウロが書いたものを、いまなお私たちは教会の指針として用いている。イエスの言葉をいまも私たちは慕っている。解釈は若干変化しても、その言葉自体が打ち消されることはない。というか、それがキリスト教会の信仰である。
 
温故知新。人間の知恵を絶対視することは避けたいが、自己欺瞞により他者の声を無視することもよろしくないだろう。もちろん、他者が絶対なのではない。神とのつながりや関係のあるところから発せられるものは、それを欠く人々の雑音に優るものである。神が人を誘うのであれば、それこそが人を誘うということなのだろう。人が人を誘うのではない。人が仲良くやろう、と集まるのではない。
 
あなたの聞く説教は、あなたに命を与えているだろうか。あなたはその説教によって、これからの一週間を、生きてゆけるだろうか。いつも説教を聞いていて、それが何も残らず、何の意味もないという生活になっていないか、振り返ってみよう。その説教が、自分にとり何でもない「お勤め」となっていたとしたら、馬耳東風という言葉に喩えると、あなたが馬になっていないか、省みることが望ましい。しかし、そうでないならば、語られる言葉のほうを鑑みる機会となるだろう。もはやそれは説教ではない、と気づくことになるだろう。

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