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マリアたちの経験が私の経験となる

マタイ28:1-6 
 
安息日が明けて、二人のマリアが墓を訪ねます。マタイはそう記します。二人は、墓穴の入口が大きな石で蓋されるのを、先に見ていました。マタイでは、翌日に祭司長たちやファリサイさの面々が、ピラトに申し出たことが描かれています。墓を見張っておくべきことを提言し、受け容れられました。何人か知れませんが、複数の番兵が付けられました。
 
二人のマリアが主の天使の現れに遭遇したとき、この番兵たちもそこにいました。これも復活の目撃者となるはずです。しかしこの番兵の存在は、案外忘れ去られています。マタイの表現は、聖書協会共同訳では、ローマ人の兵だと分かるように示していますが、ユダヤ当局から金を与えられて偽証をしたことになっています。証人とはならなかったのです。
 
驚くべき出来事を目撃していながら、証人とはならなかった例がここにあります。しかし私たちは、マリアたちの言葉を信じていることになります。ルカやヨハネの証言とは、全く同じ証言ではないように見えます。しかし、キリスト者はそれらを信用しています。なぜでしょう。これが、信仰の出来事だからです。信仰において、それは真実だからです。
 
福音書の一つひとつの出来事が、誰から見てもそうだった、というものと、何かしらの心象風景であるものとの混在したものから、構成されています。すべてが心象だというわけでもないし、すべてが客観的歴史の記述である、とも見てはいません。けれども、すべては神の真実を現しています。ところが、番兵の中では、神の出来事になり損ねています。
 
私たちは違います。「あの方は死者の中から復活された」の宣言を身に受けたのです。これが私たちの中で生じるのです。自分の存在そのものとそれは深く関わります。どうでもいいような、無関係な物語に終わるのではありません。私たちは、確かにこれを経験します。キリストの弟子となった者は、すべての風景が違って見えた時を経験しています。
 
十字架に付けられたイエスを、どこかに捜す必要はない。急いで弟子たちに伝え、主がガリラヤに先に言っている、と告げよ。さあ、見よ。この墓が、「死」のあった場所なのだ。かつてのあなたも、そこで死んでしまいました。でも、もうそこは空です。もう「死」はないのです。私たちはマリアたちから聞くと共に、マリアとしてこれを聞くのです。

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