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一人より二人のほうが

コヘレト4:9-12 
 
結婚式で牧師がここを口にしました。私たちが結婚へ至るときに、心の支えとしていた聖句のひとつでした。聖書の中に自分の意志を探す。それは、ひとつ間違うと自分を正当化するために聖書を利用することにもなりかねません。でも、与えられるというのは、自分の気がつかなかったことが、外からやってくる、ということです。
 
これなのか、と目を覚まさせるような言葉に出会うという体験は、自分の中のもやもやとしたものを形にすることとは異なります。「一人より二人のほうが幸せだ」にはっとさせられますが、聖書は「幸せ」に溢れています。詩編はその最初からそれに満ちていて、申命記は、主に従うことで祝福に与ることが明確に示されています。
 
イエスも、貧しい者などの幸いを並べていますし、逆にファリサイ派の精神を掲げて、それは不幸だ、忌まわしいと告げもします。主にあって死ぬ者は幸いだ、などと黙示録は慰めすら与えていますし、罪ある人間が主によって幸せとなる道が、聖書のそこかしこを貫いていることがよく分かります。ここでは、二人の幸いが明らかにされています。
 
気をつけるべきことは、これを男女の二人と決めてはいないようだ、ということです。むしろ「友」と呼んでいます。もちろん男女であっても「友」と呼んで差し支えないのです。夫婦が「友」として「共に」生きてゆく姿もあるでしょう。共に労苦し、一人が倒れれば他が起こし、共に暖め合うことさえできるというわけです。
 
一人が不幸な目に遭っても、二人して立ち向かうことができます。同志の存在は心強いものです。襲われることから守られるとは限りません。それでも、立ち向かえる、と言っています。それでも、まだそしてわざわざここで、三つ編みの糸ないし紐のことが挙げられていることが、私たちの魂をときめかせるように思えてならないのです。
 
一人ではなく二人がよい。そう繰り返してきました。しかし、ここでは三つ編みです。三つ撚り、と訳されたこともありました。日本で撚っても絡みが薄いため、解けやすいものです。二人だけでの結びつきは、強いようでいて、実ははかないものです。もう一本、そこにイエス・キリストという糸が絡むことで、強くなります。たやすくは切れないのです。

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