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「もしも」からの思い

詩編124:1-8 
 
「もしも、主が我らの味方でなかったなら」(聖書協会共同訳)というところから始まる詩です。大胆なスタートです。「もしも」という仮定は、現実はそうではない、ということを前提しているからです。つまり、実際は主は我らの味方なのであり、それは疑いようもないほどに事実そのものだという前提があるからこその「もしも」であるわけです。
 
主が我らの味方であることは、誰も分かりきっており、当然のことだという了解がすでにあります。主が我らの味方でありますように、というような思いは微塵もありません。主は味方でしかないのです。なんと力強い助けなのでしょう。そもそもイスラエルを導く造り主なのだから当然だというような論理の話の問題なのではありません。
 
現実に主はイスラエルを助け、そして自分自身がこの主に生かされているという確信の上に立っている詩人をここに見ることができます。「もしも」味方でなかったならば、火が、水が、私たちを襲っていたことでしょう。けれどもそんなことはなかった。だから主が我らの味方でないなどという仮定は誤っている。私たちもこの恵みに気づきたいものです。
 
私がいったい、火で焼かれたでしょうか。水に呑まれたでしょうか。そうでないなら、主が共にいて、守ってくれた、味方でいた、ということなのです――と思うとき、ふと私は立ち止まります。そうだろうか。それなら、火災に遭った人、水害に苛まれた人は、主が味方でなかったということなのか。あんたは神に見捨てられた、とでも言うつもりなのか。
 
被災者を責めるようなことになる発想を、少しばかり苦労のない自分がとりそうなことに、恐ろしさを覚えます。小鳥のように魂が救い出されたなどと喜ぶこの詩人の言葉を、苦々しく聞く人がいます。そのことに気づいていたでしょうか。詩の奏でる喜びは、それはそれで真実なのですが、あくまでも人生の一場面を切り取ったものであるにすぎません。
 
一部分としてそれは嘘ではないにせよ、それがすべて、普遍的なものであるわけではありません。聖書の言葉もそうです。一部分を、恰もすべてであるかのように取り出して掲げることをするものではありません。そうやって他人を虐げた、福音書の登場人物たちのように。人は、その都度一つの側面において、恵みを受け、救われるのですから。

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