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死後に託す

生涯の最期というのは、突然に来るかもしれない。番組予告があって終了するわけではないからだ。ただ、ある程度予告というか、構えていられるとしたら、自分のいなくなった後のことを、周囲の人々に頼むということが起こる。遺言のひとつである。
 
子どもたちが、自分を葬ってくれるか。その後、墓を守ってくれるのか。日本人にとって、この点は大きな関心事である。私の場合もそうだった。その昔だったら、外国の宗教を信じようものなら、斬り捨てようぞ、と日本刀を振りかざす親父がいたかもしれない。ただそのときにも、「家」という概念が軸にあったのではないかと推測する。
 
自分の死後にも、墓を守ってくれるだろうか。いわゆる墓守をしてほしい、というのは、切なる希望であったかもしれない。だから、身内に、あるいは家を守る息子に、それを託す。託したことで、安心する、ということになる。
 
しかし、本当にそのようにしてくれるかどうか、保証というものはないはずである。きっとしてくれる。そのように信じているわけである。きっとそうしてくれる、という信頼。そうなるだろう、という希望。それは、愛情に基づくというふうに捉えている。驚くことに、ここにキリスト教の三要素とも言われる、信・望・愛が揃うのである。
 
死後については、自分でどうこうすることはできなくなる。だから、思いを受けてくれることを信じて、それで終わることになる。あとは任せる。どうか望んだようになるように、と願いつつ。
 
しかし、それが誰かに伝わるかどうか、分からないときがある。戦時中、戦いに出る兵士たちは、故郷に手紙を書くことができただろうか。特攻隊の人たちもまた、手紙という方法があっただろうか。しかし、その気持ちを伝える方法がない場合も多々あったことだろう。
 
届ける手段がないとき、その思いが伝わることを、どこに託すのだろうか。恐らく神仏に願ったことだろう。現実に自分の手を通じて、あるいは誰かの口を通して伝えることができない場合、神仏に頼み、委ねるということをするしかなかったであろう。
 
きっと、何かを信頼して、最後の頼みとするのだろう。それは確かにある種の「信仰」である。信仰をまるでもたないという人など、恐らくいないのではないかと思う。
 
絶望しかないところに、希望をもたらす。そこに信仰の保証がもてるとすればどうだろうか。ここに、信じられるものがある、ということを知らせるならば、そこには心安らぐものをもたらすことができる、と言えるのではないか。
 
「信仰」だなどと言うと、堅苦しいイメージがあるかもしれない。あるいは、うさんくさい「宗教」のもちものだというふうに見られているかもしれない。だが、もっと素朴なところに、信仰の本質があるのではないか。誰もが、つねにすでに信じている。優しい心が、もう信じることを日常的に生きている。
 
そしてもちろん、その信頼に応えることが、ひとにできる真実だということになる。だから、ギリシア語のその語は、日本語で「信仰」「信頼」そして「真実」と、聖書で訳されているのであろう。

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