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従ってはならない羊飼い

エレミヤ23:1-4 
 
「私の牧場」と主が仰せになった。これは主のものだといいます。主の牧場の羊の向けを散らしてしまう者に、災いあれ。滅ぼすというのは殺すことというよりも、群を群でくしてしまうという意味にとりたいと思いました。そうすると、イスラエルの民が分裂したり捕囚とされたりすることを示せるようにも思えます。
 
エレミヤは、バビロン捕囚を知っています。だからその悲惨で困難だったことを指摘している、としてもおかしくはないでしょう。散らす牧者、つまり悪しき指導者層が非難され、しかしなおその羊たち、即ちイスラエルの人々に対する主からの救済が、ここに対比されています。心配するな。この民は主自らが集め、回復された地に戻すのだ。
 
そして、新しい牧者を立てると、もう恐れることはなくなり、散らされ失われることも、もうなくなるのだ、といいます。その日が来ることを、イスラエルの人々は待っていました。ダビデの若枝が正義をもたらすことを願っていました。そのためにイエスが来たのですが、ユダヤ人たちはイエスを殺し、民から消し去ろうとしてしまいました。
 
かつてこうして「その日」と呼ばれた時は繰り越され、イエスの告げた終わりの日へバトンされるようになりました。しかし、エレミヤの警告は無意味になったのではありません。主の羊を追い払うような偽の牧者は、過去のものではないからです。いつでも、羊が集まるところには出現するものなのです。現代でも、当たり前のように現れています。
 
だから目を覚ましていなければなりません。羊は、牧者の声を聞き分ける耳を授かりました。眠りこけ、神に対して偽った関係でいる者の味気ない言葉を、主の言葉に何の関心も示すことなく受け流すような日々を送ってはいけないのです。主が「罰する」と宣している点は重要です。そうした誘惑の場所は、本来帰るべき牧場ではないのですから。

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