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守れない戒め (出エジプト20:17, 申命記5:21)【十戒⑩】

◆家か妻か

十戒を辿る11週の旅が終わろうとしています。いよいよ最後の戒めとなりました。この第十戒を開くとき、私たちは戸惑います。出エジプト記と申命記とで、始まりから大きく違うのです。
 
隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛とろばなど、隣人のものを一切欲してはならない。(出エジプト20:17)
 
隣人の妻を欲してはならない。隣人の家、畑、男女の奴隷、牛とろばなど、隣人のものを一切貪ってはならない。(申命記5:21)
 
これ、耳で聞くと聞き逃すかもしれませんね。「欲してはならない」と最初に言い切るのが、出エジプト記は「家」、申命記が「妻」です。その次に居並ぶものが、それぞれ逆に「妻」「家」となっています。出エジプト記が第一に示すのが「家」であり、申命記が欲しがるべからずとする第一が「妻」なのです。
 
申命記には次に「畑」が挿入されているのも違う点ですが、それよりも、「隣人のものを~してはならない」と禁ずるときの動詞に、大きな違いがあります。出エジプト記は「欲してはならない」ですが、申命記は「貪ってはならない」とされています。
 
「欲する」とした出エジプト記は、最初の「隣人の家を欲してはならない」と同じ同時です。申命記はそれに対して、最初は「欲する」であったのが、「貪る」の語に展開しています。語学についても無知ですので、誤った理解かもしれませんが、後者のほうが何か切迫したもの、あるいは腹の底からのものを感じます。すると、申命記は「妻」よりも、他のもののほうに、より強い欲望を示していることになるのでしょうか。この戒めにおいて、「妻」の役割は、どちらかというと消極的なものであるようにも見えてきました。
 
しかし、しばらくここからのメッセージの前半では、「妻」のほうに光を当てて十戒の言葉を受けていこうかと思います。
 
イエスが、自分のために~を捨てた者は、この世では何倍もの報いを受け、その後は永遠の命さえ受ける、と話す場面があります。金持ちが来て、永遠の命を受けるためには何をすればよいか、と問うたとき、イエスが財産を捨てよと答えたら、残念な顔をして去って行った、その直後に弟子たちに話した詞です。
 
この捨てた「~」が、マタイ(19:29)とマルコ(10:29)がほぼ同じです。マタイは「家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑」であり、マルコは「家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑」です。父と母の位置が入れ替っただけです。ところがルカ(18:29)では「家、妻、兄弟、両親、子供」と、最後の「畑」が入らない代わりに、「妻」が入っています。
 
ルカだけが、妻を捨てることを推奨しているのです。危ないですね。これでは、聖書に書かれてあることは絶対だ、と教えるカルト宗教に、いいように利用されてしまいます。問題は、神よりも信頼するものは、そうした人間や財産ではないのだ、と知ることです。イエスを第一とするつもりはあるか、ということなのでしょう。
 

◆男と女

NHKの朝ドラや大河ドラマは、息の長いドラマです。世間の関心を集めますから、その主人公は、しばしブームになります。今年は紫式部という、大河ドラマにしてはなかなか珍しい取り上げられ方がなされています。あの岩波書店の雑誌『思想』までが、3月号で早くも「源氏物語」を特集としていたのには驚きました。
 
古典には興味があり、その本の内容を読みたいが、古文を目の前に出されても困る。かといって、現代語訳をそのままもってこられても、源氏物語のような長いものは読み通す自信がない。そう感じる方もいるかと思います。そんなとき、「角川文庫ソフィア」にある「ビギナーズ・クラシックス」はお薦めです。話の概略を進行させ、要点だけは現代語訳と原文とが並んで置かれています。また、時折知っておきたい知識もコラム的に紹介されます。
 
私もその「ビギナーズ・クラシックス」の『源氏物語』を持っており、一度読んだことがあったのですが、今年、また少しずつ開いて見ております。高校生の教科書ならまだよいが、とても中学生の教科書には見せられない作品です。中学生には、そのようにいつも話しています。光源氏は、女性に次々と近づいては自分のものとしてゆくからです。しかし、よく読めば、それぞれの女性を大切に扱っていることが分かります。滑稽なほどに容姿の悪さをまともに描写する女性でさえ、一度縁ができたなら、とずっと面倒を見るのです。
 
一夫多妻は、福祉的な意味合いもある、との考え方もあります。イスラム世界がいまも一夫多妻制をとっている点も、力のある男性が、幾人もの女性の面倒を見る、ということでもあるのだそうです。聖書でも、夫を喪った女性の悲惨さが、幾度も描かれていました。女性が働いて一人で子を育てるのは、いまの時代でも大変なことでしょうが、女性の社会的地位や権利がなかった昔においては、やもめでいることは死と背中合わせのことだったのだろうと思います。預言者がやもめを救う話は、エリヤとエリシャのところで詳しく描かれていました。
 
経済力のある地位ある男性が、女性を救っていたことが分かりました。でもそうすると、経済力のない男性は、女性に巡り会うことができなくなる可能性が高くなります。ひょっとすると、遊郭や娼婦といった制度は、もし互いに認めていたのであれば、社会的ニーズからして、ひとつの必要な制度であった一面があったのかもしれません(ここは上手に聞いてくださいね)。
 
西欧中世では、騎士道が男性の華と考えられていたことでしょう。貴族の誰それ夫人がパトロンになることはよくあったと思いますが、それはただ金だけではなく、関係を結ぶということも、普通だったように見受けられます。子を産んだ女性は、その家のために役割を果たしたことになり、そうなれば、大人の遊びとでも言うのか、愛人をもつことは咎められなかったらしいのです。むしろ、独身女性と関係を結ぶと、いわば傷物にしたということで、責任が発生して厄介だったようです。
 
現代社会のルールや慣習、また価値観とは、昔は違うのです。社会的環境も違いますから、考え方も違って当然です。源氏物語でも、天皇と姻戚関係を結ぶために、貴族の女性はいわば利用されました。しかし大河ドラマでも描かれているとおり、女性にとってもそれはまたとないチャンスと受け取るのが通例だったことでしょう。自分の子が天皇になる、ということにでもなったら、この世の最高の幸せでもあったでしょうから。
 

◆母となること

現代の価値観や考え方から、評価を決めないでくださいね。女性にとり、母になるということが、役割を与えられていた時代や社会があったわけです。それは、聖書に描かれた世界でも、そうでした。妻となり、子を産んでこそ、女性として胸を張って生きていける、そういう人生観があったのです。女性は、母になりたかったのです。
 
日本でも、家系の中に置かれたら、後継ぎを産む、というのが最大の仕事であった場合がありました。武家ではそれ次第では、家の取り潰しさえあったわけです。また、こういう家系図では、女性の名前が書かれず、ただ「女」とのみ記されることも珍しくありませんでした。
 
大河ドラマの主人公の紫式部と呼ばれている人でさえ、本名は定かではありません。ドラマでは仮に付けられているものの、紫式部という呼称は、宮中での女房名として使っているだけのことだと思われます。
 
明治期には特に離婚率が高かったといいますが、「嫁して三年子なきは去れ」などと堂々と言われていた影響があるのでしょう。離婚扱いしないためには、「お試し婚」も当たり前だった、ということも聞いたことがあります。あるデータでは、1920年では6分の1がお試し婚だとか、その年齢が十代前半もよくあることだった、とかいいます。この辺り、統計の基準ややり方により数字が異なるかもしれませんが、現代離婚率が非常に多くなつているのと比べても、1.5倍ほどはあったと考えられています。
 
女性の意識としても、結婚したことよりも、母となったことの方がうれしい、というのが自然だったような社会環境でした。もちろん、欧米ではこれとは正反対の感じ方となっていたとしても、それはそうなのだろうと思います。
 
今日5月12日は、母の日です。尤も、5月の第二日曜日を母の日とするのは、アメリカ由来のものであり、世界中には、様々な日付で、それぞれの国や文化における母の日があります。アメリカ由来の母の日の物語は有名ですし、ほかでもお話ししたことがありますから、詳しくここで繰り返すことは致しません。ただ、それは教会を舞台に始まったということで、聖書をお話しする中で触れても差し支えはない、と判断しました。
 
アンナ・ジャービスというお嬢さんが、教会のためによく仕えていた母親の追悼に花を贈ったことから、それは始まりました。アンナにとって、それは個人的な一人の母の日だったのが、多くの人のための母の日となり拡大し、商業主義が蔓延していきます。「母の日」の原点回帰のために、最も反対したのが、当のアンナだったというのは、皮肉なことですし、アンナを疲れさせ、落胆させ続けたるばかりとなったのは悲しいことでした。アンナ自身を不幸にした「母の日」というものについて、私たちは少しでも配慮する必要が、ないでしょうか。
 
今年はちょうど一週間前が、「こどもの日」でした。日本の風習や歴史に基づくものではありますが、現今の法律で、この祝日がどのように規定されているか、もしご存じでない方がいたら、この機会にお見知りおきください。こどもの日とは、「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する」日のことだというのです。
 

◆姦淫と貪欲

この辺りで、本筋へ近づきましょう。依然として「妻」の問題なのですが、出エジプト記にしろ、申命記にしろ、隣人の妻を欲してはならない、という点では違いがありませんでした。「他人の妻を欲する」、というわけですが、十戒の第七戒には、「姦淫してはならない」とありました。これらは、どう違うのでしょうか。
 
姦淫というのが、男の立場からのものである、という点は先に確認しました。基本的に、それは他人の妻との間の出来事でした。すると、他人の妻を欲してはならないことと、他人の妻を姦淫してはならないこととは、重なる部分が多くなります。とはいえ、それでも区別がつかない、と疑問に思う人がいるかもしれません。
 
他人の妻と関係を結ぶと、社会的な秩序を壊す、というような考えがベースにあったのかもしれません。しかし、「姦淫」は行為として、してしまうことです。「欲すること」は、行為にまではしなくても、心の問題、動機の問題だと考えられます。
 
新約聖書の時代になると、イエスがこれについて、こう言っていました。
 
あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、私は言っておく。情欲を抱いて女を見る者は誰でも、すでに心の中で姦淫を犯したのである。(マタイ5:27-28)
 
イエスは、旧約で行為を禁ずる律法について、いわば「動機」を探るような言い方をここで何種類かしています。ここでも、「姦淫」という行為に対して、「情欲を懐いて女を見る」という心について、罪を定めています。「見る」ということも行為ではないか、と捉える人がいるかもしれませんが、少なくともそれは「姦淫」には当たらないはずの問題だ、として差し支えないでしょう。
 
こうなると、この十戒の最後の規定は、すでに動機に言及していたのであり、イエスを待つまでもなく、心の問題が罪となることは当たり前だったのだ、ということになるようです。十戒は最後に、とてつもない爆弾を仕掛けていました。
 
ところで、他人の妻を欲する、という男だけに適用できる規定である点は、現代人として私たちはすんなり同意ができません。他人の夫を欲しがる女、と言い直してみると、現代には確かにいるような気がします。律法というものが、そもそも男だけを対象にしていることになります。イエスが教えたことも、「情欲を抱いて女を見る者」であり、男目線でした。いまの朝ドラ「虎に翼」でも、結婚した女は「無能力者」だという、当時の法律に、主人公がショックを受ける場面がありました。
 
第十戒は、「妻」のほかにも、「家、畑、男女の奴隷、牛とろば」といったものを欲しがることを禁じていました。ここで、女性問題を離れることにします。様々な隣人のものを欲しがること、それは「貪る」という申命記の言葉が確かに当てはまります。それは「貪欲」です。
 
もしかするとそこには「妬み」も含まれる可能性もありますが、ここでは「欲する」の路線で、やはり欲しがることについて、的を絞ろうと思います。
 
そして、群衆に向かって言われた。「あらゆる貪欲に気をつけ、用心しなさい。有り余るほどの物を持っていても、人の命は財産にはよらないからである。」(ルカ12:15)
 
この箇所でイエスは、「あらゆる貪欲」に警戒するように教えています。それは、物を持つことが永遠の命となるわけではない、ということに主眼があるのでしょう。つまりは、神を求めなさい、という方向に連れて行きたかったのでしょう。
 

◆イスラエルと貪欲

十戒は、旧約聖書の一部です。旧約聖書の中心だとも言えます。その旧約聖書の部分には、この「貪欲」は、どのように例示されているでしょうか。ひとつの顕著な例として、ナボトのぶどう畑の事件を思い出してみます。列王記上21章です。少々長いですが、お付き合いください。
 
1:イズレエル人ナボトは、イズレエルにぶどう畑を持っていたが、それはサマリアの王アハブの宮殿のそばにあった。
2:アハブはナボトに話を持ちかけて言った。「お前のぶどう畑を譲ってほしい。私の王宮のすぐそばにあるので、菜園にしたいのだ。その代わり、お前にはもっと良いぶどう畑をやろう。もしよければ、それ相当の代価を銀で支払ってもよい。」
3:ナボトはアハブに言った。「先祖から受け継いだ地をあなたに譲ることなど、主は決してお許しになりません。」
4:アハブは、イズレエル人ナボトが、「先祖から受け継いだ地をあなたに譲ることなどできません」と言ったことに機嫌を損ね、激しく怒って王宮に戻った。そして寝台に横たわって顔を背け、食事もしなかった。
5:すると妻のイゼベルが来て、「どうしてそのように機嫌を損ねて、食事もなさらないのですか」と尋ねると、
6:アハブは話しだした。「私はイズレエル人ナボトに次のように話を持ちかけたのだ。『代金を支払うからぶどう畑を譲ってほしい。あるいはお前が望むなら、代わりのぶどう畑をやろう。』だがナボトは、『ぶどう畑は譲りません』と言うのだ。」
7:妻のイゼベルは王に言った。「今、イスラエルを王として治めているのはあなたではないですか。起きて食事をしてください。そうすれば気分はよくなるでしょう。イズレエル人ナボトのぶどう畑は、この私が手に入れてさしあげましょう。」
8:イゼベルはアハブの名で手紙を書き、彼の印で封をし、その手紙をナボトが住む町の長老や貴族に送った。
9:手紙にはこう記されていた。「断食を布告し、ナボトを民のいちばん前に座らせなさい。
10:そして二人のならず者を彼に向き合って座らせ、『お前は神と王を呪った』と証言させなさい。それからナボトを連れ出し、石で打ち殺しなさい。」
 
この後、実に気の毒なことに、ナボトは殺され、土地はアハブ王のものとなってしまいます。その報いはさらに後に受けることになりますが、ここで、アハブ王が、子どものようにいじける姿が描かれています。政治的には有能だった人間をも、聖書は神の前にどうか、と問うているようです。フェニキア出身の王妃イゼベルは、肝が据わっています。冷静に、人殺しを提案します。
 
権力者の搾取が、如何にも戯画的に描かれていますが、こういうのは、果たして「貪欲」ということなのでしょうか。聖書は、そこに貪欲だと強調している様子はないように見えます。それは「悪」だと厳しくエリヤが指摘しますが、貪欲がよくないような言い方をしているようには感じません。
 
旧約聖書では、多くの権力者、王が厳しく評価されていますが、そこで戒められているのは「不正」です。「公正」を欠くことであり、民を導かないことです。しかし、為政者たちは、神の求めるような「牧者」として、なっちゃいないのでした。
 
それを指摘するのは、多くの場合、預言者です。イスラエルの民が神に従わないことについては、文書の記者が評価をするようなこともありましたが、王政が始まってからは、預言者の言葉が、為政者の悪を指摘してきました。
 
そして新約聖書になると、使徒たちの伝道やパウロなどの手紙においては、権力者を悪し様に言うのは控えられているように見えます。このような指摘をしたのが、イエスでした。先ほども挙げた箇所ですが、イエスが戒めています。
 
そして、群衆に向かって言われた。「あらゆる貪欲に気をつけ、用心しなさい。有り余るほどの物を持っていても、人の命は財産にはよらないからである。」(ルカ12:15)
 
物を求めて、地位を求めて、非常に欲しがる。これは厳しく禁じられ、また警戒されます。それは、世のものなのです。しかし、同じように求めるにしても、「聖霊」を求めることは、当然推奨されます。「神の国」を求めることも、必要です。神からのものを求めることは、決して貪欲とは言いません。
 
前回、私たちは、「偽証してはならない」から、「真実を語る」へとシフトする読み方をしてみました。今回も、「欲してはならない」について、少し「ずらし」をやってみようとしています。欲するのです。何を? 聖霊を、です。聖霊を、求めるのです。神の国を、求めるのです。私たちは十戒から学び、神の声としてこのように受け止めたいと願います。
 

◆守れない十戒

こうして私たちは、四ヶ月ほどの期間の中で、十戒を通じて、神からのメッセージを聴こうと努めてきました。ここで、十戒を全体的に振り返るひとときをもつことにしましょう。
 
と言っても、一つひとつについては、毎週ゆっくりと噛みしめてきましたので、それを繰り返すつもりはありません。ダイジェストで振り返るつもりはありません。それよりも、そもそもこの戒めは何の意味があったのか、ということに目を移してみたいのです。
 
神がイスラエルの民に与えた律法です。その根本的な部分の柱となるべき掟だとして、モーセに特別に与えられました。ということは、民族に神の意志だということで、ある程度整理して掲げられた原則だということになります。いわば憲法のようなものでしょうか。他の法律が、この原則に基づいていることが必要であるということです。
 
「殺してはならない」という原則がありました。従って、人を直接に、また間接に、殺すような行為が具体的に禁じられるようになります。しかし、「殺す」というのは、意志を伴っているものと理解されるが故に、過失致死については、殺人罪を適用することはしない、という配慮がありました。――このような解釈も、可能かもしれません。
 
イエスもまた、十戒を重んじているようです。しかし、イエス自身は、律法のエッセンスを、神を愛することと、隣人を愛することに、より深い原理性を認めていたように窺えます。十戒という項目の背後に、精神的な土台が実はあったのだ、という点を、イエスが明らかにしたのだ、と理解することもできるでしょう。
 
ただ、少し別の角度から見ると、そもそもこの十戒を守ることができない、そういう前提で受け止める道もあろうかと思います。イエスが、これを守っていると豪語するエリートたちを批判したのは、その点です。
 
十戒の言葉のニュアンスは、よく解説されるように、「するな」という禁止口調というよりも、「するはずがない」というようなニュアンスで書かれている、と考えられています。だから、その一種の期待に、自分が応えている、との思い込みがはびこる可能性がありました。エリート意識は、まんまとその傲慢な罪に染まってしまっていたのです。自分たちは庶民とは違い、律法を守る努力をし、ちゃんと神の前で優等生でいるのだ、とほくそ笑む者たちです。守っているつもりで、実は守れていない。そこに大きな罪があることを、イエスは指摘した、と私は見ています。
 
他方、十戒を守れない、と項垂れるのは、罪に対して鋭敏な感覚をもつ人たちです。最初はそんなふうに気づかなくても、ああ実は自分は罪を犯していたのだ、と気づかされる経験をもった人です。私が盗みについて、それを覚るようにさせられたことを、「盗むな」の回で、打ち明けました。十戒は、そのような体験を呼ぶ、ひとつの契機となり得る野です。
 
罪の中にある。その意識に包まれた、惨めな私は、イエスの前に突っ伏します。エリートたちに完全と立ち向かい、その故に命を失うこととなったイエスの前にいる自分が、罪に押しつぶされそうになりました。イエスの命懸けの――そして事実命を棄てたあの出来事によって、私は救われたのでした。
 

◆十戒を結ぶにあたり

十戒を結ぶにあたり、私がこのシリーズの最初のほうで述べていたことを繰り返して、締め括りとします。まずは、十戒の第一についてのメッセージの結びです。
 
 ★
教会が、そしてクリスチャンが、世に伝えようとしている福音が、このようになっていないか、絶えず振り返らなければなりません。いえ、私は思います。これは私のことだ、と。ここをお読みするのが、いつも辛いのです。これは私自身の姿を描いている、という切迫した思いに襲われるからです。
 
それでも、私は絶望しません。律法を尊重するべきことは確かです。しかし、いまさら律法に従うために労苦する、ということをイエスが言い始めたら、福音でも何でもありません。律法を守れない人間、律法で罪ありとされた人間を、その罪を背負うイエスの故に、すべての罪が赦されて救われる、としたのがイエスであったはずです。
 
「あなたがたの義」と呼ばれるような正義など、私たちの内にはありません。しかし、私たちは確かに、「律法学者やファリサイ派の人々の義」に優る義を、知っているのです。――「神の義」です。イエスが愛を以て、私たちの罪を赦したという「神の義」です。神がしてくださった、人間の知恵と業とからでは永遠に出てこない出来事がもたらした「神の義」です。
 
十戒が、「私は主、あなたの神」として現れた神により与えられた律法であるとするなら、その同じ神が、その律法を守ったこととする救いの業をもたらしてくださいました。神自身が、人の想像を絶した痛みを以て、それを成し遂げました。罪は放置できません。処分しなくてはなりません。だから、イエス・キリストがその十字架で罪を背負い、私たちの罪が私たちに覆いかぶさらないようにしてくださったのです。キリスト者とは、そういう救いを信じる者です。十字架のイエス・キリストを見上げるとき、そこから声を聞く機会が与えられている者たちです。「私は主、あなたの神」なのだ、と。
 ★
 
そして、十戒全体を見渡す最初のときに、私は以下のように漏らしていました。これを再び掲げることによって、私が神から受けた心、そしてそれを伝えて神の言葉がはたらくことの証しと致します。
 
 ★
私たちは、十戒を、イエスの言葉の下で読み直す旅に出ようとしています。私たちは、イエスを通して、神と出会いました。それまで自分が正しいと言い張って生きてきたことが、すべて間違いだったことを知る機会がありました。かつての私は、確かに死んだのです。罪の中にあったその自分の世界から連れ出されて、イエスの十字架の許に私たちは立ちました。そのとき、私たちは神の前に立ったのです。十字架のイエスの前に立つことによって、神の前に立つのです。そう、モーセと共にいたイスラエルの民のように。
 
モーセは民を神に出会わせるために宿営から連れ出した。
彼らは山の麓に立った。(出エジプト19:17)
 
モーセではなく、イエス・キリストが、私たちを連れ出しました。いま私たちは神の前に立っています。イエス・キリストの光の中で、これから十戒を読み始めます。そのとき、十戒の言葉が、新たな輝きを以て、私たちの心に注がれてくることを、私は信じています。 ★

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