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良い質問をしよう

社内旅行や社内云々というのは、若い人は好まないため廃れてきていると思いきや、看護師職の妻の務める小さな医院では、時折、イベントがある。歌舞伎や演劇の鑑賞や、一流ホテルや料亭での食事もある。良いものに触れるということは、人間を豊かにするということなのかどうか、趣旨を知るわけではないが、粋な計らいに見える。
 
先日は、鮨をご馳走になったという。
 
妻は、人間観察が性分である。職務上、患者がどういう状態であるかには、ただならぬ関心がある。それは、病状もだが、心理的なことについて、ひじょうに鋭い観察眼をもっているということだ。それは、小説やドラマによっても養われたものなのかもしれない。その場の雰囲気を察知するということについても並々ならぬ才覚を発揮する。鈍感な私は度々こっそり注意されもする。
 
さて、鮨を握る職人に対して、妻はどうしたか。何かしら会話がほしい場面であったらしい。社交的に会話ができるメンバーがいない場面だったということで、何か口火を切ろうと構えていた。そこで、発したことが、「質問」であった。
 
その場にいたわけではないので、私はただ聞いた話として記している。何をどのように質問したのか、ここに再現できると面白いのであろうが、ご勘弁願いたい。日常、寿司と言えば回転してくるものか、スーパーマーケットの出来合いのものくらいしか味わっていないわけだから、訊こうと思えばいくらでも質問事項はあるはずだ。鮨職人に尋ねるのは失礼かも、と思わないわけではなかったが、一素人として、素朴な質問を発し、また重ねていったのだという。
 
握りながら大将は、その質問に快く応えてくれたそうだ。失礼どころか、「よい質問ですね」と、機嫌良く応対してくれた、度量の大きな人であった。もちろん、嫌味な質問をするような客には困惑するかもしれない。だが、素朴に、鮨への関心を示してくれる質問とその姿勢は、確かにその場にも合い、また会話が弾むためにも適切であったのだろう。質問内容は私は知らないが、そのときの様子は目に浮かぶような気がする。
 
学習塾での授業もそうだ。私は積極的に、質問を募る。だが、他の生徒の手前、公に質問することを憚る子が多い。何かと喋るタイプで、目立ちたがりの子は、余計な質問ばかりして煙たがられることもあるが、そうでない子は、確かに質問をするのは勇気が要るだろう。授業が終わってからつかつかとやってきて、質問する、というケースがことのほか多い。本当は授業中にしてくれると、皆のために役立つし、私の移動時間も削られずに済み、また質問への答えもゆっくりできるのではあるが、当人はそれが精一杯の勇気であるのかもしれない。
 
他方、全く質問がないというとき、教える側とすれば、少々不安がある。授業をどう受け止めているのか、分からない場合があるからだ。もちろん、内容をよく理解してくれたために質問がない、というのであれば言うことはないのだが、皆がそうであることはまず期待できない。また、当人は分かっているつもりでいても、後でテストをすると全く分かっていない、ということもあるから、質問の有無が直接どうだ、といま決めつけているわけではない。だから、良い質問があるということは、教える側にとってはうれしいものである。どこまでが分かっており、どこからが分かっていないか、はっきりするからだ。それに、良い質問をするということは、基本的に良い理解ができている、というのも本当である。
 
それから、質問が出ないということの怖さは、そもそも話したことに関心がない、という可能性があることを、私は知っている。そもそも聞いていない。どうでもいい。塾へ行けば親はしっかり勉強していると思っているだろう。それだけで十分だ。退屈だし、興味はないし、ただここにいればそれでいいだろう。こんな心構えであったら、とても質問などというものが出てくるわけがない。
 
以前、その教会では、礼拝の後、コーヒータイムがあった。私がコーヒーを淹れる担当であったが、そのために、コーヒーをありがとう、というように声をかけられることもあった。そこからちょっとした会話も生まれた。今日のコーヒーは何ですか、と質問されることもあった。私がよく種類を替えていたからだ。
 
ただ、残念だったのは、説教を語った牧師に対して、「質問」らしいものが出ているようには殆ど見えなかったことだ。いまの説教の、あれは何のことですか。あそこはこんなふうに理解すればよいのでしょうか。あれはこういう意味だと思ったのですが、どうなんでしょう。そのような質問があれば、語った説教が、神の言葉として生き生きと働くに違いない、と私はよく思っていた。
 
実は、そのようなことを、できるだけ何か一つでも説教者に尋ねよう、と思っていたのが、この私である。そのとき、心ある牧師は、快く応えてくれた。礼拝説教の中では、話す対象や時間の関係で、そこまでは言えなかった、というような点を、説明してくれることもあった。また、教会や出版社の背景について教えてくれることもあった。しかし、礼拝説教にあまり関心のない説教者は、大きな声で笑いながら、質問をはぐらかそうとするのだった。突っ込んだ話はしたくないかのように。
 
礼拝説教は、その場限りのお飾りである。そのように認識している説教者や教会もあるだろう。教会員も、右へ倣えということになる可能性が高いが、その死に体の教会を復活させることができるのも、その教会員であると思う。あなたが説教に、つまり聖書に関心をもち、礼拝後に「質問」をすることで、それは可能にもなるのだ。きっと。

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