矛盾を超えて
聖書には、矛盾することがたくさん書かれている。無理もない。たとえ霊的な著者は神でありひとりであったとしても、地上での書き手は様々な人物であり、時代も環境も異なるライターである。その理解や個性に合わせて綴ったとなると、辻褄の合わない事柄はいくらでも出てくることだろう。
対立する考え方や命令などがあるとき、私たちはどちらを取ればよいのだろうか。パウロは、行いよりも信仰と書いているが、ヤコブは信仰よりも行いだと言っている。そうした言明の、言い回しを深読みして、どちらも適切なことを言っている、と「解釈」あるいは「説明」する人がいる。なるほどと感心することもあるが、さもしい言い訳めいて聞こえることもある。キリスト教世界の外から見れば、恐らく後者だろう。
原典の言語をよく調べることによって、矛盾としなくてもよい、などとする技術も生まれていることだろう。また、矛盾することが実は逆説であるとして、穿った見方を提供する人もいるだろう。原語についてはその時代その文化のことを私たちが知っているとは言いづらい時もあり、他の古代文献を参考にして考察してあることもあるし、なんとか聖書は正しいのだ、少なくとも意味あることが書かれているのだ、という信念によって、弁解めいた説明を施すこともある。素晴らしいと思うこともあるが、見苦しいと感じさせることもある。
15世紀ドイツに、ニコラウス・クザーヌスという学者がいた。ルネサンス期の思想を扱った本で昔知ったのだが、ひときわ興味深い思想だったために、いまだによく覚えている。それは「反対の一致」という考え方である。大きなものも、小さなものも、無限という域で考えると、何の差異もない、つまり一致するのだという。詭弁のように感じる人もいるだろうし、論理的に捉えれば矛盾だと言われても仕方がない。しかし、神と人間との関係に思いを馳せるとき、神秘主義だと言われようと、クザーヌスの言っていることは気持ちが分かる、というふうに思う信仰者は多々あることだろうと思う。
これは古くは、古代ギリシアの変人でもあるヘラクレイトスもまた、「対立者の一致」を説いている。こちらは断片的な発言だけが遺っているに過ぎないので、その発言の真意というものは想像するほかはないのかもしれないが、万物は流転するという言葉で知られる哲学者であるからには、変転する世界の中で、対立が固定されている必要はないのではないか、と言いたかった可能性もあるだろう。
ヨーロッパに戻るが、17世紀フランスの天才パスカルも、そのようなことを言っていると聞いた。イエス・キリストにおいて、矛盾と私たちが見るものも、一致に至るのである、というふうにであろうか。ヘラクレイトスはともかく、クザーヌスやパスカルは、神というひとつの場を想定したときに、人間には互いに矛盾しているようにしか見えないものも、決して矛盾するものではないだろう、という捉え方をしていることは、注目に値する。
哲学者のヘーゲルは、神だと露骨に掲げはしないが、世界精神といった呼び方をするものが自己実現をするものこそ歴史なのだというような壮大な世界観を呈した。そのとき、互いに矛盾し、相反するように見えるものも、いわば一段高いところに掲げうる概念が現れると、もはや対立し矛盾するようなものではなくなる、という形式の論理をとった。アウフヘーベン(止揚)である。
多くの賢人が、この世界での矛盾を認めつつも、しかしそれはただの矛盾や対立のままで終わりはしないというように考えるにはどうすればよいか、提言した。それをキリスト教の神だとした人もいれば、いわば切り札のような神ということで片付けずに、できる限りの論理を以て説明しようとした人もいる。それらは、理性的には信用できないものと見ることもできるだろうが、ヘーゲルについては、このような運動の中にこそ理性そのものと呼ぶべきものを見たわけで、決して思いつきで言いくるめたものではなかったと言えるだろう。
自分の思いと対立するもの、矛盾するものが、人生で立ち塞がることだろうと思う。自分の意のままにならぬ事態に遭遇したとき、その時にこそ、その人の真価が問われているのだ、という捉え方がある。人は、意のままにならぬ事態を説明しようともがいてきたのだが、そこにこそ、人は自分がそこに参与する「物語」を生み出して、へこたれずに生き続けてきたのだ、とも言えよう。
それを安易に解決したつもりになり、自分や周囲に嘘をつき、自己欺瞞で乗り越えたつもりになっていると、それは神の意にも反するだろうし、人の世界でも虚偽による破滅に至る道となるだろう。苦しんでいるならば、その苦しみの中にいるがいい。それが真摯なものである限り、神は真実にあなたを救うだろう。否、すでにもう救っているであろう。その宣言を、聖書の中に見出すならば、もうあなたは幸福の中に足を踏み入れている。
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