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言葉の変化

「ちゅらさん」の再放送を見ている。主人公の恵里ちゃんのぶっとんだところには、むしろ心が洗われるような気もするのだが、看護婦になっての成長もまた見所ではある。ドラマは元々2001年に放送されていた。
 
と、ここまで、何か引っかかるところはなかっただろうか。言葉である。ドラマではすべて「看護婦」という語が飛び交っていた。いまは「看護師」という。男女雇用機会均等法などの背景があり、男女の呼称の区別を撤廃したのである。それが、2002年のことだった。ドラマは、ぎりぎり、その前の時代にかかっていたのである。
 
伝説の「スチュワーデス物語」は、1983年から翌年にかけてテレビ放映された。この「スチュワーデス」も、いまは使わない。「キャビンアテンダント」と日本では呼ばれているが、これは和製英語だとのこと。公的には「客室乗務員」でよいらしい。
 
時代の中で、こうした呼称は変更される。改善される、と言ってもいい。差別感や社会組織の変化など、理由はいろいろあるだろう。文化的な影響もあるだろうし、時にはテレビや映画のヒットにより、新たな呼び方が定着することもある。
 
「秋桜」と書いて「コスモス」と読むんですね。というのも、なんだか常識のようになっているが、半世紀前の歌謡曲が発端だと言われる。作詞のさだまさしの力もさることながら、山口百恵が歌ったために、と言うべきなのだろうか。俳句では「あきざくら」と読むものとされているらしい。
 
「オタク」という言葉も、個人の発した語に始まるという。1980年代からだというから、案外歴史は長い。もう当たり前のように世間で通用しているが、さて、これはいつまでそのまま通用するのだろうか。
 
「看護婦」という言葉を知らなくても、生活上困ることはさほどあるまい。昔使われていた言葉は、知らなくても生きていける。だが、少しでも以前の文献を見るときには、いま流通しない言葉について知らないと、読めないことがあるだろう。「ちゅらさん」の再放送でさえ、いま使わない「看護婦」が普通に使われているのだ。
 
それくらいならば、言葉自体が似ているから、検討がつく、という考え方もある。だが、皆がそうだとは限らない。特に、子どもたちと話していると、日本語が通じないことをつくづく感じる。むしろ、カタカナ語や英語の言葉のほうが、楽に伝わるのだから、皮肉めいている。
 
イカのような軟体動物は「外とう膜」をもっている。これは絶対に記憶しなければならない項目であるが、中学生は殆ど誰ひとりとして「外とう」とは何かを知らない。「脊椎動物」は漢字で覚えさせるのに、「外套膜」は漢字を使わせないのもアンバランスだと思うが、この漢字の「外套」を板書しても、誰も分からない。
 
これではゴーゴリの『外套』が読まれない理由もはっきりしている。いっそ『高瀬舟』くらい歴史の中に埋没していたほうが、興味をそそられるものなのかもしれない。
 
だからここで「コート」だよ、と説明すると、全員が納得する。「外套」は通じないが、「コート」なら通じる。こうしたことは、枚挙に暇がない。通じないというのではないが、「カッコ」を英語だと思い込んでいる子が殆どであることも、痛感している。「括弧」という漢字を書くと、そこで気づく子もいる。こうして「括る」という漢字と読み方を教えるのも、教える側の務めである。
 
思えば、呼称と実態の食い違いというのは、幾らでもある。さすがに現在、「テレビのチャンネル」という言葉は消えたように見えるが、少し以前までは聞かれたし、通じた。電話のベルが鳴る、ももう使わないだろう。しかし、電子レンジは言葉の上ではいまでもなお「チン」という模様だ。
 
小学生ならば、「筆箱」のことは「ペンケース」でも通じるが、小学校低学年の子のそれには、「筆」も「ペン」も入っていない。しかし、小学生にも「下駄箱」が通じる場合があるというから、時代錯誤もいいところである。
 
キリスト教用語については、どうだろう。いつの間にか慣れっこになっていると、仲間内の隠語のようになってしまう。なってしまっていることにさえ、気づかないでいる。そもそも教会成立の頃から、「きょうだい」と呼び合うことが、不埒な関係であると言いふらされることがあったらしいし、「取って食べなさい」はカニバリズムだと気味悪がられていた時代もあるとのことだから、用語にいちいちケチをつけるつもりはない。だが私は、教会内で「ノンクリ」という言葉が使われることには、不愉快である。その響きの中に、言葉だけでは意味しないかもしれない嫌なものを感じるからである。感じる私の方がダメなのかもしれないけれども。
 
聖書の訳語も、時代と共に変わる。この数年で、おもな聖書が新たな訳を提供している。新改訳のほうは新しいものにわりと抵抗なく移行したようであるが、聖書協会共同訳のほうは、うまくバトンが渡されていないように見える。かなり大胆な改訳のせいなのだろうか。その意味では、かつての「共同訳」の変貌には驚かされた。固有名詞に対する違和感はこの上なかった。それを修正した新共同訳であったが、カトリックとプロテスタントの「共同」は、それぞれの内部事情を開放するものとして、意義があったと言えるのだろうか。その点の検討があった、という話は聞かない。新しい聖書の宣伝はたくさんあるが、新共同訳についての「検証」というものも、もっとあってもよいのではないかと思う。そのアンサーが聖書協会共同訳であるのかもしれないが、単に私が知らないのであれば、教えて戴きたい。
 
言葉が変わるということは、人間の思考が変わる、ということである。人間は言葉を使って思考するからである。言葉によらなければ、思考できない。たかが言葉、と軽んじてはならないと理解している。「差別語」についてもそうである。ただ、それが「差別語」であることを知らない、となると、また少し違う。古い本の末尾に、作者が存命でないこと、昔使われていたこと、差別の意図はないと見て尊重すること、などを鑑みてそのまま使っている、と断るものがことのほか多い。私はそれでよいと思う。古い「差別語」は、知っていてよいのだ。ただ、私たちが使わないようにしていたいということだ。
 
古い「差別語」を使うことなく、もっと酷い「差別」をしている人は、いくらでもいる。あるいは、無知故に、「差別語」を平気で使う人が出てこないとも限らない。言葉に対する関心を、私たちはもっともつようにしたい。古典など学ぶのは無意味だ、という声が巷で聞こえるが、いまここで通じればよいだけの「記号」だと、言葉のことを勘違いしている危ない考え方だと私は考えている。

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