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閉鎖へ向かう教会とならないために

キリスト教会が宗教法人として活動していくとき、この世の法律の下にあるわけで、それに従わなければならない。予算決算などの報告が必要となる。それがなければ、どんぶり勘定も可能であろうし、すべては神さまが与えてくださる、という信仰の中で伝道する人がいてもよいような気もする。昔はいたのではないだろうか。
 
ダビデ王は、国民の数を勘定して兵力を確認しようとしたが、それは神の前に大きな罪とされた。その上、その報いとして多くの民の命を失うこととなった。
 
だが、宗教法人としての教会組織は、この数字計算を必須とする。すると、世間的に考えて、いまや教会組織は、経済的な危機に陥っていることが多いと思われる。会員が減る。会費が決まっていれば教会収入も計算できようが、献金は各自の収入に応じて、という原則になっている。だから逆に、カルト宗教では青天井で請求するような真似ができるわけだが、「正統的な」キリスト教会では、それはできない。献金のトラブルも、皆無ではないのだ。
 
京都の教会は、大きな組織ではなかった。牧師夫妻の苦労も重ねられていたが、なんとか教会が支えられるような信仰を生む説教が続けられていた。やっとひとつの形になってきたとき、牧師夫妻は一部の信徒の動きから、そこを手放すように強いられた。ごく小さな間で礼拝を続けるのがやっととなったが、神は最低限の必要は与えてくださった。その中で、私たちの家族の救いのために祈り続け、トラクトを送り続けてくれた。決して小さくない費用が積もったことだろう。そのことに応えることを私たちも長らくできなかったが、ようやく最近、僅かだがお返しすることができるようになった。申し訳ない思いで一杯であった。
 
しかし、組織だった教会では、そういうことはできないだろう。教会員に対しては、週報や活動計画などを郵送するシステムがあるが、教会に顔出しもせず、献金も寄越さない教会員に対しては、送り続けることをしない決まりがある、というのは合理的である。一定の予告か規定を掲げて、郵送を止めるというのは、コストの上でやむを得ないことであるだろう。
 
他方、電子メールなどの方法で、礼拝案内を送ることについては、コストはかからない。コロナ禍以来、リモートの礼拝という新たな礼拝参加の道が拓かれたのは、私はよいことであると評価している。通信環境が必要とされはするが、入院生活を送る人も、足が不自由などの理由で外出が厳しい人も、それまでのように礼拝から排除されることがなくなったと言える。
 
かつて、コンピュータ画面に向かって法事を営むということを始めた寺院が紹介されていた。ワイドショーのコメンテーターは、ずいぶん批判していた。そんなのは間違っている、と。だが、コロナ禍は、それを当たり前のものとした。あのコメンテーターたちは、今どういう意見をもっているだろうか。
 
治療のために家から離れられない信徒が、以前いた。当時ようやくリモート中継が可能になり始めた頃だった。担当者がいない週に、偶々私がそれに応じたが操作方法が分からず、つなげなかったことがあるのを、いまも悔やんでいる。また、その教会では、録音という形で、礼拝の様子をCDに焼くことを日常としていた。昔はカセットテープだったが、CDが使えるようになると、複数作成することがずいぶん容易になった。
 
もちろん、礼拝は「対面」でできるに越したことはない。だが、「対面」でなければ礼拝ではない、と強く言う人は、以前よりは少なくなったのではないか。「聖書はリモート礼拝を認めていない」とか「その場に集まらないと集会ではない」とか、依然として悪しき意味でのファンダメンタリズムを主張する人がいるかもしれないが、えてしてそう言う方は、聖書の中で自分の都合の好いところだけを取り上げているものである。逆に、都合の悪いところは、見ないふりをするものである。
 
それよりも、信仰と希望と愛という、些か抽象的だが、だからこそ具体的に定めにくい原理をいつも顧みるようでありたい、と願う。
 
さて、元の話に戻るが、礼拝の報告や祈りの課題が、電子メールででも届くというのは、その教会のために具体的に祈ることができるために必要なものであう。諸事情で教会の礼拝に出向くことをせず、献金も理由があって納めていないとしても、教会に籍があり、教会のための祈りを献げるような信徒もいただろう。だが、会費を納めない者には、たとえコストのかからないメールであっても、情報を渡さないとでもいうように、説明もなく切ってしまうとなると、教会は、教会の再建のために祈る祈り手を、自動的に失うことになることになる。
 
教会が門戸を閉ざし、情報を外部に出すことを恐れ始めるのは、危険信号である。カルト宗教の姿を見ると、必ずそのようなことをしている。自分の側では「伝道」という美名を使うかもしれないが、凡そ聖書が描くようなそれではない。もはや芯の部分で崩れてしまった教会を回復させることを可能にするのは、その崩壊の恐れに気づいた者の声に基づく調査と再建である。
 
そのためには、命の言葉が語られることが、地味なようで、実は一番力がある。神の言葉への信頼があるということは、信仰の力だからである。その力は、人間の論理や知恵に基づくものに陥る危険も含んでいるかもしれないが、真実の信仰には、愛が伴う。それを育むものは、命ある説教である。説教が、教会に命を与える。教会というのは、そこに集う一人ひとりの魂である。その説教を聞いて、一週間それに縋って生きていける、そうした説教が繰り返される教会は、生きている。人を生かす言葉が語られる教会は、それ自身生きている。
 
そして、確かにそうだ、と思える人は、まだちゃんと生きている。命を失いかけた教会に、神に立ち帰るように、声を発してほしい。神の言葉が語られる教会、神が生き働いている教会になる道は、まだ閉ざされていないはずである。光あるうちに、立ち上がってほしいと願っている。

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