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あーあ

真綿で締め上げる、という言葉がある。「遠まわしにじわじわと責めたり痛めつけたりすること」だという説明が一般的である。だが、それとは少し違う。締め上げているとなると、曲がりなりにも痛みを覚えているのであり、責められていることを自覚していると思われるのである。だが、何の痛みも感じていないとなると、少し違うのではないか、と思うのだ。
 
最近で言えば、「2023年の合計特殊出生率が1.20であった」というニュースが、それであろう。結婚しない人が多くなった、という印象もあるだろう。小学校がなくなってゆく、と思っている人もいるだろう。中には、教会学校の子どもがいなくなった、ということで感じる人がいるかもしれない。
 
人口増加がよいことであるのかどうか、知らない。近代特に増えすぎた、という分析もあるだろう。だが、一旦出来上がったシステムを維持するためには、人口減少は望ましくない、という理屈は理解できる。考えようによっては、減ってもそれはそれでなんとかしていくべきなのだろうが、減るのは敵わない、という前提で捉えるならば、この出生率が確実に人口減少を意味しているということは、深刻である。
 
ここから持ち直して人口維持を図るとすれば、長期にわたる改善が必要になる。いま手を打って改善へ向かったとしても、結果が出るのはずいぶん先のことなのだ。
 
政治家たちは、これをなんとかしなければ、との見通しをもっている。それであれこれ考えるのだが、古い頭でいまの若い世代を動かすのは難しいようだ。合コンに税金を出そうとまでしたところがあったらしいが、私はその発想にはついていけない。
 
そして概ね、「あーあ」とは思っても、では結婚しましょうとか、子を産みましょうとかいう風は吹いてこない。その風になろうとか、風をつくろうとかいう気持ちも発生しない。
 
切実な痛みを感じる立場の人が、どうやらいないようなのだ。
 
別の話題では、環境問題とエネルギー問題が挙げられるだろうか。これらもまた、誰も切実な痛みを覚える風潮ではないように見える。そこにも「あーあ」である。「あーあ」は、自分が当事者ではないとの意識のことであり、誰か他人がやってくれ、と眺めている立場のことである。
 
来月から税金が増えますよ、という情報には、すぐに反応して声を発するかもしれない。デモ行進でもするかもしれない。だが、先に挙げた問題は、来月来年のことではない。それが深刻な結果になる時代には、自分はもうこの世にいない、という見込みがあるため、多くの人が真摯になれないのだ。否、子どもたちの世代が、ということも感情を動かさない。その子どもたちそのものが少ないのであり、子どもたちを有する人のほうが少数派になっていこうとしているからだ。若い世代の一部が猛然と反発しているのも、当然だ。だが、数と権力とでそれらを「大人」は真摯に相手にしないのが実情である。
 
多数決を以て決議とすることが必須の制度では、「あーあ」という、いわば無責任な結果が選択されるのが当然となる。
 
キリスト教会や信徒が減っている、ということなど、些末もいいところである。そして、聖書を見る限り、世に教会が増え、信徒が多数派になれ、というような思想はどこにも感じない。それは、悪しきエリート意識をもたらす可能性があるかもしれないが、それに陥らないために、キリストは「愛」を説いたとも言える。
 
何をどうしろとか、何がどうなるとか、そういうことをいま言っているのではない。ただ、「あーあ」というところに立っている自身に気づくかどうか、まずはそこから始めるのはどうか、と零しているのである。

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