見出し画像

光の子と霊の歌

エフェソ5:8-20 
 
「空しい言葉にだまされてはなりません」という否定から、光なる神へ向かうように促されてゆきます。この冒頭は、インパクトがあります。「空しい言葉」とは何でしょうか。結局、神ならぬものすべてにわたって有効な言い方であるのでしょう。神でなければ埋められない空洞が人の心にあるとも言われていますが、人は神なしには空しいのです。
 
神がなければ、人の心は虚ろです。そうした輩がいるわけです。闇の世界の住人であり、そこでは闇に相応しい出来事だけがあるのです。以前、誰もがその場にいました。しかし、キリストに出会ってからは、光の子となりました。光の子、それは神の子という表現を用いたものでしょうか。「神の子」は、ローマ皇帝の称号のひとつでした。
 
人が神隣ることは、人の論理では簡単なことでした。しかし、人の観念で、人が光になることはできなかったのではないでしょうか。神というものがひとつの観念だとするなら、ある意味で勝手に、口先だけで神の子になるくらいのことは、できるかもしれません。しかし光は、あまりに周知のものです。人は光である、とは言い辛いと思うのです。
 
闇の行いは、光の中に明るみに出されます。キリストが人を照らすからです。時を用いる知恵を以て生きなさい。時を見定める必要があるのです。この世はつねに悪い時代です。「今は」という限定がここにあるけれども、それは、私たちがこうして聖書を読んでいる「今」という時にも適用できます。結局、普遍的になるのです。
 
酒に酔わず、霊に酔え。愚かにならず、霊の歌を歌え。賛美を忘れるな。こうして、光と共に霊が及ぶとうことを、私たちは知ることができます。神の光が霊を与える、という点では、人間社会の皇帝など、遠く及びはしません。溢れんばかりの光の洪水の中で、泳ぐがよいのです。私たちは、この光に溺れ、酔い痴れるとよいのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?