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福知山のこころ

この8月半ばの休暇に、福知山へ旅してきた。義母に会うためだ。コロナ禍の中、義父を喪ったが、直接の血族でない私は、その傍で助けることができなかった。もちろん妻は、福岡から福知山へ幾度か行った。私は、ようやく昨年行けたが、かつてのように車を運転してではなく、新幹線を利用して、ホテルで一泊するというスケジュールで行動するものだった。
 
義兄が車で、あちこち連れて行ってくれた。感謝に堪えない。また、施設のスタッフも、いろいろ気を使ってくれ、過ぎた対応を受けてありがたく思う。
 
盆の時期なので、墓参にも同行する。以前なら、私が運転してまわっていたところだ。いろいろな思いがあり、義兄がそこを経由するコースを設けてくれた。
 
福知山は京都府北部の中心都市のひとつである。九州なら博多を通る路線が、遙か彼方の地の名前をとって「鹿児島本線」と呼ばれるが、それと同様に、丹波と丹後の交通の要地にある福知山は、兵庫県尼崎市から福知山市までを結ぶJR「福知山線」の名に用いられている。
 
明智光秀が拓いた、と言ってよい町であり、光秀はもちろん地元の英雄である。福知山城は今でこそ観光地であるが、城主光秀は、水害の多いこの地で、人々を助ける善政をしたという。戦国大名を、戦争の勝ち負けでしか見ない眼差しと、人々を治めていた政治経済で捉える眼差しと、どちらが健全なのか、ぜひ省みて戴きたい。
 
妻はそこで生まれ、育った。信仰を与えられ、看護師になる使命を受けて京都に来た、そこで私と出会った。妻によると、福知山の風土というべきか、人柄というべきか、そこは私では説明が不十分だが、そうしたものが、どうにも嫌いなのだという。
 
もちろん、そこで暮らしている中で感じるものや、柵といったものは、苦労している人でなければ分からない。よそからひょいと来て感じるものは、えてして好意的であるものだ。私は福知山で、のべ5ヶ月くらいは生活していることになるが、それでも「よそ者」に過ぎないので、お客さん気取りでしかないのだろう、と推測できる。
 
しかし、こうしてずっと温かく迎え続けられるのは、申し訳ないほどにありがたい。それだけその「地」の人間ではない、という扱いであることも分かるが、立ち寄った店でもなんでも、それなりに温かい対応を受けるのはうれしいものである。
 
さて、墓参のときであるが、朝早かったとはいえ、そう多くの人がそこに来ているわけではない。水を汲んでいた私に、いま墓参を済ませた一行の人たちが、「こんにちは」と声をかけてきた。もちろん私も「こんにちは」と応える。それ以上会話を続けるわけではなかったのだが、この偶々墓地で同じ時にいたというだけでの「こんにちは」は、私にはとても新鮮だった。福岡では、都市部から外れても、そんなことはあまりないからだ。
 
私は、特に面識のない人との間での挨拶は、平和運動のひとつだと理解している。自分は平和を求めるのであって、敵対する者ではありません、ということの確認として機能する、と考えている。その意味での、ちょっとしたテストのようなものだったのかもしれない、とも思えるこの出来事なのだが、私は、この何らかの働きかけが、なかなかよいことのように感じられてならなかった。
 
福岡では、知らない者との間には、挨拶も会話もないのが当然、という空気が、近年とくに強くなっているように思われる。実際、同じマンションの中でも、そうだ。もちろん挨拶などしない人は以前からいたが、ここのところ、そちらのほうが当たり前になってきてはいないか、気がかりだったのである。
 
もちろん、町らしくなって、人が多く普通に出会う環境では、一人ひとりに挨拶してゆくわけにはゆかないだろう。だが、ただすれ違うだけではなく、もう少しパーソナルな接近があったとしても、断じて口を利かない、という人は、確かに昔より多くなっている。それも、かなり年配の人やお年寄りに、ひどく目立つような気がする。
 
地域的な差異というものを言いたいのではない。立場も違うし、受け止める心の構えも違う。ただ今回いろいろ親切を受けたことや、「こんにちは」の言葉によって、決してそれは私にとり嫌う理由とはなるものではない、と思えた、というだけのことだ。
 
多少不条理な扱いを受けたところで、人からのものは、水に流すようにしたらいい、と思った。逆に、自分が他人に与えた迷惑については、水に流すようなことはしてはならない、とも思う。しばしばこの関係が逆になっていることが、世間ではトラブルになっているようにも見えるのだが、それよりも、人から受けた親切を、忘れずに大きく自分の心の中に掲げているほうが、笑顔にもなれるし、笑顔をもたらすこともできるのではないか、という気がする。
 
福知山では、11年ぶりに、花火大会が開かれた。私たち家族はそのとき福知山に来ていて、花火が始まるのを、実家の近くの丘で、楽しみにしていた。が、時刻になっても一向に始まらない。集まった人の口から、事故で中止になった、と分かった。3人が亡くなった。負傷者は、数えられているだけでも59名である。露店の発電機にガソリンを注入していたときの爆発火災であったという。
 
ずっとその後も再開はできなかった。遺族の気持ちそのものもあった。が、町の人々のほうから、遺族の心情を思いやっている様子が、ずっと伝わってきていた。「やろう」というような意見が起こってもおかしくなかったとは思うが、「こころ」を大切にするあまりに、そういう声が表に出るふうではなかった。
 
その辺りにも、関西の人情というものが、あるのかもしれない。事の善し悪しではなく、そのことと、私のささやかな経験とは、どこかでつながっているような気がしてならないのである。

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