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ごめんなさい

中3の受験生。今年はどうも、騒がしい。落ち着かない、というのか、余裕を見せたいとでも思っているのか、休み時間にも勉強をする、という生徒が少ない。まだよく分かっていない幼さのせいなのかもしれないけれど、他方、制約されないのだ、という気持ちなのか、やたら何かと喋って笑っている。
 
これまでも何度か注意を促した。だが、すべての教師が言うわけではないらしく、通じない生徒には通じない。中1や中2ならまだ分かるが、中身がそれと同じままの者が少なからずいる。
 
一学期最後の授業に私が来た。最終コマである。時計の針は、すでに授業開始時刻になっている。私は手許で事務的な整理をしていたが、教壇に立っていたのは間違いない。だが、いつまでも休み時間気分の生徒がいつまでも喋っている。席を離れたまま、という者もいる。「席に着け」と怒鳴られないと行動できないかのようであった。
 
ここで怒鳴ったら、またいつもと同じである。私は何も言わず、教室を見渡していた。最初から授業を期待していた生徒はもちろんのこと、そうでなくても、さすがにこれは喋っている場合ではない、と気づいた生徒が、ちらほら現れる。騒がしさは減っていく。但し、周りに一切気を払わない生徒は、相変わらず同じ調子で喋り続けている。私はただ黙っていた。
 
多くの生徒が、何が起こっているのかは理解していた。そしてついに、ようやくではあるが、静かになった。私は起立をさせ、挨拶をした。
 
最初に私は静かに言った。「いま、最高に怒っているんです。」
 
それは嘘ではない。だが感情は一切そこに関わっていないので、妙なお説教はしないことにする。そして、内容に入った。最後の授業はカリキュラムがもう終わった余裕のコマだったので、特別に復習のための話をすることに決めていた。そしてそれが夏期講習と、受験への流れの中で、どのような姿勢で勉強をしていくか、という意味を知らせることを計画していた。但し、抽象的なお説教をしても子どもたちには分からない。具体的にある箇所を復習する中で、それを伝えるということにした。
 
学習内容を語るにあっては、面白おかしく話す箇所もある。理解のために、である。ノートを取らせる時間の余裕はないから、テキストに線を引いたり書きこんだりすればそれで十分である。だから、かなりまくし立てるように話すが、そこは半ば芸人感覚でもある。それが学習塾での語りである。
 
つまり、最初に重い雰囲気にさせてはいても、自ら気づけばそれでよく、後は楽しい授業を展開したのであった。
 
授業終了後、通学バスを待つなどのために、生徒は帰宅方法別に順番に教室を出す。それで、多くの生徒が数分間待つことになる。ここで早速またお喋りに興じる生徒が大部分である。ああ、まだ受験ということが分かっていないのだ、とは思うが、ここでしつこく注意をすると、また自主性の育成を阻害するだろう。まあ夏休みになってどうなるか、というところか。ただ、何か感じたのか、待つ間に問題を解いたり、何か書いて覚えたりしている生徒も数人いたから、その点は一歩前進と言えるかもしれない。
 
と、一人の女子生徒が、前にいる私に近寄って来た。質問かしら。小声で話す子なので、最初の言葉が、教室のうるささの中で聞こえない。耳を傾けて、もう一度言ってもらった。
 
「授業の始まりに気づかなくて、ごめんなさい。」
 
その生徒が頭を下げた。これは私が予想した反応ではなかった。授業中には全くそのことに触れなかったし、知るべきことや勉強への姿勢などをたっぷりと話しただけだったので、ある意味でそのことを私は忘れていた瞬間だった。いやいや、何も気にしていませんよ。構いませんよ。そう、特にその生徒が喋っていたわけではないのである。授業のない日もよく自習に来ているし、喋らず黙々と学習をするタイプであって、私が咎めるようなことはしていないと思われる。だが、彼女の中では、自分が授業開始の準備の心構えがなかった、と反省したということのようだった。
 
「でも、それがあなたのいいところだね」と私はにこやかに声をかけた。
 
教会学校で、子どもたちに話す、お決まりの教えというものがある。「神さまに『ごめんなさい』と言うことが大切です」というものだ。子どもたちは、親や先生などに対して、「ごめんなさい」と言うことの意味は、経験上分かっているのが普通である。だから「悔い改め」ということも、難しいことを説明せず、「神さま、ごめんなさい」で分かってもらえればよい、というのが通例である。
 
言い訳ばかりして、悔い改めとは程遠い生活をしている大人は、口先では謙遜めいた言葉遣いをするものの、中身はその子どもたちとはずいぶん違う。福音書には、イエスの前に恭しく近づいてくる、ファリサイ派の人々や律法学者がよく描かれているが、なんだかそらぞらしく見える割には、それこそが自分の姿だ、ということには案外気づかない。見せびらかす祈りが神に嘉されないことは、教えとしては理解しているのに、日常的にそれをやっているような、お偉いクリスチャンをよく見かける。もちろん、私自身そうなっていないか、という眼差しはいつも忘れたくないと願っている。ちっとも偉くなどないのだが。

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