いつかきっと (ヨハネ16:19-24, コヘレト5:14-19)
◆災害と苦悩
2023年の流行語のひとつに、きっと加わるだろうと思います。「危険な暑さ」――この夏、連日ニュースに登場していました。「災害級の暑さ」という言葉もありました。初めて使われたかどうかは知りません。しかし、真面目な報道で度々聞かれたのは事実です。そうでなくても、もはや季節がいつであっても、災害が各地を襲います。
海外での山火事も深刻でした。日本国内では、山火事よりも、やはり洪水のほうが毎年どこかで起こるとみたほうがよさそうです。
また、環太平洋造山帯の一部であるため、日本は地震の頻発国となっています。この9月で、関東大震災から百年を数えました。この夏に出た『現代思想』の臨時増刊号は、「総特集・関東大震災100年」を扱っていました。地震被害や防災の話か、と一般の方は思うかもしれませんが、そこは青土社のこの月刊誌、違います。地震の後の、朝鮮人を狙った虐殺について問う文章が居並ぶのでした。まさか、その歴史を知らない方はいないだろうと思いますが、万一知らない若い人がいたら、きっとこの後、調べてみてください。
その次に「震災」と名のつく地震は、阪神淡路大震災でしょうか。これによって、都市直下型地震の怖さを教えられました。活断層は、福岡市の中央を初め、各地に走っています。ハザードマップが公開されていますから、お住まい地域のことをまだご存じない方からいたら、きっとこの後、調べてみてください。
阪神淡路大震災のとき、私は京都に住んでいましたから、あの揺れを知っています。もちろん神戸ほどではありませんが、京都でも突き上げる震度5(その地震を機会に震度5は強弱に分かれたためこのときには区別がない)を体感しました。いまなお体があの揺れを忘れません。地震とは、そう言うものです。
そして、東日本大震災。同じ干支のウサギが巡ってきました。うさこちゃんの絵本で知られるディック・ブルーナが、涙を流すうさこちゃん(ミッフィー)の絵を届けたことはよく知られています。あの地震では、津波の怖さをまざまざと見せつけられました。目の前で愛する家族が流されていくのを見るしかなかった方々がいます。握った手を離してしまい、それきりという人の悔しさや苦悩は、如何ばかりでしょうか。
こうした災害に遭ったときは、どこに怒りを向ければよいか分からない、と言われることがあります。運命を呪い、神を呪うかもしれません。しかし、明らかに人間がもたらす苦悩というものもあります。例えば「いじめ」はどうでしょうか。原因は自然ではなく、人にあると言ってよいのではないでしょうか。しかも、いじめられた側にも原因が、などという尤もらしい暴力が出てくることもありますが、金輪際聞きたくないものです。加害者当人がいじめているという自覚がない場合も多いし、その中には良心の呵責を感じないタイプの人間も実際いるでしょう。さらに、あまりにも多数派が少数の声を潰してゆくのが、ごく当たり前であるような社会文化であれば、もはや「いじめ」というのは常態であって、異常に感じる人がいないということもありえると思います。
いじめを受けて亡くなるようなことは、実害のほんの一部でしかないでしょうが、いたたまれない思いがします。朝ドラでも、大学のいじめで教授が死んだような印象を与える描写がありました。
この歴史の中で、いったいどれほどの人々が、悔し涙を流しながら亡くなっていったことは、知れません。もちろん、今日も、いまこのときも、そうだと思います。
◆旧約の未来信仰
聖書には、旧約聖書とキリスト教側が呼んでいるものがあります。失礼な言い方かもしれませんが、「旧」に否定的な意味を含ませていないという捉え方から、私は慣習上のこともありそう呼ぶことにしています。お許しください。その旧約聖書は、特に歴史性の高い文書だと見られています。聖書考古学というのがあって、記録されていることについて、一定の事実性を認めることができる場合が少なくないのです。
旧約聖書によると、イスラエル民族が、実に野蛮なやり方で土地を征服し、少数民族を蹴散らしていったとされています。しかし、英雄譚のようなその部分は、幾分割り引いて見たほうがよいのではないか、と思います。何千人滅ぼしただの、町を一人残らず殺戮しただの、オーバーな表現をしているのでは、と思われるのです。実際、イスラエル人の定着した地でも、他民族と共存している様子が描かれていることも、つい漏らしています。
確かに、古代の戦争や征服といった出来事は、現代人から見れば残酷な仕打ちも数多く行われたことでしょう。国際的なルールを立てようなどという発想もありませんから、強い者が勝ち、如何様にでも敵を処分できる現実があったと考えられます。しかし、旧約聖書という文書が記録するそのままに、イスラエル民族が凶暴だった、としなければならない理由はないと私は捉えています。
むしろ、大国に挟まれてイスラエルは、弱小民族であった、というのが適切な見方でしょう。交通の要所であると共に、それら大国のぶつかり合う場所がちょうどイスラエルの地でしたから、大国同士の戦いに巻き込まれるようなところもありました。その都度イスラエルは、どちらの大国に付いた方が有利か、風を見極めようと模索している場合も見られます。預言者は「主の戦い」だと言って信仰を民に求めることがありましたが、決して弱小国が常に奇跡的に勝利を収めるというような、無謀な願望を貫き通していたわけではありません。
ただ、強い信仰があったと見られた場合、これは大帝国と雖も、イスラエルを簡単に滅ぼし尽くすことには至らなかったことを理解させます。私などは歴史でも何でも、ただの素人ですから、私の感想を真実だといつも受け取ってくださる必要はありません。イスラエル民族が、ひとつの閉鎖的な小民族であった、という捉え方も、私の狭い了見の故の理解程度だとお考えください。
しかし、このイスラエル民族の信仰が未来の方を向いていた、ということは、少し皆で気にしてみたいと思います。但し、感覚的な問題として、イスラエルでの時間感覚は、未来を背中に置き、過去が目の前に拡がっている、という捉え方をしているのだ、という説明を聞いたことがあります。未来とは見えないもの。だから背中にある。しかし、過去に神の真実な導きがあった様子が見えている。だから、背中で待つ未来も、安心して信頼できるのだ、という考え方をするのだ、というのです。
背中の出来事は見えません。しかし、大国に虐げられている現実があっても、これまで導いてきた神は、きっといつか、背中に待つ未来において、イスラエルを救い、世界をその神が治めてくださるのだ、という思いで過ごしているというのでしょう。そういう希望に生きていましたし、いまも生きているのでしょう。いまこの世で偉そうにしている大国も、イスラエルの神の審きを受けるのだ、今に見ていろ、そういう思いで忍耐しているのではないかと思います。
◆新約へのアンチテーゼ
ここまで、旧約聖書について考えてみました。今度は新約聖書です。旧約聖書で待望されていたメシア(ギリシア語でキリスト)が、イエスという存在で約束の通りに現れた、と証言するのが、新約聖書です。これもまた「新」の文字が肯定的な意味を特に示しているのではない、という理解で、私はいつも使うことにしています。
新約聖書の時代は、いま申し上げましたように、キリストなる救い主が現れたわけですが、それがイエスという方であり、イエスを人々は十字架につけて殺し、そのイエスは神により蘇らされた、という証言が集められました。その二千年ほど前の出来事の後、次はどうなるのでしょうか。人類の未来について、新約聖書はどう知らせているのでしょうか。
新約聖書は、キリストが再びまたこの世界に来る、と言っています。もう一度来ます。それが世界の終わりです。この世で神を信じず力で弱い人々を虐げてきた、尊大な者は裁かれます。そしてこの世で弱く小さな者とされてきた人々を、将来再び訪れるイエスが救うのだ、という期待を膨らませてきました。
そこにも、苦しみの後に喜びがある、という基本の形があるように見えます。二千年前にイエスを信じたのは、この世界では弱い立場にいた人々でした。大国の支配の中で、あるいはユダヤ教の支配の中で、いわば迫害されながら、細々と虐げられて生活していた人々が、イエスの名の許に身を寄せてきました。彼らは現実に、切迫した命ぎりぎりの生活を送っていたと思われます。もうこのイエスにより現れた神を信じるしか、希望がもてないでいたと思われます。そうした息づかいは、とくに新約聖書の後期に成立したとされる書簡に、よりひしひしと感じられます。
先月、夏の全国高校野球大会が、久しぶりに応援の声も豊かに開催されました。関東の高校の活躍で東京のメディアは、いつになく盛り上がっていたようにも見えましたが、神奈川県代表の慶應義塾高等学校が優勝を飾りました。いろいろ破格のチームや応援で、その後もいろいろ言われていましたが、マスコミが報じていた、彼らのモットーのひとつが目を惹きました。「苦楽力」というのだそうです。いまの苦しみを乗り越えたら楽がやってくる、そうしたことを思い、心を鍛えていたというのです。なんだかかつての高度成長期の、敢えて「マン」と言いますが、猛烈サラリーマンの時代の合言葉のように聞こえなくもないものがありました。将来の楽しみのために今の苦しみを我慢する、というスローガンは、悪用すると過労死を誘うことになるかもしれませんから、くれぐれもご注意ください。
いまは苦しいけれども、いつか大逆転が起こる。そんなふうに負け犬の遠吠えのような、恨み辛みのような考え方なんぞ、捨ててしまえ。そんなことを叫んだのは、フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェという哲学者です。19世紀最後の年に亡くなりましたが、最期は精神を病んでのことだったといいます。それでも、ずば抜けて頭の良い人が思索した結果爆発した、キリスト教への批判は、その後世界の思想の標準のようにもなっていきました。
ニーチェは、父の後を継いで牧師になることを期待されていましたが、哲学と古典研究に没頭し、類を見ない優秀な成果を示します。その後は、芸術論にも力を発揮し、やがてキリスト教の負の側面を攻撃するようになります。キリスト教そのものが、苦悩などの負の感情(ルサンチマン)で身を奮い立たせているものに過ぎず、そうではなくて、「超人」として強い生き方をするべきだという思想を展開してゆきます。
ニーチェの指摘には、肯ける支持者も多く、結局その後のキリスト教の思想的地位というものは、ニーチェにより目覚めさせられたような考え方によって、萎んでゆくようになっていきました。現代思想は、キリスト教に対するアンチテーゼをひとつの常識として、発展していくようになりました。かつてのように、権力と結びついて絶大な地位を築いていたキリスト教組織は、この世での支配力を失ってゆくのでした。
◆苦しみと喜び
いつもながら、長い前置きですみません。こうした問題意識を心の隅に置きながら、今日は、ヨハネによる福音書と、コヘレトの言葉とから、私たちの信仰を支えるひとつの柱を与えられたい、と願っています。
取り上げましたヨハネによる福音書16章は、弟子たちに、惜別の説教をしたとされる箇所です。構成や内容がヨハネ独自で、他の福音書にはないことばかりです。他の三つの福音書、いわゆる共観福音書とは別の資料に基づいていると見られます。あるいは、ヨハネ教団と呼ばれることもあるグループの、教育テキストのようなものだと考えられもします。神秘的であったり、哲学的であったりする不思議なイエスの言葉は、理解できないという人もいれば、味わい深いと熟考したくなる人もいます。無数の見解が発表されていますが、いまは研究発表の場ではありません。私たちは、ここから命を受けたいと願っています。
19:イエスは、彼らが尋ねたがっているのを知って言われた。「『しばらくすると、あなたがたは私を見なくなるが、またしばらくすると、私を見るようになる』と、私が言ったことについて、論じ合っているのか。
20:よくよく言っておく。あなたがたは泣き悲しむが、世は喜ぶ。あなたがたは苦しみにさいなまれるが、その苦しみは喜びに変わる。
間もなく弟子たちの前から、イエスは姿を消すことになります。十字架刑で死なねばなりません。弟子たちは辛いだろう、と気持ちを汲みます。
21:女が子どもを産むときには、苦しみがある。その時が来たからである。しかし、子どもが生まれると、一人の人が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。
22:このように、あなたがたにも、今は苦しみがある。しかし、私は再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。
しかし、子どもの出産に喩える形で、苦しみの後には喜びがあることをイエスは告げています。はっきりと、「私は再びあなたがたと会」うと言っていることを、信徒は聞き逃しはしないでしょう。そのとき、二度と消えない喜びが与えられる、と期待させます。
23:その日には、あなたがたが私に尋ねることは、何もない。よくよく言っておく。あなたがたが私の名によって願うなら、父は何でも与えてくださる。
24:今までは、あなたがたは私の名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」
さらに、イエスの名により願うものは、何でも与えられる、と言いました。それがまた喜びにもなるであろう、と。私はふと、マタイによる福音書の言葉が浮かんできました。「求めなさい。そうすれば、与えられる」(7:7)という有名な言葉ですが、その少し前に、「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものはみな添えて与えられる」(6:33)という言葉もありました。
ここで「再びあなたがたと会」うことが宣言されていますが、この箇所の直前では、聖霊をいわば派遣するようなことが告げられていました。イエスが行けば「弁護者をあなたがたのところに送る」(16:7)というその「弁護者」がそれであり、その方は「真理の霊」(16:13)とも言い換えられています。この「霊」については、14章の後半に詳しく描かれています。そこには「聖霊」(14:26)とはっきり示されているところもあります。
聖霊が弟子たちを助けることを、イエスは保証しています。聖霊は、復活のイエスと弟子たちとが、再び会えるということを保証しているのだとも言えます。イエスは十字架に架けられて、無惨にこの後殺されます。嘆き悲しむ弟子たちの姿が、もう分かっています。しかし、「あなたがたにも、今は苦しみがある」というその「苦しみ」は、一回切りのものではないように見えます。その「苦しみ」は確かに単数形ですが、イエスは弟子たちの苦しみを、多角的に指摘しているように見えます。「泣き悲しむ」「苦しみにさいなまれる」「苦痛」「苦しみ」というように、様々な形で、「苦しみ」がもたらされることが告げられているのです。
このような多様な「苦しみ」は、「私は再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる」というように、「喜び」という一つのものに収束するという形で、慰めようとしているように見受けられます。
◆いまここでの視点から
苦しみは喜びに変わる。このイエスのメッセージは、その場にいた弟子たちだけのためのものなのでしょうか。聖書は昔々こういうことがありました、という物語の書なのでしょうか。そもそも「福音書」という、文学的にも画期的な分野の作品が、たんなる神話に分類されてよいはずがありません。このメッセージは、福音書が書かれた当時の読者に向けて書かれたものです。すでにこのヨハネのグループのテキストのようなものではなかったか、と捉えたならば、それはヨハネ教会の教義として、教会員に宛てられたものだと考えるべきであることが分かります。
しかしまた、それが延長されて、いまここでヨハネによる福音書を読んでいる私たちへ向けてのメッセージである、としなければならないのではないでしょうか。少なくとも、私はそう受け止めています。ただ、私の目の前でいまからイエスが十字架刑に処せられ、復活のイエスを体験する、というストーリーが成り立つわけではありません。私に対して「再び会う」というのは、これから先のことです。
だとすると、この「再び会う」というのは、かつてのイエスの十字架と復活のことというよりも、これから再びイエスが世に来て終末を司る、いわゆる「再臨」のほうを頭に置いてよいように思われます。
「再臨」については、それがどのようなふうに起こるのか、新約聖書の福音書や書簡、また黙示録など、文書にも時折書かれていますが、描かれ方は様々です。しかしキリスト教徒は、古来そこから、ひとつの再臨の教義を導き出そうとして、盛んに論争をしてきました。
しかし、科学理論のようにひとつの結論しかないのであれば、最初からどの文書にもそのようにまとめておけばよかったのです。その知恵が与えられた人が、それぞれに生き生きと、一掃のリアル感をもって感じたのであれば、そのままに様々な再臨のイメージが伝えられてよかったのだ、と私は思います。復活のシーンの描き方が福音書によって様々であるのも、いわばそういう事情なのだろうと思うのです。
イエスが再び世に来る。その時がどのような様相であるのか、それは、お楽しみということにしておけばよいのではないでしょうか。とにかく私たちに向けて、「再び会う」とイエスが言ったことを私たちは信じています。私たちは、二千年前の地上生涯のイエスとは出会っていません。ただ、聖書の中で、そのイエスと「出会った」という証言は、あってよいだろうと思います。私も会いました。そして誰でも、少なくとも復活のイエスと出会ったからこそ、イエスをキリストと信じているのではないか、と私は信じて止みません。
私たちは、生きていていろいろな苦しみを味わいます。泣き悲しむことがあります。災害で、人間関係で、泣き悲しみます。ときには自分で自分の人生の始末をつけようというところまで、思い悩みます。心身共に苦痛に苛まれます。けれどもイエスは再び来ます。再び来て、それらをすべて喜びにしよう、と言っています。
◆コヘレト書の不幸と幸せ
もう一つ、コヘレトの言葉の5章を開きます。「空の空」などと、およそ聖書らしからぬことばかり言うと見る人もいます。何をしても無駄だとか、せいぜいこの世で生きているときに楽しめよ、というふうに、確かに読める部分もあります。しかしその「空」という語が、日本人には馴染みやすいらしく、初めて聖書を読む人にも抵抗なく入れる、という話も聞きます。最近は、コヘレトの言葉について分かりやすく説く方が現れて、またそれが新しい視点のようでもあって、関心がもたれています。まだまだこれから開発される余地のある旧約聖書のひとつであるような気がします。
14:母の胎から出て来たように/人は裸で帰って行く。/彼が労苦しても/その手に携えて行くものは何もない。
15:これもまた痛ましい不幸である。/人は来たときと同じように去って行くしかない。/人には何の益があるのか。/それは風を追って労苦するようなものである。
16:人は生涯、食べることさえ闇の中。/いらだちと病と怒りは尽きない。
山の如く積まれた本について、いい加減本を処分しなさいよ、と妻に言われます。死ぬときには何も持っていけないのだから、と。後始末をする家族の身にもなってくれ、ということのようです。ご尤もです。何の弁解もできません。コヘレトも同じようなことを言っています。「痛ましい不幸」だそうで、「風を追って労苦する」とは、確かに無駄に過ぎないのです。食べることくらいしか楽しみはないのか、と思いきや、そこにさえ「いらだちと病と怒り」の原因がたっぷりあるのだそうで、人生、悲観的に見ようと思えば際限がないかのようです。でもコヘレト書は、「幸せ」の可能性も教えてくれています。
17:見よ、私が幸せと見るのは、神から与えられた短い人生の日々、心地よく食べて飲み、また太陽の下でなされるすべての労苦に幸せを見いだすことである。それこそが人の受ける分である。
18:神は、富や宝を与えたすべての人に、そこから食べ、その受ける分を手にし、その労苦を楽しむよう力を与える。これこそが神の賜物である。
せいぜい現世で、逞しく生きていくことにしましょう。「神から与えられた短い人生の日々」に、飲食を愉しむようにしよう、と。「神から与えられた」という受け止め方が、ただ「食べること」とは違うわけです。すると、「労苦を楽しむ」力すら与えられるであろう、と言うのです。そこで満足するべきなのです。それが神からのプレゼントなのです。
よく比較してみましょう。使われている言葉を対照的に並べてみます。人生は「痛ましい不幸」です。「益なく」「闇の中」です。「いらだちと病と怒り」が尽きないのだそうです。けれども、「心地よく食べて飲み」「労苦に幸せを見いだす」ことは「幸せ」ではないか。「食べ」「受ける分を手にし」「労苦を楽しむ」ことができるように、神は配慮してくださるのだ、と言っています。そして、次のようにまとめます。
19:人は人生の日々をあまり思い返す必要はない。神がその心に喜びをもって応えてくれる。
人生を思い返すな。そう、私たちはしばしば、辛いことやよくないことを思い返してしまうものです。過去を目の前に置いて完全と受け止めるイスラエルの精神は、私などは持ち合わせていません。できれば思い出したくもない黒歴史がある、などと意識すればなおさら、過去がしみついて意識から離れられなくなるわけです。でも、そうした過去に苛まれる必要はない、とコヘレト書は告げます。
むしろ「神がその心に喜びをもって応えてくれる」という朗報を以て、話を終えてくれます。最後は見事に「喜び」で結ばれるメッセージとなっています。
◆願いと喜び
こうして見ると、旧約聖書のコヘレト書においても、ヨハネによる福音書における「苦しみと喜び」の対比が参考になるように思えます。いえ、コヘレト書の方が古いのです。黙示録を筆記するヨハネの脳裏に、このコヘレトの言葉があったとしても、何の不思議もないでしょう。
もちろん、コヘレトの言葉には、イエスは登場しません。私たちは、そのイエスを知っています。新約の恵みの中にいます。私たちには、イエス・キリストがいるのです。イエス・キリストが再び来るという知らせを、すでに受けています。このことに目を向けるならば、私たちはそのイエスが再び来るのを「待つ」ことができるでしょう。イエスの言葉が、きっといつか本当に実現するのだ、と期待することができるでしょう。そう、「期待」というのは、まさにその「期」を「待つ」ということなのです。
悲しいことですが、現実に災いはあります。危険があります。悲しみがあり、忘れたくても忘れられない、辛い出来事があります。歴史の中で、どれほどの人がそういう思いをもっているか知れません。
まず私は、私たちは、このイエスの言葉を知りました。そしてこのイエスの言葉が、喜びをもたらすということを確信しています。ならば、まず私たち自身がこのイエスの言葉に静かに耳を傾け、それを握りしめようではありませんか。そのことで喜びが与えられたなら、これは確かによく効く薬だ、とばかりに、伝えようではありませんか。これまでイエスの名によって真剣に願うことのなかった人がいますか。でも今日から、いまここから、共に願いましょう。
願いなさい。そうすれば与えられる。私たちは、喜びでみたされる。そうです。イエスよ、来てください。――そう願おうではありませんか。
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