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救うために来た (テモテ一1:12-17, イザヤ7:14)

◆クリスマスの意義を問う
 
どうも私は、「メリー・クリスマス」という挨拶が苦手です。年を取ったせいかもしれません。何が「メリー」なのか、よく分からないのです。陽気で、愉快で、お祭り騒ぎをするような感覚を伴う形容詞を「クリスマス」に載せたものであるような気がしてならないわけです。
 
そうなると「あけましておめでとう」も、何がめでたいのはよく分からないようにも思えます(そこには歳神を迎えるという背景があるということは分かります)が、こちらの「クリスマス」には、信仰の神髄が含まれているとすれば、なおさら抵抗があるのです。
 
宗教的に中立であるべきだ、という近年の事情が影響してか、ここのところ「ハッピー・ホリデイ」という挨拶が広まっているそうです。ユダヤ教ならば「ハヌカ」という祭りもこの時期です。これは、宮清めであるとか、光の祭りだとか言われます。
 
12月25日、正確には前日24日の日没からが、キリスト教会の多くのグループがいう「クリスマス」となっています。古い冬至祭に関係するとか、太陽崇拝の祝日を塗りかえたとか、歴史的なことは、研究家にお任せしましょう。1月6日を祝う人々もいますし、私たちはその日付そのものを、それほど重視するわけではありません。そもそも聖書には日付などどこにも記されていないのです。
 
しかし、教会は、歴史の中でこの暦を大切にしてきました。教会の伝統よりも「聖書のみ」とまで宣言したプロテスタント教会が、聖書に根拠のない「クリスマス」をこれほどに支えているのは、矛盾しているかもしれません。が、それだけの「覚悟」を伴って、いまなおカトリック教会と足並みを揃えて、12月25日のクリスマスを祝福しているのが通例です。
 
もちろん、プロテスタントが聖書以外をすべて否定しているということはないのですから、それを悪いと決めるのも、なんだか傲慢な気もします。イエスという名の人として、神がこの世界に来た。このことを見つめる機会を少なくとも年に一度もつということは、私たちに改めて神と人との関係を考えさせます。そこには、忘れてはならないことが、きっと多々あるはずです。
 
◆クリスマスの出来事
 
アドベントの初め、いまから1か月前にも、このようなことを私はぼやいていましたね。ご記憶の方もいらしたでしょう。今日は直接聖書をお開きはしませんでしたが、改めて、クリスマスの出来事について、さらりと概観してみましょう。
 
ルカは、マリアを主役に置きます。しかも、マリアの親戚だという、エリサベトから話を始めるもったいぶったスタートを切ります。祭司ザカリアとの間に、エリサベトは子どもがないままに過ごしていました。あるときザカリアが、生涯一度かもしれないという勤めの時に主の天使を見ます。天使は、子が生まれるからヨハネと名づけよ、と言いますが、まさかそんなことはないというザカリアの態度に、天使がザカリアの口を利けなくしました。しかし天使が言う通りに、エリサベトは身籠もります。
 
ガブリエルという天使は、半年後に、ナザレにいたマリアの前に現れます。マリアはヨセフと婚約の間柄でしたが、天使は、あなたは男の子を身籠もるから、イエスと名づけよと命じます。聖霊により生まれるその子は神の子と呼ばれると宣言すると、マリアもそれを受け容れました。
 
マリアは親戚エリサベトを訪ね、祝福を受けます。そして有名な「マリアの賛歌」を遺します。エリサベトは子を産み、約束通りヨハネと名づけました。洗礼者ヨハネの誕生です。
 
他方マリアは、皇帝の命による住民登録のために、臨月にも拘わらずナザレから遠いエルサレムの方に旅をしていました。ベツレヘムという町でのことでした。宿屋の客間には泊まれませんでしたが、なんとか家に泊まり、男の子を産みました。
 
その頃羊飼いたちは、野宿をしていましたが、天使たちから、救い主が生まれたとの知らせを聞いて、ベツレヘムに向かいます。そして飼い葉桶の中の乳飲み子と出会いました。
 
宮参りの時に、神殿で、シメオンとアンナという人物と出会い、2人はそれぞれ預言をします。イエスがエルサレムの救いを達成することができるというお告げを代弁するのでした。それからヨセフとマリア、そしてイエスは、元の家のあるナザレに戻りました。
 
他方、マタイによる福音書は、夫ヨセフを主役に置きます。どのようにしてだか分かりませんが、ヨセフは、婚約者マリアが聖霊により身籠もったことを知ります。姦淫の罪であることが公になると、マリアは死罪となります。ヨセフは事を荒立てることをせず、ひっそりと別れようと考えましたが、夢に天使が現れて告げます。それは聖霊によるものだからマリアを迎えよ、というのです。眠りから覚めたヨセフは、マリアを迎え入れ、やがてイエスが産まれます。
 
このとき、その子は「インマヌエル」と呼ばれることにも言及されていました。マタイは丁寧にも、その意味が「神は我々と共におられる」という意味だと解説しています。これは、マタイによる福音書のテーマにもなっていると思われる重要な示唆でした。
 
その頃、東の国から博士たちが、救い主に会おうと旅していました。星や暦を研究する者たちは、救い主の誕生を知らせるという特別な星を見たので、ユダヤにそれを調べに来たのです。統治者ヘロデを訪ねますが、学者たちはベツレヘムで新しい王が生まれるという見解を、旧約聖書から知りました。
 
これを聞いていたヘロデ王は、残酷な王として知られていました。身の安全を図るためには、妻や子をも殺す権力者でした。自らの王位を脅かすと目されるため、救い主の誕生が分かったら知らせよ、と博士たちに告げ、機会を待っていました。博士たちは、案内する星に出会い、イエスの場所を知ります。幼子を拝み、献げ物をたっぷりとすると、夢の中でヘロデのところに戻るなと言われ、そのまま東の国に戻ります。
 
天使はこのとき、ヨセフに再び夢の中で現れ、エジプトへ逃げよと命じました。案の定、博士たちの報告のないことを知り怒ったヘロデは、ベツレヘムと周辺にいる二歳以下の男児を皆殺しにせよと命じたといいます。その後、ヘロデが死んだという情報を、またも天使が夢で知らせたため、ヨセフはガリラヤのナザレに行って暮らしました。
 
話に食い違いがあるように見えることについては、とやかく言わないことにします。なにしろイエスが十字架の上で殺され、復活してからもすでに半世紀以上経っているであろう頃に編集された「福音書」の記事です。イエス誕生からは、すでに一世紀近くの年月が経っています。集められた情報を編集してできた記事は、これでも精一杯資料を活用したに違いありません。現代においても、百年前の歴史については、解釈にも意見の相違が見られます。当時としてこれだけの情報があったことだけでも、不思議な気がします。
 
◆クリスマスの物語
 
ところがその後、このイエスの誕生の出来事は、実にたくさんのロマンを生むことになりました。異教の祭りに関わってきたことはすでにお伝えしました。そのとき異教の文化も取り入れたお祭りになっていくにつれ、そのきらびやかさや美しいムードが、どんどん主役に躍り出ることになります。
 
美術史のおけるキリスト降誕を繙いていますと、それらの絵画が、実に質素であることに気づきます。闇の中の光を描くものも多々ありますし、大勢の人間を描くものもありますが、概して、地味なように見えます。
 
文学はどうでしょう。福音書だけで文学としては十分だった時代から、近代になり、様々な想像力が形になっていく中で、教訓的なもの、夢や希望をもたらすものなど、だんだんとイエス本人からも離れていくのが粋だ、と思われていくかのようでした。吝嗇なスクルージがクリスマス・イヴに亡霊たちが訪れ回心するという、ディケンズの『クリスマス・キャロル』は19世紀半ばですが、ヴァレンタイン・デイヴィスの『34丁目の奇跡』は、20世紀半ばに映画として人気を博し、半世紀後にはリメイクもされています。サンタクロースについてのクリスマス・ストーリーでした。その20世紀末近くには、セルマ・ラーゲルレーヴの『聖なる夜』が、しっとりとしながらも自由にキリスト降誕の日の出来事を想像するファンタジーを描きました。
 
ほかにも、人それぞれに、クリスマスの素敵な物語をお持ちであろうと思います。ただ、日本におけるそうした物語は、あまり聞きません。キリスト教書店がイエスの誕生を正面から告げるのはもちろんですが、ほかはサンタクロースや、みんなが仲良しになる話ばかりのように見えます。最近は、ミステリーの題材によく使われているようですが、クリスマスとは何だということは、知る由もないほどです。
 
けれども、文学の上でキリストを踏まえていたとしても、ふと思ってしまうのです。先にヘロデが、自分の王位を脅かす王の誕生を阻止しようとした点に触れましたが、当時の人々にとっても、案外キリストの誕生という情報は、厄介なものではなかったか、と。
 
ヘロデ王の治世に、救い主がイスラエルの王として現れなどしたら、あの残虐なヘロデが何をするか、知れないのです。それとも、本当にローマ帝国の支配を全部無にして、その手下であるヘロデもいなくなるような、ダビデの再来がイスラエルにある、という信じ方を、多くの人がしていたと言えるのでしょうか。
 
せっかくなんとか平穏な時代に生きている私たちです。社会的な不条理や、格差社会での犠牲者など、辛い立場の方々がたくさんいらっしゃることを、顧みないつもりではありません。けれども、それなりに秩序があり、安全だと言えるような国土です。諸外国と比べても、治安の点で決して悪い社会ではないと言ってよかろうと思います。その日本で、信じる者を救うという救世主が現れて、外国の影響を取り払い、不公正な社会を根柢からやり直すようなことをいま行うとすると、諸手を挙げて賛同できるのでしょうか。それはダビデの時代のように、内戦をもたらすかもしれません。本当に、人はそうした社会変革あるいは革命というものを、歓迎するのでしょうか。
 
昔のユダヤの人々が、救い主の誕生を待ち望んでいた、と簡単に言いますが、本当にそれでよいのかどうか、私はちょっとブレーキをかけてみたいと思うのです。
 
◆イザヤ書を踏まえて
 
マタイによる福音書は、旧約聖書を根拠として、それがこっそり隠し含んでいた、キリストの情報を持ち出しながら綴っています。ユダヤ文化の中にいる人々に、イエスという人を描きながら、これぞキリストなのだ、ということを示そうとしています。そのため、いつか救い主が現れるという根拠になりうる唯一の聖なる書物、いまでいう旧約聖書から、キリストの現れについてさかんに引用します。
 
このクリスマスの出来事を根拠づけていた旧約聖書のひとつに、イザヤ書があります。今日は一つの節だけを取り出すことにします。
 
それゆえ、主ご自身があなたがたにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。(イザヤ7:14)
 
当時のアハズ王は、アッシリアの影響からの独立を企てる北イスラエルやシリアと手を組まなかったことで、その連合軍の脅威を覚え、激しい動揺に見舞われていました。そんなアハズ王に対して、預言者イザヤは、「しるし」を求めよ、と進言します。
 
アハズは、そんな主を試みるようなことはしない、と返答します。ちょっと聞くと信仰深いようにも感じますが、実は内心アハズ王は、アッシリアに応援を頼もうか、と考えていたのでした。イザヤは、神を信頼しろ、と構えます。信頼できるしるしとして、神が共にいる証拠が現れることを預言します。
 
もしかすると、それはアハズの息子のヒゼキヤのことであったのかもしれません。とにかく新たなイスラエルの救いとなるリーダーが現れることを保証した、ということにはなるでしょうか。もちろんイザヤ本人が、イエス・キリストをイメージしていたわけではありませんが、きっとこのことの本当の成就が、イエスの誕生のことだったのだ、とマタイは解釈して、ここを取り出したということになるのでしょう。
 
イザヤ書は、私たちが頭に思い描くような「歴史書」ではありません。そのため、歴史的な事実は何かをそこから探そうとして、謎解きに走ってしまうのは、信仰のためにはあまり役立ちません。もちろん学者がそれを調べようとすることはありがたいことですが、聖書から神の言葉を受け取ろうとするときには、そのような知的好奇心から一歩身を引くことが望ましいと言えます。そうした好奇心は、聖書を自分から遠ざけてしまいます。聖書をひとつの「対象」として眺める姿勢を作ってしまうからです。
 
イエスの弟子たち、そしてそのまた弟子たちは、イエスの歩みや、その死と復活の意味を、自分たちの生きる縁(よすが)とするにあたり、「インマヌエル」の現れを、イエスのことだと確信したのです。その記録が、マタイによる福音書となって記され、受け継がれるようになったのです。
 
◆そこに何を見るか
 
それゆえ、主ご自身があなたがたにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。(イザヤ7:14)
 
おとめが身籠もる、これは先にご紹介した、マリアの出来事にぴったり重なります。このヘブライ後の「おとめ」という語は、新約聖書のギリシア語でも「おとめ」と訳してありますから、私たちには分かりやすくなっていますが、ここには昔から人々の強い思い入れがありました。
 
マリアは、男の人と結婚する前に身籠もったというのが、ルカの記述でした。するとこの「おとめ」は、まだ結婚していない女性ということを意味することになります。しかし、ヘブライ後の方では、「若い女」を表すための、必ずしもそのような意味に取る必要はない語であるそうです。
 
しかしルカは、結婚しておらず、男との関係をもったことのない意味で表してしまいました。これが、マリア崇拝になったり、後にマリア論争にもなっていくことになります。言葉ひとつの選定には、実に大きな影響があるものだと驚かさせます。
 
こんなことを言うと不信仰の極みと言われるかもしれませんが、もし仮にヨセフと真っ当な関係の中で生まれたのがイエスであったとしても、それを「聖霊により身籠もった」と呼ぶことに、何がダメなのでしょう。それはマタイによる福音書の記事をも裏切ることになりますから、安易に言うつもりはありません。ひとつの仮想として、考えてみたいのです。私たち現代人も、不妊治療を受けていたクリスチャン夫婦が、ついに念願の子どもを授かったときに、「聖霊により身籠もった」と称することは、間違いだとしなければならないのでしょうか。神の恵みだと思わずして、それは医学的に科学的に生まれたのだ、と言わなければならないのでしょうか。
 
マリアの懐妊について、いろいろ邪推の上で妙な説を唱える人々がいます。けれどもそこには、怪しいアンバランスがあります。その人々もまた、聖書の記述を、ある意味で文字通りに信じているのです。マタイもルカも信じて、ヨセフに関与せずにマリアは身籠もったのだから、その父親はきっと別に……などと言いますが、それは聖書の記事を、実は忠実に信じているから、ということになると思うのです。
 
聖書を懐疑的に読む人、それを助長する学者もいます。しかし、よく見ていくと、彼らは実に聖書をよく信じています。聖書に書いてあることを根拠として、懐疑を露わにするのです。彼らほど、聖書をよく信じている者はいない、というくらいに。
 
そこで、時には聖書を文字通りに解せずに、しかも自分の思いついた現代の常識から説明してしまうために解釈するのではなしに、つまり何の決定もしないままに、聖書の出来事が「ただ起こった」というままに、受け容れていくことがあってもよいのではないか、と考えます。
 
聖書の謎解きが目的ではないのです。さしあたり文字通りでよいのです。ただ、文字通りだというその一部だけを信頼せずに、別の説明で合理的につなごうとするようなことは、決してフェアではないと思います。同時に、自分の理解だけで、それはありえない、と決めつけるのも、やはりフェアではないように思えてなりません。いつの間にか、神よりも自分を上に置いてしまっていないか、私たちは常に顧みる必要があると思います。
 
そこから私たちは何を見るのか。何を知るのか。何が私の身の上に、私の魂に及ぶのか。それは、「あなたがた」の中に、確かに自分がいるかどうか、それに懸かっています。「あなたがた」にしるしを与える、とイザヤは言ったのです。いいえ、「あなたがた」ではなく、「あなた」でよいと思います。「あなた」つまり「私」に、そのしるしは、与えられたでしょうか。クリスマスの出来事が、私にとって、神の表れの証拠として受け止められているでしょうか。
 
◆罪人の頭
 
受け止めるためには、このメッセージを受け取る私の側に、少しばかり準備が必要です。準備とは言っても、予め用意しておく、というタイプのものではありません。時間をかけて備えるものではないのです。このクリスマスの出来事を知った、その時、その瞬間でよいのです。いま聖書の言葉を聴いた、そのときすべてがあっという間に準備できた、ということで一向に構わないわけです。そのために、テモテへの手紙の第一の1章を開きました。
 
13:私は、かつては冒涜する者、迫害する者、傲慢な者でしたが、信じていないときに知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。
 
この「私」は、手紙を書いた人を直接的には表しています。けれども、読者自身が。私は冒涜する者、迫害する者、傲慢な者であった、ということを、まさに自分のこととして、いままざまざと見せつけられたのだ、と気づいたならば、それで準備完了です。この準備があってこそ、憐れみを知ることができます。それが「恵み」です。このとき、キリスト教や聖書が盛んに言う「信仰」や「愛」というものが、開いた窓から一斉に降り注がれてきます。
 
14:私たちの主の恵みが、キリスト・イエスにある信仰と愛と共に満ち溢れたのです。
 
すると、それに続いて、目の前に大切なフレーズが現れてきます。
 
15:「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、すべて受け入れるに値します。私は、その罪人の頭です。
 
「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」、それは当時の教会での、信仰告白の文句であったかもしれません。教会で、互いに教え合い、また聖書を理解し合うために、すなわち教育のために、このような手紙が用いられたことが想像されます。そのときには「信仰告白」の言葉をきちんと伝えることは、とても大切だったはずです。
 
ところがこれに続いて、はっきりと「私は、その罪人の頭です」という言葉が、手紙の筆者によって続けられています。自分は、イエスが救うその罪人の中でも、トップクラスなのだ、という自覚です。
 
なんにしても、自分がトップだというのは、傲慢に聞こえないこともありません。不幸自慢というものがあり、自分が一番不幸だと言いたい人が、世にはいます。けれども、ここではなにも自慢しているのではありません。
 
教会に行くと「罪だ」「罪人だ」という言葉を突きつけられて、嫌だという人がいますが、この信仰は、やはり「自分は罪人だ」という自覚なしにはありえない世界です。それでも、そんな「罪人」であるにしても、自分はあの人よりはましだ、あんな人ほどではなくてよかった、などという意識が、どこかに紛れているかもしれません。罪人の仲間の下っ端には入るだろうか、という程度の意識は、この告白にはありません。強い罪意識があります。ここが肝腎なのです。
 
◆救いの頭
 
16:しかし、私が憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまず私に限りない寛容をお示しになり、この方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。
 
この手紙を書いた人物は、パウロだと名のっています。パウロの弟子にあたる者ではないか、とも言われていますが、名のっているその名で呼ぶことにします。パウロは、強い罪意識がありました。イエスを直接殺したのではないのでしょうが、少なくともキリストの弟子たちをひっ捕まえていたのは確かです。しかしイエスとの出会いを果たしたのは間違いありません。パウロは神の言葉を伝える道具のように用いられることになりました。
 
パウロは、憐れみを受けたのです。自分は「罪人の頭」だと痛烈に感じていたその意識の故に、神の憐れみをとことん感じたのではないでしょうか。神の憐れみは世界中に注がれていたにしても、パウロの感性は、それをまともに受け止めたのです。感じる心があったのです。それが、「罪人の頭」という思いでした。
 
だから今度は、イエス・キリストに救われる者の「頭」となった姿を、人々の前に示すのだ。神にそのように言われたのかどうかは不明ですが、私はきっと、言われたと自覚したのだと思います。そうでなければ、命を懸けてキリストを宣べ伝え続けることなど、できなかったはずです。
 
でも、パウロのことは、これくらいでよいでしょう。今日はとにかく、イエスの誕生を祝う礼拝だとしましたから。クリスマスのストーリーに心を傾け、少しばかりロマンチックな雰囲気をこしらえても、そんなに目くじらを立てないようにします。ただ、そのクリスマスとは何か、という点においては、一歩も譲りません。
 
15:「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、すべて受け入れるに値します。私は、その罪人の頭です。
 
イエス・キリストは、確かに来ました。二千年前に来ました。その来たことと、現代の私たちとは、無関係でしかないように思えるかもしれません。多くの人が、そう思うでしょう。しかし、このイエスの誕生が、自分と無関係だという人は、もはやこのクリスマスの輪の中にはいません。ただもしも、今まではそうだったけれども、いまこの瞬間に、イエス・キリストと出会ったならば、それはそれでよいのです。「罪人の頭」という言葉を自分に重ねて置くことのできたそのとき、そのチャンスが訪れたのです。「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」のだからです。あなたはもう、「救いの頭」となったのです。

※なお、2022年は、このように理屈っぽく、聖書の説明に走りがちなメッセージをお届けし続けてきました。それは、これが「語るメッセージ」ではなくて、「読むメッセージ」であるというスタンスで、告げてきたからです。2023年も、これは読み物であるには違いないのですが、可能な限り「語るメッセージ」に近い形でお届けしたいと思っています。理屈は少し押し留めて、もっと心で受け止められる神の言葉の福音を、私も戴き、それを分かち合うようにしたいと願っています。それも、今流の20~30分で十分話し終えることができるくらいのボリュームで語りましょう。2023年の皆さまが、神の言葉に生かされることを祈りつつ。

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