見出し画像

神は遠くから (ヨハネ18:15-18,25-27, エレミヤ31:3)

◆距離

公園の地域猫たちのためのボランティアさんたちを、陰で支えることに少しだけ協力しています。「猫は家につく」などと言いますが、地域猫でも、なわばりというか、棲み分けのようなものがあり、他の猫が来ると威嚇して追い出すようなことをします。ただ、同じ地域に数匹が暮らすことがあり、それなりに仲良くやっているのが普通です。
 
それでも、ぼうっと休んでいるようなときには、猫は、一定の距離を置いて佇んでいます。不思議です。私はそれを「猫の距離感」と呼んでいます。
 
そう言えば、という感じで、京都の鴨川べりのことを思い出しました。鴨川は、京都の街中を北から南に向けてまっすぐに流れる川ですが、少し西を流れる高瀬川との間に、細い細いみそそぎ川という流れもあります。そのみそそぎ川と鴨川との間が、少し高く位置した人工的な河原になっています。鴨川納涼床がそこに出っ張っているのをご存じの方もいらっしゃるでしょうが、この河原は、昔は処刑場でした。
 
平将門や宗盛その他大勢平家の武将から、幕末では近藤勇の首もここで晒されたそうです。石川五右衛門に石田三成や小西行長の処刑がなされた場でもあり、江戸時代に入るとキリシタンの処刑場として有名でした。
 
そうした血生臭い歴史が、いまやカップルが並んで座るデートコースの定番となっています。そこに腰掛けて並ぶカップルが、互いに少し離れて座る風景は、ずっと京都の名物となっています。ご存じでしょうか。それぞれが等しく間を空けて、不思議と予定調和の如くに見事に並んでいるのです。私たちは普通にそれを「等間隔の法則」と呼んでいました。そういうのも、猫からふと思い出しました。
 
私は仕事柄夜遅く帰宅するのですが、夜は暗いですね。当たり前? そう、当たり前ですが、暗いということは、遠くが見えないのだ、ということに、ふと気づきました。ちょっとした山の見える道を歩くときにも、人家の灯りがない区域は、真っ黒です。昼間は、あそこに桜が咲いている、あそこに家が並んでいる、というふうに、少々離れたところでも、よく見えます。しかし夜は一面真っ暗です。山の輪郭が分かるならまだいい方で、それでも精一杯といったところです。
 
私の歩く道は、さすがに街灯があります。足元は分かるし、家の灯りがあれば、近くのものはよく見えます。きっと昔々は、月明かりだけが、夜歩く道を守っていたのでしょう。近世以降は、提灯かランプかを提げて歩いていたと思われます。ラフカディオ・ハーンの怪談を思い出しますが、灯りが照らすのは本当に自分の足元近くになるのでしょう。そんなに先の景色が見えるわけではありません。
 
すでにお感じになったか、とは思います。今日は、「距離感」について、与えられた恵みを分かち合えたら、と願っています。
 

◆イエスの逮捕

復活祭へ向けて、イエスの歩みを追いかけています。今日は、イエスが逮捕されたときの場面から、共に何かを聴きたいと思います。逮捕されるに至った経緯は、四つの福音書においてそれぞれの流れが描いてありますが、その違いに拘泥せずに、この春お開きしているヨハネによる福音書から簡単に辿ってみましょう。
 
ユダが一同の前から姿を消してから、イエスは残った弟子たちに、特別な話を長々とします。「告別の説教」とも言われますが、これを事実このように話したかどうかよりも、これがヨハネにすれば、イエスから弟子たちへ、そして私たちへと続く信ずる人々へのメッセージであった、というところを心に留めたいと思います。
 
いわゆる「ゲッセマネの祈り」のシーンをヨハネは描きませんが、それらしき園の方に一同は向かいます。ユダは、イエスの行く場所を心得ていますから、当局にその旨を知らせ、自らも、いわば警察組織と共にその場所に赴きました。
 
イエスは堂々と自らの名を名のりますが、弟子たちは逃がそうとします。ペトロが剣で大祭司の手下の耳を切り落としたときには、イエスに剣を仕舞うようにたしなめられました。やがて、イエスは敵の手に陥りました。縛られたイエスは、大祭司の舅であったアンナスのところに連行されます。イエスの逮捕について陰で操っていたのは、そのアンナスでした。
 
15:シモン・ペトロともう一人の弟子は、イエスに付いて行った。この弟子は大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の中庭に入ったが、
16:ペトロは門の外に立っていた。大祭司の知り合いである、そのもう一人の弟子は、出て来て門番の女に話し、ペトロを中に入れた。
17:門番の女はペトロに言った。「あなたも、あの人の弟子の一人ではないでしょうね。」ペトロは、「違う」と言った。
 
ペトロは、もう一人の弟子の口利きで、大祭司の中庭に紛れ込むことができました。この「もう一人の弟子」というのは、門番の女にも顔が利くようで、ペトロを中に入れることができたようです。いったいどんな立場であったのか気になりますが、いまそこには拘らないで進みましょう。
 
この門番の女はがペトロの顔に見覚えがあったのか。それは分かりません。しかし「あなたも、あの人の弟子の一人ではないでしょうね」と声をかけています。門番にしてみれば、「もう一人の弟子」がイエスの弟子の一人だということは、知っていたことになります。それは伝説ではヨハネのことだ、と言われていますが、確たる証拠はありません。しかし、便宜上、それをヨハネと呼ぶことにします。
 
整理しましょう。ヨハネは大祭司の関係者であった。イエスが逮捕された後、ヨハネはその特権を活かして、裁判か尋問かが行われるであろう大祭司の家へ行き、イエスがどうなるかを見届けることができた。恐らくペトロが、ヨハネに頼んだのでしょう。一緒に連れて行ってくれ。よし、それでは、とヨハネがペトロを連れて来ていた。中庭に入ることは、ヨハネにはできたのだった。そのとき友人だとか何か言って、ペトロを入れてくれるように、門番に頼んだ。門番としてはヨハネの頼みを断る権限はなかったらしい。ただ、ヨハネに続いて怖ず怖ずとやってきたペトロを見て、ヨハネと同じようにあのイエスの弟子なのかい、と尋ねた、という情景が想像されます。
 
もしもこうしたストーリーであるのなら、門番は、ペトロを捉えて引き渡そうという意図で尋ねたのではなかったことになります。ヨハネの素性を知っているからには、その友人というのならば、あんたもイエスの弟子かね、と軽い口調で訊いたという様子が想像されます。ペトロは、これに対して、「ええ、まあ……」というくらいにやり過ごすことができたかもしれません。あからさまに「はい」と堂々と言えないにしても、曖昧に返事をすることができたのではないか、現代の、安全なところにいる私からすれば、そのように考えてみることもできました。
 
しかし、ペトロはそれを肯定すれば、自分も捕まること、あるいは引き渡されてイエスと同じような運命になることを恐れた、という可能性はあります。自分は一人の人間の耳を切り落としています。傷害罪がいまなら成立します。肯定すればどうなるか、疚しい思いのある人間は、びくびくしているはずです。確かにペトロの心理は分かりません。けれども、ごまかす余裕もなく、ペトロは否定したのです。「違う」と。
 

◆ペトロは立派だった

なんとペトロは心の弱い、そして主を裏切った酷い奴だ。現代の安全なところにいる私たちは、そのように非難する場合があります。けれども、イエスが気になってそこに潜り込むこと自体が、かなり危険なものであったことは否めません。まして傷害罪に問われることをやらかしているのですから、忍び込んだだけでも、かなりの冒険です。とても「やんちゃ」と言って罪をごまかすようなことはできない情況です。
 
イエスが逮捕されたとき、それに取りすがるような真似はできませんでしたが、ペトロは、それでもイエスが気になっに違いありません。追いかけてきたのです。私は、それだけでもペトロは勇気のある人だと驚きます。大したものだと拍手したいくらいです。私ならできないでしょう。逃げたままになって、どこか隠れたところから、神よ、と祈っているだけだと思います。
 
砲火の中を逃げ惑うウクライナの人々の映像が、今日も報道されます。いや、報道すらされなくなっている、とも言えますが、とにかく気の毒な人々の姿を映像で見ます。しかし私は、安全なところにいます。ここに弾は飛んできません。ここにいれば、逃げる必要もありません。そして「神よ」と祈ります。それでいいのだ、と自分に言い聞かせるクリスチャンもいるでしょうし、それでいいのか、と問い直すクリスチャンもいるでしょう。わざわざ私がいまからウクライナに出かけて行って、平和を説くようなことは、決してしないでしょう。
 
でもペトロは、その危険な現場に侵入しようとしたのです。ペトロと言えば、思ったことをすぐに口に出し、行動も早い、直情的な人物のように評価されています。確かに躁でしょう。いま例は挙げませんが、福音書の各所に多く登場する、弟子の筆頭の役割を果たしており、悪く言えばおっちょこちょいな面をよく見せています。口先で、いらんこといいをしているようにも見えます。
 
それでもペトロは、イエスの尋問を目撃したい一心で、ここでは口先だけではないところを見せました。いや、行動も早いということを示したことになるのかもしれません。その熱意からくる行動だった、と言ったほうがよいような気がします。イエスを追いかけてきたのです。
 
ペトロの視線の先には、イエスがいました。それれは、ダビデが失敗を繰り返したダメ人間だったにも拘わらず、主を見上げていたことにも匹敵するのではないか、と私は思っています。
 

◆近くだけしか見えない

18:僕や下役たちは、寒かったので炭火をおこし、そこに立って火にあたっていた。ペトロも彼らと一緒に立って、火にあたっていた。
 
レンブラントはこの風景を「ペトロの否認」と題する絵にしました。ここからはよく、霊的な黙想がなされます。ここに福音書の筆者が「火」をわざわざ描いている故にです。尤も、原文には「火」という語がそう何度も出てくるわけではありません。「炭火」はよいのですが、「自分を暖めていた」という一語が、人々とペトロとで、二度使われているだけです。炭火をつくり、自らを暖めていた、というのがそこでの描写です。それは、25節でも同じです。
 
25:シモン・ペトロは立って火にあたっていた。人々が、「お前もあの男の弟子の一人ではないだろうな」と言うと、ペトロは打ち消して、「違う」と言った。
26:大祭司の僕の一人で、ペトロに片方の耳を切り落とされた人の身内の者が言った。「お前が園であの男と一緒にいるのを、私に見られたではないか。」
27:ペトロは、再び打ち消した。するとすぐ、鶏が鳴いた。
 
こうして、ペトロの否認ということで、ペトロが泣いたなどといろいろ他の福音書ではドラマチックに書かれているのですが、このヨハネによる福音書ではそこに光を当てません。むしろ私は、あの「自分を暖めていた」の描写に、この場面の強調点を感じます。
 
もちろん、春先の夜となると、気温も下がるでしょう。火にあたるのは当然です。必要だから火が起こされていたのです。「寒かったので」す。しかしペトロにとっては、何よりも心が寒かった。先生が逮捕された。命が危ぶまれる。これからどうなるのだろう。自分はどうしたらいいのだろう。心が冷え冷えとしていたに違いありません。
 
そこから、イエスを見捨てて逃げた自分に気持ちが向くというのが、最後の「鶏が鳴いた」であったものと思われます。このときペトロの視界に入っていたのは、火と、その周辺にいる人々でした。声をかけられ、自分を守ることに精一杯になった自分がそこにいました。ペトロに見えていたのは、近くにあるそうした風景だけでした。この近景だけが、ペトロの見ていたすべてでした。
 
ペトロは、身を守るために、「違う」と嘘を言いました。目の前に、火明かりに照らされた人々がいる風景しか見えなかったからです。しかしその火明かりの向こうには、裁判を受けるイエスがいたのです。このときのペトロは、そのイエスが見えませんでした。恰も、夜の闇の中で遠くの山の景色が分からないように、イエスのことが心からも消えていました。ここにあるのは、人間が起こした火による、ささやかな光だけです。目の前を照らす火の光だけが、そのときのペトロの見えるすべてでした。人間のつくった灯りは、近くしか照らし出しません。目先のことしか分からないのです。
 

◆火明かりの向こうに

ペトロが鶏の声を聞いて、どう思ったか、などをヨハネによる福音書は記しはしません。泣いた、とする他の福音書とは違い、読者に、その想像を全面的に委ねます。ただ「鶏が鳴いた」としか書かないのです。それで私は、ここからのペトロの気持ちになって、ひとつの想像をしてみました。これは私の想像です。ただ聞いて戴ければ十分です。
 
私は、鶏の声を聞いて、イエスが言っていたことをペトロが思い出した、と想像します。
 
イエスはお答えになった。「私のために命を捨てると言うのか。よくよく言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度、私を知らないと言うだろう。」(13:38)
 
そのとき、ペトロは目の前の火の向こうに、イエスを見たのだ、と考えました。火明かりの先に見えたイエスは炎に揺れていた、そういう風景を思い浮かべました。昔私から生まれた賛美の歌のひとつ「ペテロ」(新改訳を教会が使っていたので)の2節は、そのシーンを描いています。
 
  敵を目の前にして わたしたちをひとつに集め
  「定められたとおりに去ってゆく」と あなたは告げた
  
  「とりわけペテロの信仰のため
  祈りました」と静かに わたしを見た
  
  囚われたあなたを 遠くから追ってゆくと
  凍える火明かりを越え あなたが揺れてた
 
ペトロは、イエスを否みました。三度も、否定しました。これがペトロの痛恨の極みとして遺ることになります。ユダはイエスを確かに裏切りました。しかしある意味でそれは一回です。しかしペトロは、三度裏切ったともいえます。きっとペトロはそう思ったことでしょう。一回裏切ったユダは滅んだことになります。しかしペトロは生かされます。それどころか、教会の礎にまでなるのです。
 
私はその理由を説明しようとは考えません。この私もまた、生かされているからです。私もまた、あくどい裏切りを重ね、とうに滅んでいるはずの者です。でも生かされています。救われています。だから、このユダとペトロの違いのメカニズムを解明しようだなどという大それたことは考えません。私はただ「ありがたや」と両手を合わせるくらいのことしかできないわけです。
 

◆神の光

ペトロの近くを照らしていた火明かりは、人間のつくった、周辺を照らすにすぎない人工的な、ちゃちな光をもたらしていただけでした。しかし、聖書は告げます。全き光があるのだ、と。
 
まことの光があった。その光は世に来て、すべての人を照らすのである。(1:8)
 
まことの光、それはイエスに他なりません。その光は、人工的な光がこれ見よがしに、ここが明るいよ、と誘い込むような性質のものではありません。信仰の目で見なければ見えないような、かすかな光であるかもしれません。
 
聴覚的なものですが、神は、かすかな細い声で、人に語りかけることがあります。大いに神の力を発揮した直後、預言者エリヤは、自分が命を狙われていると知り、荒野に身を隠します。そこで神が語りかけたのは、疲れたならもうよいから後継者を与えよう、という言葉でした。その声は、「かすかにささやく声」(列王記上19:12)であったと旧約聖書は伝えます。
 
イエスは、輝くような姿を弟子たちに見せた事があります。しかし、その辺りをイエスが歩いていたとしても、特別に目立ったものではなかったことでしょう。凜々しい姿ではあったかもしれませんが、ことさらに着飾った人ではなく、誰が見てもオーラが輝くようであったようには思えません。暗がりに隠れる地味な人だったからこそ、ユダヤ当局は、確実にイエスを逮捕するために、ユダを利用したと考えるとスムーズに理解できます。
 
神の光というものが、眩しく輝いているものと決めつけることはできません。輝いているとすれば、それは夜のない神の国、新しいエルサレムにおいてでありましょう。この地上で、いまイエスが客観的に特別に輝いているのではないと考えられます。神の光は、かすかに揺らいでいるようなものであるかもしれない、と思うのです。
 
先週、イエスが誕生したときに、東方の博士たちをその現場に導いたのは、明るく輝いたとはいえ、遠くに見える星の光であったとお話ししました。夜の闇の中の一点の光に過ぎませんでした。しかし、その星たるや、遠くから見るからそうなのであって、もしも星の近くまで行きますと、どういうことになっているでしょうか。猛烈な炎に包まれ、核融合のために一万度を超えるような熱を帯びた光の球であるわけです。
 
ペトロが遠くに見たイエスの姿は、遠くからかすかなものとしてのみ見えたかもしれませんが、イエスそのお方は、限りない熱と光を発しているのではないでしょうか。
 

◆神は遠くから

旧約聖書は、イエスが現れることについてすでに告げていた、というように解するのが、新約聖書の根本です。神を信じるイスラエルの民が、圧政や束縛の中で耐え忍び、いつかイスラエルが復興する、という望みを、スーパーヒーローたるメシアに期待していたわけですが、それがどのように登場するのか、何をしてくれるのか、その実現がイエスであった、とするのです。旧約聖書は、そのための伏線を置いていたわけで、その伏線が解決されたことを説明するのが新約聖書である、ということになります。
 
しかし、旧約聖書は、そのための伏線だけで終わるのではないはずです。改めて、神はどんなにか私たちを愛していたか、思い起こすためにも、また味わうべきなのです。それはちょうど、親が如何に自分を愛していたかについて、親が書き遺したノートを知った子どもが、急に「そういえばあのとき……」と、いろいろなことを思い出すのと似ています。
 
そのひとつの道を、今日はエレミヤ書から見出してみました。エレミヤ書という大きな預言の書は、旧約聖書の中でも少し変わった文書です。この預言者の魅力については、いずれまたどこかでお話しすることになるでしょうが、神に真っ向から逆らうほどに、神と向き合った人でもありました。エレミヤは、バビロン捕囚の現場に立ち会っています。捕囚の前には捕囚について警告し、散々な目に遭いますが、エジプトに逃げるイスラエルの民に無理矢理引きずられて、消息を絶ちます。
 
しかしエレミヤの遺した言葉は、イスラエルのための「新しい契約」という輝かしいものとしても遺っているのが特筆されます。捕囚の憂き目に遭うこの民も、いつか必ず回復の時がやってくる。希望の言葉を告げるのです。その時、イスラエルの人々と神との関係が再び結ばれるのだ、と語り、このイスラエルの地で幸福に暮らす姿を描くのです。その中にある美しい一節をお読みします。
 
遠くから、主は私に現れた。
私はとこしえの愛をもってあなたを愛し
慈しみを注いだ。(エレミヤ31:3)
 
いまあなたから、神は遠くにしか見えないかもしれません。しかし、神の視力は、私たちとは比較にならないほど優れていて、いくら遠くからでも見えるものでありましょう。あなたからは神までの距離が遠いようでも、神の目はあなたを近くに見ていらっしゃいます。神の手は、あなたにすぐに届きます。
 
永遠の昔から、永遠の未来にまで、あなたを神は愛している。神は、その計画において、あなた抜きには完成しないものと考えておいでです。
 
私たちは近視眼です。目の前の不運や、人間関係の拙さが、世界のすべてであるかのように思い込んでしまいます。あるいは、近くにいるような人々の視線ばかりを気にして、動けなくなっているかもしれません。そんなとき、遠くからの光には、気づく術がないのです。あるいは、光があったとしても、それを無視するばかりで、目の前のことにばかり囚われてしまいがちです。
 
ペトロは、鶏が鳴いたときに、イエスの言葉を思い出したのだ、そう私は思っています。そのとき、火明かりの向こうに、確かにイエスを見たのだと想像するのです。あなたにも、いま鶏の声がしませんでしたか。そのとき、イエスの言葉が、ぐっと身近に迫る気が、しませんでしたか。神の姿を探してみませんか。探し直してみませんか。遠くに見えたとしても、そしてもしも見えなかったとしても、神はあなたを見ています。あなたを、永遠の愛で見つめているのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?