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チームとメンバー

平野レミさんはすごい。あのまくしたてるパワーは驚異以外の何ものでもない。口から出ることには周りがハラハラさせられると思うが、その平野レミさんを、生放送に使うNHKの懐の広さにもまた驚かされる。7月15日の朝も、今年2回目だが、「平野レミの早わざレシピ」が放送されていた。
 
番組は、1時間余りの時間の中で、多くの料理を次々と作っていく、というもの。その間、休みなくレミさんのマシンガントークが炸裂する(喩えが物騒で申し訳ない)。すべてオリジナルの料理で、しかも奇抜なものが多く、豪快に作るのがウリで、しかも料理名が笑えるとくる。見入ってしまい、最後まで目が離せなくなる番組である。
 
この日のゲストは、澤穂希さんと吉田沙保里さん。超一流の元アスリートである。料理毎に交代で、アシスタントを務めることになる。
 
私が番組を見始めたとき、吉田沙保里さんがレミさんの横にいた。しかし、料理をあまりしないと告白していただけあって、アシスタントとしての役目は殆ど果たしていないようだった。どう見ても、料理の行方や現状を把握しておらず、うろたえているようであった。ただ、指示されて動くとき、カメラ関係から、カニのように横歩きになることが多いのだが、そのフットワークは、レスリングの要領でなかなかきびきびとしている、と妻が指摘した。確かに。
 
澤穂希さんがアシスタントに代わった。少しも慌てない。料理の手さばきもお見事である。結婚して、お子さんもいる。ふだんの料理の様子が偲ばれる。しかも、実はスポーツ栄養プランナーや食生活アドバイザーの資格を有っているとのこと。レミさんが突拍子もないメニューで材料をどう扱おうと、冷静に情況を見て、自分がアシスタントとしてなすべき仕事を、時間の中で的確にこなしていた。
 
もちろん、料理の経験の有無は大きい。だが、この様子を見て、妻はさらに的確に指摘した。吉田さんはレスリング。個人競技である。自分が何をするかについての仕事をするから、自分で分かっている分には申し分ないのだろうが、誰かの指示を聞いて共に試合をつくっていく、という現場にいたわけではない。それに対して澤さんは、チームプレイのサッカーという競技。試合のために自分が全体のどこにいて、目的のためにいま自分が何をしなければならないか、を常に把握しながら動いている。仕事全体を見渡している中で、瞬時にその判断をすることに慣れている。この違いがはっきり出ている。
 
なるほど、そうだと同感した。サッカーの主将を務め、2011年のワールドカップで優勝という偉業を成し遂げた。以前中村俊輔選手が言っていたが、フィールドに立っていても、常に上から俯瞰した図が頭に見えており、その中で自分の役割を果たすのがサッカーだそうだ。澤さんもそうだっただろう。ということは、この料理番組でも、時間内にそれぞれのメンバーが自身の仕事役割を把握し、自分がその中でできる仕事を直感し、淡々とそれをすることを考えていたに違いない。
 
サッカーでは、ゴールそのものは華だが、実はゴールに結びつける「アシスト」という仕事が一番重要である、とも見られる。正に澤さんは、この料理番組で、「アシスト」するアシスタントを担っていたのであった。
 
妻は、小さな医院であるが、師長を務めている。新人採用にも関わるが、ふだんからも人間観察が鋭い。だから番組を見ながら、二人の違いについて、すぐに分析していたのだろう。ただ、このようなことも言った。「雇うなら、澤さん。文句なしに採用」と。医療スタッフとしても、全体の動きを理解した上で、自分の立ち位置を知り、自分にできることを淡々とこなすことが必要である。そして自分にできないことがあれば、全体のために、その仕事について他者に相談したり任せたりすることが必要である。それができるという意味では、この番組での澤さんの働きは、確かに完全だった。(もちろん、この文章は私が書いているのであり、妻の発言をヒントに、私の考えを述べているだけであって、妻に責任がないことを申し添えておく。)
 
医療現場を描くドラマがいま非常に多い。映画でも、その方面のもので評判のよいものが多々ある。そこでは時に、スーパースターが超人的な業を発揮するのがウリであるものもあるが、概して面白みがない。むしろ、チームの一人ひとりが、それぞれの役割を果たして協力して治療にあたる、という姿を描くものが、心を惹く。チームプレイのためには、全体の中の自分の位置の把握が不可欠であるし、全体の勝利という目標に向かって一丸となって動いていかなくてはならない。そういうことを教えてくれるような気がするのだ。
 
学習塾には、医療現場のような緊急性や逼迫性はないが、それでも、ひとつの言葉が子どもの心を殺してしまうようなこともあるから、油断してはならない。その上で、与えられる授業というものに対して、いろいろと無茶振りがくることもあり、その意味では緊急性がないわけではない。自分の授業だけしか頭にないようでいては、とうてい仕事はできない。
 
だが、公的な教育機関の中には、自分のことしか考えないような人が混じっているかもしれない。そして、自分がしたいことができない、などという不満ばかりをもつような人もいるらしい。もちろん、校長という絶大な権限をもつ学校組織の中で、ずいぶんと辛い気持ちで仕事をしている人もいるだろうとは思う。そのためにも、校長という「主将」が、チーム全員の信頼を集め、メンバー個人への配慮も行いながら、よいリードをしていかなくてはならないだろう。それだけの器のある人こそが、本来校長になっているはずなのだ。
 
労働条件ばかりが世間的には話題になる教育現場である。教諭が退職してゆくのには、不条理な制度や実態がある、という指摘は大切である。また、モンスター・ペアレントなどと呼ばれる環境があるのも確かにあるだろうとは思う。だが、その議論には、子どもたちを学校というチームが育む、ということへのエネルギーが軽視されていないか、振り返る必要もあるだろう。周囲がとやかく口出しする前に、子どもたちをどうしてゆくのか、社会もまた、学校のチームの一部として共に考えて助けてゆくようでありたいと願う。その意味では、いま崩れているPTAというものが、その理念において働かなければならないと思うのだ。
 
そして最後に、これがキリスト教会においてはどういう教訓となるのか、考えてみたらいい、とも言いたい。まさに、ひとつの教会も、ここでいう「チーム」なのではないか。その中で自分の位置と、全体の目指すものとがそれぞれにおいて理解されていることが、どんなに大切なことであるか、聖書を読んでゆけば必ず省みることができるだろう。もちろんそこは信仰というフィールドである。神秘的な要因はある。しかし、「教会論」が実際に教会を生き生きとさせる場面では、この考え方に大いに触発されねばならないと思うのだ。
 
そのためには、牧会者が「牧会」を、命あるものとして受け止める必要があるだろう。霊に導かれてゆくことは、人間の知恵を最善としてゆく性向に逆らうものであるに違いない。そして、命を教会に与えるものは、強調するが、「説教」である。神の言葉を信じるのが教会であるなら、教会を「チーム」とし、一人ひとりをその「メンバー」とするためには、神に出会った説教者が、命の言葉を語る「説教」が、どうしても必要なのである。

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