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イエスという人 (テモテ一2:4-7, イザヤ53:5)

◆エンパシー

福岡出身のブレイディみかこさんが書いた『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』は、ベストセラーになり、文庫になったいまも読まれているようです。イギリスに住む彼女は、イギリス社会の中の階層や政治の問題をよくレポートする方ですが、この本は息子さんの出来事を扱っていて、いくらかソフトに読めるところが多いとも言えます。
 
その中で一番有名なのは、たぶん「誰かの靴を履いてみること」という章でしょう。まだお読みでない方は、どこかで読まれるとよいかと思います。みかこさんは、中学生の息子さんと配偶者と3人で、イギリスの下町で暮らしています。中学校の試験に「エンパシーとは何か」という問題が出たとのこと。何と書いたのかと訊かれて、息子さんが答えます。「自分で誰かの靴を履いてみること、って書いた」
 
「自分で誰かの靴を履いてみること」、それは英語では「他人の立場に立ってみること」という定型表現であるといいます。だから何も詩的な表現だったわけではありません。ただ、みかこさんはそこから考えさせられます。「エンパシー」、それは「シンパシー」とは違うわけです。どちらも日本語で「共感」と訳すことは可能です。しかし、「シンパシー」が他人のことを「理解する」力を想定させるのに対して、エンパシーはさらに、辞書的には「自分がその人の立場だったらどうだろうと想像することによって誰かの感情や経験を分かち合う能力」である、と気づかされます。
 
つまり、「シンパシー」のほうは、可哀想な立場の人や問題を抱えた人、自分と似たような意見を持つ人に対して、人間が抱く感情のことをいいます。この能力は、自分で特に努力をしなくても、自然に生まれることがあるのです。しかし、「エンパシー」は違うのだといいます。自分と違う理念や信念をもつ人、別に可哀想だとは思えないような人がいったい何を考えているのだろう、と想像する力のことだというわけです。そこから逆説的ですが、「シンパシー」はむしろ感情的な状態であり、「エンパシー」は知的作業であるに違いない、とみかこさんは考えます。
 
イギリスの社会問題に関わっていくということで、エッセイは進展していくのですが、英語に疎い私でも、それらの接頭語の違いに、思いを馳せるのでありました。「シンパシー」の「シン」は、ギリシア語由来で「共に」という語です。教会でも時折「共に生きる」というキャッチフレーズを掲げて、人を助ける運動を考えることがありますが、この「エンパシー」と比べるならば、どこか感情に由来するものではあっても、「自分で誰かの靴を履いてみること」とは少し違うのかもしれません。
 
これはイエス・キリストを思うときにも、少しだけ役立つかもしれません。もちろん、イエス・キリストは「エンパシー」だ、などと単純に決めてかかるつもりはありません。キリストの思いは、感情を超えた知的な領域というよりも、もっと先にあるような気がしてならないからです。靴を履くどころではない、というように感じるのです。
 

◆受肉

「主は聖霊によりて宿り、おとめマリアより生まれ……」、いわゆる「使徒信条」の一部です。クリスマスの記事が思い起こされます。聖霊によって、イエスはこの世に誕生しました。母はマリアでした。これは、神が人として生まれた瞬間でした。テモテへの手紙一2章です。
 
5:神は唯一であり、神と人との仲介者も唯一であって、それは人であるキリスト・イエスです。
6:この方は、すべての人のための贖いとしてご自身を献げられました。これは、定められた時になされた証しです。
 
神学用語に「受肉」という言葉があります。英語では「インカーネーション」といい、ラテン語の「肉体化」を意味する語を基にしています。この言葉を耳で聞くと、あるいは文字で見ると、人はあるものを連想するはずです。そう、「カーネーション」。似ていますね。花の名前ですが、それはこの「インカーネーション」と深い関わりがあるとも言われます。一説には、その花の色が「肉の色」だというところから付けられたといいます。「肉」はラテン語では「カ(ル)ン」なので、そうかしら、という人がいるのだそうです。
 
イエスという名も、天使により選ばれていたといいますが、それは神の子、神が人となった、それがキリスト教の信じるべき基本のひとつです。そんな絵空事が実際にあるはずはないだろう、と言う人もいます。人間が合理的に説明できる物語を新たにつくり、過去の神話はただの神話に過ぎない、などとしたり顔で話す人がいます。どうせフィクションに過ぎないではないか、と嘲笑します。いまどきそんな空想話を信じる者がいるのはおかしい、と相手にさえしません。
 
それに対して、それもありうることなのだ、と科学的に証明しようとする、健気なクリスチャンも世の中にはいました。生物の中にはメスだけで繁殖可能な場合がある、などとするのです。でも、聖書が言っているのはマリアだけで生まれたのではなく、「聖霊によって」というのですから、せっかくの科学的な探究も、信仰にはあまり役立ちそうにはありません。
 
もしも合理的観点からだけですべてが説明できるのならば、世界にはもう謎が残らなくなっていることでしょう。ひとの心理を簡単に説明し尽くそうとするような占い師ならばそれもありうるのかもしれませんが、そうなると、所詮また「占い師」という奇怪な原理が残ります。「神が人となった」という「受肉」は、さしあたり信仰者の中で確かなものとなっているのですから、そこから私たちも足を進めていくように致しましょう。
 
キリスト教が宗教のひとつだとして、そのウリは何かというと、ひとつには、その歴史性です。完全な空想話ではないということです。歴史の中にイエスがいたことは、科学的に否定されることは無理なようです。旧約聖書の歴史も、一定の形で歴史の中で確実にあったことが分かっていますし、イエスの歴史性についても、疑うことは難しいのです。
 
しかし、何々仏がこの地上を歩いていた、ということは、疑うどころか、現実には誰も想定していないことではないでしょうか。それこそ人間の想像力の産物であって、歴史の中に足跡を刻んだ仏としては、ゴータマ・シッダールタという人などのほかには、認められていないのではないでしょうか。しかしこの仏陀は確かに死んで、骨になっています。その意味では実在性がありますが、人間であるということを示してしまうこととなりました。
 
イエスはこの世界に生まれた。殺されたが、蘇った。ここまでは一連の信仰項目となります。キリスト教徒は、そういう一直線の出来事を軸にして、聖書を読んでいきます。
 

◆注意すべき宗教

何も、他の宗教を貶めるつもりはありません。ただ、ひとつの事情は説明に加えてもよいのではないか、と理解します。日本には、たとえば「狐憑き」というものがあります。「憑依霊」という考え方は、一種の精神的な病気に対してもそう呼ばれたことがあるだろうと思います。近代の新興宗教においては、よく「霊が降りてきた」という現象が起こります。あるいは、そのように、教祖の不思議な言葉を根拠づけるのです。
 
ただ、これを一律に精神的な「病気」だとしてしまうと、話が別の方向に流れる可能性があります。冷静にそう分析する人もいるのですが、悪い意味でいまそのように決めつけようとしているのではありません。ただ、そこで語られる霊の世界の話は、現実の出来事に基づくというよりも、何らかの想像力の産物であると理解することのできるものであることが多い、と言ってはいけないでしょうか。
 
近代社会では、新しい時代を迎える不安な世相があったことでしょう。そういうときには、生きる指針を見出してくれる人や教えを、潜在的に人々は求めているのかもしれません。新興宗教は、これからの社会をどう生きるか、教えてくれたのかもしれません。
 
その意味では、現代社会でも、「私は仏陀の生まれ変わりだ」とか「私は再臨のキリストだ」とか自称する者が現れることがありました。そして、そのような偽物の空想話に、科学が浸透していると思われる現代人の中に、いとも簡単にハマる人が続出したというのも事実。そんなまやかしでさえも、何かを信じていかないと、自分が壊れそうだと怯えていた人にとっては、それが救いであるかのように思えるのでしょうか。
 
この新たな偽物は、しばしばその目的を金銭に置いているところが、社会問題の種となります。信教の自由を背景に、金づるとして人を利用していることが、巻き込まれて当事者には見えないし、それを信じたくはなくなる怖さがあります。むしろ、その宗教団体を離れれば救われるということに、向かえばよいのに、と思います。
 
いろいろ言いましたが、しかしそうなると、聖書に描かれている出来事もまた、同じように理解されてしまう可能性が出て来ます。モーセが神と話したとか、その前のアブラハムになると、ますます根拠が薄いとか、言われても仕方がないような気がします。後の時代の預言者が、「主は言われる」と人々に語ることも、かの新興宗教と、現象としては同じことになります。
 
もちろん私たちキリスト者は、そこに意味を見出し、それもまた神の言葉のひとつだということを信じる者ですが、それというのも、聖書にあることがすべてそのような空想でありうるものではない、と思うからです。クリスマスの物語はどうなのでしょうか。神の子が人となった、というあたりも、もしかすると怪しいのではないかと不安になります。だからかどうか知りませんが、福音書で最初に書かれたと思しきマルコによる福音書では、クリスマスの物語は想定せずに、ズバリ福音宣教から始めます。神が人となった件については、その後次第に明らかにしていくわけです。
 

◆人の痛みを背負う

イエス・キリストが肉となって来られたことを告白する霊は、すべて神から出たものです。あなたがたは、こうして神の霊を知るのです。(ヨハネ一4:2)
 
新約聖書も、執筆が後の時代になると、教会における困った問題が描かれるようになります。いわゆる「異端」です。当時は新約聖書があったわけではないし、教義も定まっていなかったと思われます。むしろ「異端」とされたグループが、新約聖書に収められた文書をよく管理し、自分たちに好ましいものを集めて活用していた、と言われるほどです。そうしたグループの中には、果たしてイエスは神であったのかどうか、などという神学的問題において、いまのキリスト教信仰とはだいぶ違う主張をするものもありました。それなりに聖書や権威ある文書に書かれてあることを基に考えるので、単純に決定することの難しい問題でした。
 
だからこうして、キリストが人となったという点を信仰している者は自分たちの仲間である、というように「ヨハネ」の名を冠するグループが掲げていたのだと思われます。
 
いまの新約のパーツとなる文書よりも、なお権威があったのは、やはり旧約聖書でした。その中に、キリストが現れる根拠を探すのが、まず重要であったと思われます。「旧約」と呼んでよいのかどうか、いろいろ問題もありますが、煩瑣を避けるためにここではそう呼びます。旧約聖書の中では、キリスト、つまり待望されるメシアはどうだったでしょうか。神が人となりうるのでしょうか。
 
いえ、旧約世界では神と人とは明確に分断されています。混じり合うことがありません。堕天使が人の女と云々などという、ファンタジー好みの設定がないわけではありませんし、神が地上を探るというようなシチュエーションも見ることができるのかもしれませんが、神はやはり人と違う、というのが基本です。その旧約の文化の前提がある中で、新約聖書の時代、イエスを、神が人になったのだ、というように言い始めるのですから、抵抗が大きかったものと思われます。
 
彼は私たちの背きのために刺し貫かれ/私たちの過ちのために打ち砕かれた。/彼が受けた懲らしめによって/私たちに平安が与えられ/彼が受けた打ち傷によって私たちは癒やされた。(イザヤ53:5)
 
有名な「苦難の僕」の描写ですが、これが神だ、とイザヤが言っているわけではありません。しかし、イエスをキリストと信じる仲間は、この「苦難の僕」の姿に、イエスを重ねて捉えることができると気づきました。イエスが、人類の経験する痛みをすべて負ってくださったと理解したのです。
 
神は唯一であり、神と人との仲介者も唯一であって、それは人であるキリスト・イエスです。この方は、すべての人のための贖いとしてご自身を献げられました。これは、定められた時になされた証しです。(テモテ一2:5-6)
 
いま私たちが信仰の中に置くイエスの姿は、こうした言葉で表現されています。確かに痛みを背負った方でありました。
 

◆歴史的存在として

世にある様々な神話には、あまりにも人間離れした存在や事件が数多く描かれています。聖書の記録もまた、そうした荒唐無稽なものであるかどうか、それは読んだその人が感じ取るべきことです。聖書はこうだ、と理屈で押し通すものではないと思います。私たちは、聖書を読んでいます。自分が出会ったイエス・キリストが、さらにどんなお方であるか、もっとよく知ることができると思って読んでいます。
 
イエス・キリストは、神でありながら、人となりました。痛みを知っている人です。私がちょっと困ったとか苦しい思いをしたとか、その程度のものではありません。鞭打たれ釘打たれ、晒し刑に遭ったのです。しかも、それ相応の罪状もなしに。そんな方が、私が実際に苦しさを覚えていることについて、分かってくださらないはずがありません。「エンパシー」どころではありません。
 
他方、この日本の風土では、人が簡単に神になります。そもそも「カミ」という語が聖書の訳に使われてよかったのかどうか、それも議論があります。日本語の「カミ」は、かつては「上」から来ているなどとも言われていましたが、万葉仮名の研究から、いまやその線が薄くなったと考えられているそうです。すると益々謎になっているのだとか。
 
優れた能力をもつ者は、すぐに「神」と呼ばれます。ネットで優れた人物や声が話題に乗り込んでくると「神が降臨した」となりますし、「学問の神様」はもちろん、「マンガの神様」や「経営の神様」と言えば、誰のことかすぐに分かるような代名詞となっています。
 
他方、日本神話の神々は、あくまで神々です。人間界に来て一暴れもしますが、人間になるわけではありません。「権化」というものはあります。仏なり菩薩なりが、人の救いのためにこの世に姿を現すことをいうのだそうですが、イエスのような意味で人になったというのは難しいような気もします。少なくとも、歴史の中にその「人」が刻まれたという扱いは受けていないと思います。
 
ありがたい仏の慈悲というものを思うのもよいでしょう。しかしイエス・キリストはやはり違います。確かにこの世界にいたということです。歴史的存在だったのです。だからこそ、イエスは神などではなく、ただの人間でしかなかった、という「異端」も現れたわけです。
 
自分は「仏陀の生まれ変わり」だ、「再臨のキリスト」だ、という触れ込みで金と権力を手に入れようとした人間は、いずれも普通の人間として死んでしまいましたが、それをも信じていた人たちは、果たして何のために信じていたのでしょう。それを数学の証明のように証明することは無理なのでしょうが、いまなおそこに留まる人の中には、よけいに意地になって信仰し続けている人もいるのでしょうか。
 
私たちは、もう一度イエスの姿を、イザヤの預言の中から思い浮かべ、心に留めることにしましょう。
 
彼は私たちの背きのために刺し貫かれ/私たちの過ちのために打ち砕かれた。/彼が受けた懲らしめによって/私たちに平安が与えられ/彼が受けた打ち傷によって私たちは癒やされた。(イザヤ53:5)
 

◆信じることによって

ところで、先ほどこの箇所を受け取りました。
 
神は唯一であり、神と人との仲介者も唯一であって、それは人であるキリスト・イエスです。この方は、すべての人のための贖いとしてご自身を献げられました。これは、定められた時になされた証しです。(テモテ一2:5-6)
 
この直前には、次のような言葉がありました。
 
神は、すべての人が救われて、真理を認識するようになることを望んでおられます。(テモテ一2:4)
 
この言葉の調子だけに気を好くして、これは万人が同じように救われることの根拠だ、と考える人がいますが、そういう教義はありませんし、そう理解する必要もありません。神の救いを体験して確信したとき、ひとは真理を心底知ったと感じることができるのでしょう。神は、どんな人でもそうなってほしい、と確かに思っていらっしゃるだろうと思います。誰かを救いから排除することはなさらないのだと思います。誰でも救われる資格はある、という意味に受け取っておきたいのです。その方が、健全ではないでしょうか。
 
こうして、イエスの姿が確認されると、手紙は筆者自身に重きを置くように流れてゆきます。
 
その証しのために、私は、宣教者、使徒とされ、また異邦人に信仰と真理を教える教師とされました。私は真実を語っており、偽りは言っていません。(テモテ一2:7)
 
あなたが信じているのなら、あなたが救いを経験しているのなら、あなたもまた、この証しをすべく立てられています。牧師とか伝道者とかいう肩書きは必要ありません。教師などという地位も関係ありません。あなたは「真実」を語ることができます。どこかで聞いた教義をオウム返しに唱えるのでもないし、語る言葉をいつも「他人事」のように読み上げるようなこともありません。そういうのは「偽り」ですが、真理を認識したあなたは、確かな真実を告げることができるのです。
 

◆主の御前に出るがいい

このイエスの負った痛みによって、私たちは救われています。では救われた私は、それからどうしましょうか。イエスに「恩返し」をするべきなのでしょうか。しかし、「神のために」何かをする、という発想そのものがおかしいものです。しばしばカルト宗教は、神のために君は何ができるか、と問います。そうして、教団への忠誠を誓わせ、教団に身を献げるように仕向けるのです。真面目な信者ほど、極端な情況へと追い込まれ、厳しい状態へと追い込まれます。
 
でも、本当のところはそうではありません。むしろ「恩送り」に近いかもしれません。何か恩を受けたら、その相手に返すのではなくて、それをまた別の人に返す(その言葉は実のところ語弊があるが)ということです。新しく誰かが言い始めたという話もありますが、どうやら江戸時代くらいにはそのような意味の言い方があったようです。「情けは人の為ならず」という諺にも、そうした思想が潜んでいるような気がします。
 
私は神から愛された。こんなにも愛され、救われた。だからその感謝を、誰かほかの人に向けるのが望ましい。神から愛されたからこそ、誰かを愛するように走る。世の人を愛する。そうして、私は「世の光」として生きることが可能になるのです。
 
何か特別なことをしろ、ということではありません。ただ、神の御前に出るだけでよいのです。神の御前にいる自分を意識し、どこでもつねに、神の御前に出る心でいるだけです。いや、その「出る」とは何ですか、と尋ねる方がいるかもしれません。それを私は手近な言葉で言ってしまおうとは思いません。「出る」ということは、あなたがイエス・キリストを信じたときに、きっと分かることです。
 
私を通して生まれたひとつの賛美を、最後にご紹介します。共に、神を賛美致しましょう。「飾らぬままで」という賛美です。
 
 
  飾らぬままで

ひとと同じになって 痛みを味わって
神になおもゆだねた あなたがそこにいた

いつも自分だけが 信じられるすべてと
思いこんでいたのに それはちがった

ただ 砕かれた心で 弱さをかみしめて
主の御前に出るがいい 飾らぬままで

わずかばかりの時を ひとの救いのため
残らず献げきった あなたがそこにいた

いつも自分だけに 幸せがあるように
願い生きていたのに それはちがった

ただ 砕かれた心で 弱さをかみしめて
主の御前に出るがいい 飾らぬままで

なにも善いものはなく なんの力もない
ほこるものはといえば あなたのほかにない

立ち上がることさえ できないそのときにも
口には賛美がある 喜びがある

ただ 砕かれた心で 弱さをかみしめて
主の御前に出るがいい 飾らぬままで

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