永遠の命を与える (ヨハネ10:22-30, 創世記3:21-24)
◆永遠の命が禁じられる
創世記3章は、ショッキングな場面が続きます。神にまず造られたのがアダム。次いでアダムの骨からエバが造られました。この二人が、こぞって神に楯突くのです。
問題は命の木でした。楽園の中にある木の実は食べてよい、とされていましたが、ひとつだけ、禁断の木の実がありました。林檎だとされたのは後の西欧の思い込みでしたが、とにかくそれは「園の中央にある木の実」でした。それについては、「園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えさせた」(2:9)と書かれていますが、神はタブーを命じるときに、「園のどの木からでも取って食べなさい。ただ、善悪の知識の木からは、取って食べてはいけない。取って食べると必ず死ぬことになる」(2:16-17)と言っています。
さらに、二人を唆した蛇は、「いや、決して死ぬことはない。それを食べると目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っているのだ」(3:4-5)と言っています。女は先に、「園の中央にある木の実は、取って食べてはいけない」(3:3)と蛇に答えていましたから、その木の実は、いつの間にか「善悪の知識の木」であるだけのようになっています。「命の木」はどうなったのでしょうか。
あるいはそれは、蛇の巧緻な企みだったのかもしれません。女が手に取ったのは「賢くなるというその木」(3:6)だと言いますから、やはり「善悪の知識の木」の実を食べたように聞こえます。「命の木」の実はどうやら食べていない、と見受けられます。
女は夫にもそれを与えます。二人は「善悪の知識」をもつようになり、裸であることを恥じます。神の足音を感じる戸、二人は木の間に実を隠します。神は人に声をかけます。「どこにいるのか」(3:9)――私はかつて、この声によって神の前に呼び出されました。いえ、引きずり出されました。そこから人生が決定的に変わったのです。私にとり、常に突きつけられている神の言葉です。
この木の実のことでひとつには、人が恐らく自分というものを意識したのだと私は理解しています。自分とは何か。自分はどこから来て、どこへ行くのか。ひとが、青年期に恐らくきっと問うであろう、あの自己意識です。
こうして人は楽園から追放されることになりました。失楽園です。皮の衣云々については、いまは問いません。むしろ、次の点に注目します。
22:神である主は言われた。「人は我々の一人のように善悪を知る者となった。さあ、彼が手を伸ばし、また命の木から取って食べ、永遠に生きることがないようにしよう。」
ここにある「我々」についても、よく問題にされますが、それもいまは問いません。どうやら二人は「善悪の知識の木」の実を食べたのであって、まだ「命の木」の実は食べていないわけです。そちらも食べてしまってはいけない、と神は懸念しています。「永遠に生きることがないようにしよう」と神は決めています。
人が「永遠に生きること」を、神は許さなかったのです。だから、旧約聖書を拝するユダヤ人は、そこで「永遠の命」ということを問題にしませんでした。しかし、その後キリスト教徒の信仰を記した新約聖書では、永遠の命が欲しいとか、永遠の命を受けるとか言っています。
私たちはしばし、そこに焦点を当てて、神の声を聞きたいと願います。
◆金で救いが買えるのか
「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」(マルコ10:17)などというように、新約聖書では、イエスに向けて問う者が現れます。そこには、神から与えられた律法を守れば永遠の命が与えられる、と考えたい前提が感じられます。分かりやすい論理だと思います。けれども、この辺り、実は決して単純な筋道ではありません。本当にそれを考えるならば、律法を守ればよいということになりますが、その陰に、逆に律法を守れない人は永遠の命とは程遠いという措置があると言えるでしょう。
律法を守れるというのは、生活に余裕がある人なのかもしれません。また、律法をよく理解する教養がある、ということも含まれるでしょうか。だとしたら、教育を受けられる環境にあったからこそ、永遠の命を受けることができたる、というのでしょうか。
高い教育を受けるためには経済力が必要。それはいまもそうでしょう。子どもたちの中には、食べるものにさえ不自由している子がいます。数人に1人の割合でいる、という調査もあります。お金がなくて大学に行けない、という話は、いまに限らず近代日本ではいつでもある話です。
「螢雪の功」という言葉もあるように、清貧から学問を志して出世した、というような美談も伝わります。ただ、それは稀だったからこその美談なのです。NHK朝の連続テレビ小説「らんまん」の主人公は、生まれながら、実家が酒蔵で金回りの良さがあったために、学ぶ機会に恵まれたように描かれていました。小学校もまともに出ていない、ということでしたが、よく見ると読み書きに不自由はしていないし、英語の能力はピカイチでした。植物など細かいものへの観察眼と画力にも恵まれていましたから、これは正に教育環境の良さを物語っているのだと言えるでしょう。問題は学歴ではないのだ、ということだけがそこから言えるのであって、経済力と教育環境との関係は、肯定せざるをえないような描き方となっていました。
神の国に入るには、家柄や財力が必要である。そのような常識が、当時あったものと思われます。このような条件で神の救いを考えることは、本来旧約聖書にはなかったことではないか、と思います。それがイエスの時代になるときに、いつの間にかそうなった、ということなのかもしれません。
◆旧約聖書の永遠の命
旧約聖書。確かにそこでは「永遠の命」を話題に挙げているようには思えません。エノクやエリヤのような特別な描かれた方をした人もいますが、基本的に、「永遠の命」についての関心はないし、表現も殆ど見られません。唯一それに触れていたのは、申命記の次の箇所です。いわゆる「モーセの歌」と呼ばれる、モーセの遺言にあたる長い歌の一部です。
私は手を天に上げて誓う。/『私はとこしえに生きる。(申命記32:40)
「私」というのはモーセのことではなく、「主が言われる」とモーセが代弁している形をとっています。新共同訳ではここは、「わたしの永遠の命にかけて」と訳してあり、この「永遠の命」は、主である神のもつものであることがはっきりしています。
預言書というか、旧約聖書の黙示録のような役割を果たしているダニエル書には、人間の側について、「永遠の命」への言及があります。
地の塵となって眠る人々の中から/多くの者が目覚める。/ある者は永遠の命へと/またある者はそしりと永遠のとがめへと。(ダニエル12:2)
「終わりの時」についての幻が続く場面です。ダニエル書というと、その前半は、信仰に立つダニエルとその友人たちの奇蹟の物語があって、信徒は頼もしく読むものですが、後半は幻想的であまり好んで読まれないように見えます。ここに、このメッセージが告げられると、それを封じておくようにダニエルは命じられていますから、ヨハネの黙示録はこうしたところを範として書かれたと推測できます。
しかしこういうのは、例外的な感じがします。とはいえ、ダニエル書は、書かれた時代としてはずいぶん後のほうだと見られていますから、それと近い頃に書かれた「旧約聖書続編」も参考になります。というのは、続編の中には、永遠の命を望む考えがちらほら登場するからです。逐一挙げることは控えますが、まず「知恵の書」から引用します。
しかし、正しい人たちは永遠に生きる。/彼らの報いは主の内にあり/彼らはいと高き方の配慮にあずかる。(知恵5:15)
そして、あまりに残酷なので引用をためらいますが、マカバイ記第二で、7人の息子たちが棄教を迫られ次々と命を落としていく場面に、はっきりと永遠の命についての希望が記されています。シリアの王アンティオコスの目の前で、拷問を一人ずつ受ける場面です。
息を引き取るばかりになって彼は言った。「悪人よ、お前は我々を今の生から解き放つが、世界の王は、ご自身の律法のために死ぬ我々を、命の永遠のよみがえりへと復活させてくださる。」(マカバイ二7:9)
今や我々兄弟は、永遠の命のために、つかの間の苦痛を耐え忍び、神の契約の下に倒れた。だがお前は、神の裁きによって、尊大さに対する正当な罰金を支払うこととなる。(マカバイ二7:36)
こうして、やがて新約聖書の時代に入っていくのです。キリストなるイエスが現れる頃には、一般の人々も「永遠の命」を求めていた様子が少し分かります。
◆ユダヤ人のことなのか
もちろんイエスの旅の中で、あるいはその説教の中で、永遠の命については幾度も触れられています。同じヨハネによる福音書には、聖書のエッセンスが一言に詰まっているとして、3:16は、信徒の誰もが暗誦していると言われています。
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(3:16)
これを原理とすることは当然だと思います。しかし今日は、エルサレムでの一つの場面に身を置くことにします。それは、神殿奉献記念祭。いま「ハヌカの祭り」と呼ばれ、ユダヤでは12月に守られています。バビロン捕囚から戻ったユダヤ人たちが、小規模ながら神殿を再建しました。ただ、その後ヘレニズム文化が支配的になる中で、神殿は異教のものとなりました。旧約聖書続編マカバイ記に記された戦いを通してユダヤは独立を実現し、その季節を以て、この記念祭としました。
つまり、非常に政治的な意味をもつ祭りです。その後ローマ帝国は、一定の自治を認めていましたが、信仰に立つユダヤ人たちは、決して面白くは思っていなかったことでしょう。そのユダヤ人たちが、エルサレムに集まってきます。イエスは、ソロモンの回廊を歩いています。イスラエルの王ソロモンの時代のものが一部遺っていたのでしょう。高い柱に支えられた通路が、異邦人の庭に面していました。この騒動を異邦人が目撃したようには思えませんが、比較的広い場所が見える中、屋根と柱に囲まれて、閉鎖的な空間に感じられたかもしれません。
24:すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。「いつまで私たちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」
いったいおまえは本当にメシアなのか。それならそうと言ってくれたら、対処の仕様があるのに、というところでしょうか。しかし、どうやらそうとは信用していないからこそ、こうした態度に出たようにも思えます。
イエスはまともに答えます。すでに言っているのに、ユダヤ人たちは信じないではないか。このとき、読者の中には、不思議な感覚に襲われる人が現れることでしょう。場面としては、イエスがユダヤ人たちに向けて告げているのですが、まるで自分がそう問われているように感覚することが、ありませんか。
25:イエスはお答えになった。「私は言ったが、あなたがたは信じない。私が父の名によって行う業が、私について証しをしている。
26:しかし、あなたがたは信じない。私の羊ではないからである。
まるでユダヤ人だけが排除されているかのようです。もしかすると本当にヨハネはそのような意図でここを書いているのかもしれません。あるいは、当人は意図せずして、そのような様子を後世に遺してしまったということなのかもしれません。そうして人類は、否キリスト教は、そのうわべだけを見て、ユダヤ人を憎むように暴走していったとすれば、悲しいものです。
しかし私は言います。いまこれを読む私、これを聞く私が、態度を決めよう。聖書はこのように記したのであり、それを私は伝えられました。イエスがキリストであるのだ、と福音書は最初からずっとあなたに告げてきたではありませんか。私はここまで福音書を読んできました。いまさら、まだ信じないのか、まだイエスに従おうとしないのか、そんなことを言わせてはならないことを痛感させられるのです。
27:私の羊は私の声を聞き分ける。私は彼らを知っており、彼らは私に従う。
あなたはイエスの羊なのか。だったら、この声が聞き分けられるはずだ。イエスはあなたを知っている。深い交わりをする。主の羊は、主に従うものなのです。
◆永遠の命を与える
28:私は彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、また、彼らを私の手から奪う者はいない。
イエスの声を聞き分け、イエスの言葉を受け容れる羊たち。そこにこそ、永遠の命を与えるのだ、とイエスは言いました。「与えよう」でもないし「与えたい」というのでもありません。過去や未来など時間的に限定された形ではない、言い切りの形での「与える」です。それは普遍的な真理を表わすときに使う現在形です。これがメシアつまりキリストによる宣言です。この羊たちに、永遠の命を与えることを、神は明言するのです。
読者として、私は、それの聴き手としてあなたは、どう思いますか。メシアならはっきり言ってくれ、などとイエスに迫りますか。はっきり言われないと信じないという姿勢は、信仰とは呼べないでしょう。神がいるなら証明せよ、という声がありますが、証明されたならば、それはただの現実です。決して信仰ではないし、人は心により生きるのではなくて、自然法則の中で機械的に生きるだけのものになりかねないことになります。
イエスに「従う」、それは一つの「行い」です。こうくると、「行い」が大事か「信仰」が根本なのか、という二者択一に陥る人がいます。「行い」によって救われるのではない、とするのがプロテスタントのグループが引き受けた原理です。それがためにルターに従う者たちは、かつてのカトリック教会から分離したのです。
「永遠の命」が「救い」によりもたらされるものであるなら、それがもし「従う」ことに基づくというのなら、それは「行い」によることになるかもしれません。「行い」によると、というのはプロテスタントがひどく嫌う場合があります。けれども、「行い」であれ「信仰」であれ、実は殆ど同じ側にあるのではないか、という気がしないでしょうか。それらは対立するものではなく、同じ側で待ち受けるものだ、と。さして違わないことではないか、私はそんな気がしています。キリストの教えは、そんなちゃちな二元論で対立するようなものではない、と思うのです。
◆永遠の概念
さて、ここで一旦、腰を据えて見つめてみましょう。「永遠の命」というときのその「永遠」とは何でしょうか。考えを深めるといくらでも深くなりそうです。広めようとすればいくらでも広めることができそうです。しかし私たちは、哲学的にそれを定義しようとか、究めようとか考えているわけではありません。確かにこれは聖書から、つまり信ずる者からすれば神から語られたという言葉です。聖書に登場する人々もまた、この永遠を求めていました。あるいはこれを信じて、勇敢に戦いました。悪に負けず、神を見上げて神とつながろうとしました。
また、永遠の命を信じる、その「信じる」ということの意味をも、私たちは考える必要があるのでしょう。しかし、その意味を考えようにも、聖書はあまりにも大きい世界です。イエス・キリストの業をすべて記そうとすると、この世界の書物を全部集めても収まりきれない、というのがヨハネによる福音書の結びでありましたが、それほどに聖書の世界は、この掌に抱える書物ですべて収まっているとはとても言えないものです。だからまた、考えようにも、その考えるために必要な時間は、とうてい人が一生をかけても足らないでしょう。考えた上で語るとなると、なおさらできないことでしょう。
しかしいまは、キリスト教会と言いながらも、この「永遠の命」を信じない人が聖書から毎週「説教」を語っているようなところもあります。死んだ者が復活するというのは信じられない、ということを殆ど告白するような説教者も、いないわけではありません。さらに、復活はあるのだろうが、私たちの思い浮かべる復活とはずいぶん違うのではないか、と説明したがる人もいます。たとえば、いまこの時が永遠なのだ、いまの中に含まれるような意味での「永遠」というものに気づいたとき、死はただの死ではなく、復活したことになる、というように説明をしようとする場合もあるでしょう。時間的な永遠という理解を諦めて、なんとか合理的に説明ができるように工夫するわけです。もちろん、その逆に、永遠に神を賛美することが続くのだ、と、黙示録の情景をそのままに信じている人もいます。そのどちらがどうなのだ、ということを、私が一刀両断に決めるようなことはできません。
結局、「永遠」の意味も、「信じる」ということの深みも、何もここでは決定することはできないままに、このメッセージを終えなければなりません。それはいつか神が明らかにする日まで、誰にもきっと分からないのです。それだから、それぞれの人が、強く願い、求めるところに留まるべきなのかもしれません。しかし、問おうではありませんか。願おうではありませんか。心にじっと懐いておくのです。抱きしめるのです。
確かに、人の心の中に永遠に生きることを願う場合もあります。ほかの人の心の中に生きている、というようなことは、葬儀の席で、あるいは追悼のメッセージで、よく言われることです。誰からも忘れ去られてしまったら、本当の「死」が訪れるのだ、というような考え方は、親しい人の死を知った者たちが、互いに頷き合う風景を呼び起こすことでしょう。先日も、谷村新司さんの死に対する、アリスのメンバーのコメントが、それを物語っていました。
もういないんです。悲しいというより悔しいんです。
谷村はもう僕たちのみんなの心の中にしか住む場所がないのです。
思い出せば必ず胸にやってきます、どうか谷村を忘れないで下さい。(矢沢透)
◆永遠の命
再び創世記を開きます。
22:神である主は言われた。「人は我々の一人のように善悪を知る者となった。さあ、彼が手を伸ばし、また命の木から取って食べ、永遠に生きることがないようにしよう。」
創世記は、まるで人に呪いをかけたような言い方をしていました。神を裏切った二人の人は、楽園を追い出されました。神のそばから追放されました。命の気に至る道へは、もう入れないように塞がれました。
神から離れ、神との関係を断たれた人間は、人間の歴史を刻んでゆくことになりますが、神は不思議と、その後も度々その歴史の中に介入してきます。それで人間が従順になったかというと、必ずしもそんなことはなく、手を差し伸べた神に対して、人間は背を向け続けるのです。
そのため、神はついに独り子を遣わしました。キリストとして、人間という形で遣わした、イエスでした。そのイエスがここで、「永遠の命を与える」と告げたのです。イエスがここまで言うのであれば、あの命の木に至る道が立ち入り禁止ではなくなることではないのでしょうか。イエスを通って父なる神の許に行く、という道ができるのです。イエス自身が、限りない痛みを通して、道となるのです。
イエスの十字架を経てのことです。イエスの名を通して祈ったならば、私たちは、イエスの救いの贖いを受けて、神の国に立ち入ることが許してもらえるのではないでしょうか。
どうにも都合の好い、勝手な解釈かもしれません。教義にはそんな考えはない、と言われるかもしれません。イエスの救いを信じるか。信じるとすればどのように信じればよいのか。それは、一人ひとりの問題です。だから、あまりに教科書的な教義というものについては、私は必ずしも首肯しません。まさにこれは命の問題だからです。
創世記という、歴史の初めにおいて、神は「永遠に生きることがないように」と人を追放しましたが、その後も人間との関係をつなごうと努めてくださいました。そこでは数々の契約が交わされました。神自身の誓いのようなものがありました。人間における歴史の中で、それは人間の失策により度々書き換えられてきました。しかし、新約の時代になり、イエスの登場によって、救いの書は、大いに書き換えられるようになりました。旧約聖書から、新約聖書へ、新しいニュースが届けられるようになった、そうキリスト者は理解しています。
人が永遠に生きることがないように。そう告げた創世記から始まって、いま遂に、彼らに永遠の命を与える、というところまで連れてきてもらいました。
27:私の羊は私の声を聞き分ける。私は彼らを知っており、彼らは私に従う。
28:私は彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、また、彼らを私の手から奪う者はいない。
その声を聞くのです。いまなら聞こえるのです。イエスの声を聞き分けて、イエスに従って行くのです。そのときイエスは私たちと交わります。そこに姿が見えないとしても、霊的な交わりができるのです。私たちは死ぬかもしれません。けれども、決して滅びません。私たちをイエスの愛から引き離すことのできるものは、何もないのです。
愛は決して滅びない。(コリント一13:8)
パウロの「愛の讃歌」で高らかに宣言されたことは、いま「永遠」という言葉につながろうとしています。私たちはイエスの愛の中にいます。神の愛によって生きています。神の愛が、一時的なものであるはずがないのです。信じることを、求めようではありませんか。生きることを求めようではありませんか。
イエスの羊となりましょう。イエスの羊に、永遠の命を与えると言ったのです。確かに、イエスが言ったのです。その言葉が、あなたにも聞こえています。私たち皆に、いま聞こえています。
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