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大きなキリスト

第一コリント書の最後の16章は、些か落ち着かないところがある。直前でまとまった復活論を述べた後、慌ただしく募金をも話題にし、だったら私もまた行くぞというようなことを言うと、これからの予定やテモテなどについて急いで告げる。それから、今日開かれた箇所を唐突に挟むと、最後は大勢の人の名を挙げて、挨拶を送るのである。その、唐突に現れたのが、次の言葉である。13~14節である。ここでは、少し言葉を換えている。
 
  目を覚ましていなさい。
  信仰に基づいてしっかり立ちなさい。
  雄々しく(振舞いなさい)。
  強くありなさい。
  何事も愛をもって行いなさい。
 
新年度、これら5つのパウロの命令のうち、最後のものを主軸にして、教会の指針が語られることとなった。
 
中継の事情で、説教の最初のほうが聞き取れなかったため、本稿では説教の一部始終をご報告することはできない。しかし、間もなくなんとか聞ける状態となったため、説教を大きく損傷することなく、受け取ることができただろうと考えている。
 
今日私たちに示されたイメージは、「大きなキリスト」であった。聴く者の脳裏に、共通して描かせるイメージというものは、大切である。もちろん、説教のどこから、あるいは朗読された聖書箇所のうちどの言葉から、その個人が神の言葉を聴くかということは、個々人違いがあるだろう。誰もが同じように説教を受け取る必要はない。ただ、同じ説教であれば、そこに思い描かれる幻には、何かしら共有できる部分があるものだろうとは思う。
 
それでこそ、「教会」と言えるのだ。そう、年度初めのこの礼拝において、私たちは「教会」というものを意識しなければならないのだと言える。日本は、かつてのローマ帝国もそうだっただろうが、この春の時季を、ある意味で一年の初めとする。そして新たな環境での生活を、多くの人は始めることとなる。仕事に、学びに、新たな気持ちでスタートを切るのだ。教会もまた、これから一年間を見つめながら、共に歩み始める機会をもって然るべき、とするのである。
 
そのとき、何か軸が要る。皆がさしあたり指させるようなひとつの幻が与えられるということは、その教会にとって確かな基盤となり得るものである。私は、勝手にではあるが、この「大きなキリスト」が、今日、この礼拝につながる人々の中に与えられた幻ではなかったか、と思っている。
 
新共同訳は、日本で初めての(試験的な「共同訳」をここではカウントしていない)、カトリックとプロテスタントとの共同訳という点が画期的だったほかに、固有名詞の改変など、大胆な改訂があった。そのひとつに、やたらと「キリストに結ばれて」という日本語が登場したことがある。特にカトリックの提言であったものと思われるが、「結ぶ」と訳されるべき語は、そこにはない。英語だと恐らくほぼ「in」に相当する語があるだけである。そこで聞き慣れた訳としては、このフレーズは、「キリストにあって」であった。これは口語訳・聖書協会共同訳、そして新改訳でも共通である。だが、新共同訳には、「キリストに会って」というフレーズは皆無なのである。
 
「結ばれて」の意味合いが全くない、とは言わない。だが、英語では「in」に相当する前置詞を、「結ばれて」の意味だけに限定してしまうのは、さすがに無理があったと思う。「イエズス」を「イエス」にしてしまったなどの背景から、カトリック側の筋を通したのではないか、と勘ぐられても仕方がないだろう。
 
だが考えてみれば、「キリストにあって」も、いったいどういうことなくか、理解するに難しい訳であるかもしれない。「in (the) church」を私たちは、「教会にあって」と訳すことはない。「in the world」を「世界にあって」と訳す勇気は、私にはない。ここは、何か信仰的なものを盛り込んでいる、というのであれば、「キリストに結ばれて」も「キリストにあって」も、そう大きな違いはないのかもしれない。
 
そこで、というわけではないが、説教者は、これは「キリストの中で」という言葉でイメージを与えることにした。「教会の中で」「世界の中で」なら、十分訳としてあり得るだろう。ならば「キリストの中で」であってもよいのではないか。実に英語で「in」ならば、その内部にあることを示すニュアンスが中心であるはずである。
 
私たちは「キリストの中で」生きている、あるいは生かされている。つまりは、私たちよりも、必ずキリストの方が大きいのである。キリストが凡ゆるものを包んで中に有っているが故に、キリストは、すべてのものよりも大きい、というイメージをもっても、悪かろうはずがない。
 
さて、コリント書のこの前の箇所で、献金ないし募金のことが挙げられていた、と先にお伝えした。説教者は、この点からも、豊かなイメージを与えていた。災害が起こったときに、ネットで送金援助ができる、こんな時代をパウロが知ったらひっくり返ることだろう。様々な危険を抱え、長期間をかけて金銭を運ばなければならなかった時代、運ぶ金額も決して少額ではなかったことだろう。実際福岡から東京までの距離を運ぶという物理的な距離のみならず、精神的に覚える距離感というものは、想像を絶するものがあったことだろう。
 
しかし、パウロも当初の下っ端生活の中で、そういう役目を背負っていた。また、これからも行く気があるのだ、と告げている。パウロはこうして、教会をもつないでゆくのだった、と説教者は教えた。こうした教会それぞれが、「キリストの中で」存立し、つながってゆく。それほどにまた、キリストは大きいのである。
 
パウロは伝道旅行を複数回したという。その都度、立ち寄った箇所箇所で、仲間に会ったり、仲間をつくったりしている。細々とした形であったかもしれないが、教会のネットワークができてゆく。パウロという共通項をもつ教会共同体が、地のそこかしこに建てられてゆく。
 
そのつながりの帯こそ、愛にほかならない。キリストの愛、それがキリストを伝える者たちの中に生き働くようになる。そうでなければならない。口先で聖書をいくらお勉強して説明しても、やかましい銅鑼は愛の声ではない。説教者は、身近な宣教師や小さな群れの教会を挙げ、ここに愛がある、と掲げた。それは、キリストが共にいるのだ、ということの証明でもあった。
 
ところがここに、あの中心聖句において、別の形で「~の中に」があることを提示する。
 
  何事も愛をもって行いなさい。(16:14)
 
ギリシア語の一つひとつを対応させて示すと、「あなたのすべてのこと、愛の中で、あらしめよ」とでも言えばよいだろうか。そう、「キリストの中で」のときと同じように、ここでも「愛の中で」という言い方がなされているのである。これを、聖書協会関係でも新改訳でも、皆「愛をもって」という日本語で訳出しているのだから、訳としては定着していると見てよいであろう。
 
しかし、「あなたのすべてすることは、愛の中にあるようにせよ」と仕切り直して受け止めるのもよいのではないか。この愛とは何であろうか。人間が、力んで「愛だぞ」と叫んでいるのとは違うはずだ。同じパウロが、同じ手紙において、「愛の讃歌」を高らかに掲げたことを、私たちは忘れていない。「愛がなければ」すべては無なのだ。だが、この愛なるものは、「私は愛の人だ」などというふうには口が裂けても言えないものなのだった。
 
愛がなければ無意味だ、としながらも、私の中には愛などない、ということを認めるしかない。このパラドックスは、私自身が無意味であることで解消される。つまりパウロの言い方を使うならば、罪に死んだ自分には愛などなかった、ということになる。しかし「ここに愛がある」とヨハネの手紙で叫ばせたのは、実にイエス・キリストのことであった。
 
「愛をもって」と訳したものは、「キリストの中で」と、全く同じものなのであった。あるいは、もう少し説明的に言うならば、それは「神の愛の中で」というふうに理解してもよいかもしれない。
 
説教者は、ヨルダン川を渡るヨシュアの姿をここで示した。人が決めた境界線で計算ずくのプランしか考えないことはやめよう。目を覚ましていよう。しっかり立とう。神を信頼すれば大丈夫だ。神は何をなさるか、期待して見つめよう。勇気をもち、強くあれ。――これらは、個人へのメッセージであってもよいのだが、そこはこの礼拝、「教会」という共同体へのメッセージの意味合いが強い。「教会」宛の言葉として、もう一度数行だけ読み返してみて戴きたい。それが、この説教がもたらす、神の言葉であり、それを現実化しようとわくわくしている神の思いの現れなのである。
 
ここにある教会は、小さな群れに過ぎないかもしれない。けれどもそこでも、この新しい時を迎える中で、新しい人々との出会いがあるだろう。それは、大きな大きなキリストの中での出来事である。キリストに包まれて、頑なになるのではなく、神の与える自由に任せるようでありたい。キリストの、また新たな姿を見出すような歩みが、私たち一人ひとりに用意されていると信じたい。
 
説教者は説教を結ぶにあたり、祈りの中で、「天にまします我らの父よ」とイエスが教えた主の祈りに注目していた。「我らの父」というその「我ら」とはいったい何者であるのか。これを各自が問うことによって、この礼拝説教の目的は達成された、と言えるのかもしれない。全く自分などとは比較になる要素がないほど、大きなキリストの中で、おまえはいまどこにいるのか。私はささやかに、そのような挑戦を受けていた。

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