見出し画像

宣教と神の真実

復活のイエス・キリストの物語は、まだ終わらない。――説教者がまず発した言葉は、説教の姿勢を端的に伝えていた。これだけで終わっても、説教としては十分だっただろう。キリストの復活の物語は、いまこうしてこの教会で語るところに続いているし、それを聴く者においても続いている。イエス・キリストはいまここで生きている。信じる私たちと共にいる。
 
その言葉の含みもつ福音は、まだしばらくはこの主日礼拝の中で輝いているように仕掛けられていた。まずは、説教者自身の証しが展開された。時に、説教者の人間味を説教で出してはいけない、と教える説教学のテキストがある。私は必ずしもそうは思わない。常にそれでいてよいとは思わないが、それが全くない説教者の場合、偽りを語っている可能性があるからだ。
 
「主イエス・キリストに出会って、変えられたのです」と、説教者は言った。この、ごく基本的な言葉は、実は重大である。説教者としてのみならず、信徒として、つまりキリストの弟子としての、最低条件だとも言えるからだ。
 
韓国で生まれた説教者は、告白する。「かつて、いろいろな夢をもっていた」と。身寄りの無い子を育てる施設で働きたい。ひとの命を助ける看護師。学校の先生にも憧れた。図書館の司書にもなりたいし、旅行にまつわる仕事も好きだと思う。だが、「主イエス・キリストに出会って、変えられたのです」と、説教者は言った。イエス・キリストの救いを伝えたい、と日本に来た。だから、それまでの「夢を捨ててきた」のである。それほどに、イエス・キリストとの出会いは、決定的な出来事だったのである。
 
こうした経験から、復活のイエスに出会った弟子たちの新しい歩みにも、説教者は共感を示す。但し、それは当然のことのように進んだのではなかった。なにせ、尊敬する師が死刑囚となり、裁判即無惨に殺されてしまったのだ。それまで、王国をつくるという期待をこめてついてきていたのに、その期待は一日にして絶望に変わったのだ。そうして、彼らはガリラヤに帰って行った。
 
だがそこで、イエスに再会した。不安も疑いも恐れも、皆吹き飛んだことであろう。神は、人間の歴史の中に、新たな世界への見通しをもたらした。弟子たちは、今後の世界をこれから変えてゆく「使命」を受けたことになる。それは、すべての民を弟子とすることであった。マタイ28章の終わりの、いわゆる「大宣教命令」が開かれている。
 
28:18 イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。
28:19 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、
28:20 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
 
ここから説教者は、3つの注目点を見出す。
 
まず「行って」ということ。すべての民のところに行け。それは、「異なるものを退けない」というテーゼを含んでいた。いくつかの聖書箇所がここで参照され、新約聖書が盛んに、イスラエルの外へ福音が届けられるべきことを指摘した。イスラエルという特殊に於ける救いの知らせは、全人類の救いのためという普遍的なものに展開してゆくのだ。
 
いまや、信じる者すべてに救いはもたらされる。ならば、この救いを受けた私たちもまた、いまここから「行く」のだ。「出て行く」のだ。
 
この教会では、教会堂に来ることが難しい人のところへは、牧師が訪ねて行く。そしていまならばイースターのための聖餐を、それぞれの家で行う。「訪問聖餐」と呼ぶことは、かなりの労力を伴う。コロナ禍において、リモート礼拝を続ける人も少なくない。また、信徒が何百人単位を数えるとなると、訪問聖餐は、口で言うほど簡単ではない。だが、牧師自ら「出て行く」ことを怯まない。
 
イエス・キリストと出会った者は、口先だけで愛することについての戒めを忘れることがない。
 
次に、「弟子にしなさい」を説教者はイエスの命令から聞きとる。韓国の教会では、弟子教育に力を入れていという。弟子たるものは、生まれ現れるものではなく、つくられるものだ、という自覚があるのだ。そこには学びがあり、訓練がある。だからこそまた、私たちは弟子となり、弟子として鍛えられ、育てられなければならない。私たちは確かに従う者へと変えられてゆくのである。
 
最後に、「洗礼を授け」に注目する。それは、ひとつの儀式であるかもしれない。それを受けた瞬間に超能力を獲得するわけではない。だが、それ故に必要ない、などと言うならば、入学式も卒業式も何も要らないということになる。結婚式も、葬式もすべてなしですますべきである。キリスト者は、キリストと出会ったときに、人生が変わる。しかしそれをまた、仲間に対して明らかにするためにも、ひとつのけじめが必要とされてよいであろう。
 
洗礼により、ひとは新しい命に生きることになる。神との新しい関係に入ることになる。プライベートなその瞬間は、それはそれで大切にするがいい。だがまた、教会という共同体において、「共に」新しい命の道を歩む者となるには、大切な「証し」ともなるだろう。
 
それは秘密裏になされるべきことではない。イエスの教えもまた、秘密結社の合言葉なのではなく、弟子からまた次の弟子へと伝えられ、その都度広められてゆくべきものなのだ。
 
神は私たちの働きを、楽しみにしておられるかもしれない。次はどうなるか、見守っているはずなのだ。あるいは、ハラハラしながらそうしているかもしれないし、もしかするとご立腹なさっているかもしれない。これはどういう肩書きであれ、キリストに出会って変えられたキリスト者であるならば、誰もが与えられている使命である。
 
ただ、説教者のように、この宣教をこの世でのメインの仕事として授かり召された人々には、少しばかり異なる責任感が伴うのは当然であろう。自分の一挙手一投足が、神の言葉が伝わるか、救いが生じるか、に大きな影響を与えるのだ。それを思うと、武者震いするかもしれない。しかしそれは、よい意味での緊張となるだろう。信仰の戦いの武具は十分備えられている。それは殺戮の武器ではない。愛で融かす道具となることだろう。
 
そのために、宣教者は、「約束」というものを与えられている。イエスは、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と言ったではないか。その言葉にすがりつき、楯として掲げるがいい。ここから出て行き、弟子をつくり、救いをもたらすのだ。
 
説教者は最後に口走った。「宣教者には定年はない」と。残された人生を、この使命のために駆け抜けてゆく覚悟を、そこに見た。
 
さて、このメッセージに、私の妻は同じ女性として、鋭い反応を最初から示していた。説教者は「夢を捨ててきた」と言ったが、「いや、そうじゃない、と伝えたい」と妻は言うのである。
 
孤児ではないが、教会学校で子どもを育てているではないか。病気の人を訪ね心を癒やす看護をしているではないか。もちろんこうして牧師として教える先生をしているではないか。本を読み、本を薦める司書に値することもしているではないか。あちこち人を訪ね、時に聖餐のためにすら遠くに出かけているではないか。
 
もし、そのうちのどれか一つの仕事に就いていたら、たくさんあったその夢のうち、その一つのことしかできなかっただろう。だが、牧師となったが故に、そのすべての夢が叶えられたのではないか。神はかつての夢を潰したのではない。そのすべてを叶えたのだ。説教者は、その夢を「捨てた」のではない。捨てた石は、アーチを完成し支える要石となったのだ。
 
神は真実なお方である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?