見出し画像

一見擬人法だが

詩編114:1-8 
 
詩の技法として、擬人法と呼ばれるものがあります。人間ではないものを、恰も人間であるかのように描写することです。果たして技法という捉え方をしていたかどうか、聖書の表現は判断ができません。イスラエルの詩人は、自然がまるで人のように行動する様を描いています。否、そもそも自然と現代人が呼ぶものとそれは同じなのかどうか、不明です。
 
動植物は共に生きる同志であったかもしれません。岩石ですら、人間との対立者のようには見ていなかったかもしれません。人間という把握そのものも、私たちとは異なっていたのではないでしょうか。あるのは「イスラエル」という括り。神の民が特別な存在です。「聖なる」というのは、ただ「イスラエル」という区別された意味でしかないのです。
 
違う言葉の民、即ちエジプトから脱出すると、途中の40年はもはや直接的な意義はなく、ユダとイスラエルの土地が主の民のものとして、今に至ることを詩人はまず挙げます。ここからです。海は逃げ、川は後ずさりします。山も丘も跳ね踊ります。「イスラエル」なる民がこの地に導かれて主の民としてそこにある時代となりました。
 
このように地と海とが驚異的な動きを見せるとなると、この民自身が目を見張ります。いったいおまえたちはどうしたのか、と。さあ、地よ、主の前で身悶えせよ。もはやおまえは、自分の意志で自由に振舞うことはできないのだ。岩だったところは地となり、泉と化してしまうであろう。神にとっては、それは簡単なことでしかありません。
 
人には不可能でも、神にはできます。擬人法のように語り、自然がみずから行動するかのように表現しておきながら、実はこれは、すべてを創造し支配する神が変えているのだ、というところに、詩は落ち着いてゆきます。結局、神が変えるのです。神こそが、全存在の創造者であり、主人である、ということでしかなかったのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?