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我らを試みに遭わせず悪より救いいだしたまえ (マタイ6:13, ルカ11:4)

◆国と力と栄え

私たちを試みに遭わせず
悪からお救いください。(マタイ6:13)
 
今日はいよいよ「主の祈り」の最終回です。ところが、教会で礼拝の中で称える伝統的な「主の祈り」は、ここで終わりではありません。付け加えられた締め括りがあります。
 
 国と力と栄えとは
 限りなく汝のものなればなり
 
これは福音書の本文にはありません。ではどこでこの締め括りが付いたのか、というと、その文は、新約聖書とは別の文書にあるものが使われた、と言われています。どうやら、「十二使徒の教訓(ディダケー)」というものにあるものがそれだ、と言われています。それが最初に記されたのは、福音書が書かれた時期とあまり違わないようです。
 
この「十二使徒の教訓(ディダケー)」は、邦訳でも文庫(講談社文芸文庫)で手に入ります。短い文書ですので、機会があったらお読みになるとよいでしょう。ちょうど中央の辺りにあります。文書自体は比較的近年になって(19世紀)発見されたのですが、新約聖書とその背景を理解するためにも、なかなか味わい深いものがあると思います。
 

◆試み

私たちを試みに遭わせず
悪からお救いください。(マタイ6:13)
 
まず前半の「試み」という言葉に注目します。「試」という文字を見ると、私はどうしても「試験」という言葉を思い浮かべます。「テスト」です。「どうかテストしないでください」というふうに読んでみると、何かが具体的に迫ってくるような気がします。「テスト」という読み替えは大胆かもしれませんが、そのように読んでみると、気づかされることがあります。
 
テストには、「正解」が必ずあるのです。問題の解決が必ず定まっており、採点者がマルかバツかを判定できる基準があるのです。もちろん、大学での試験にはそうでないものもありますが、いま言う「テスト」は、高校までの普通のテストです。
 
福音書が、神に祈るために提示しているこの「テスト」の正解とは何でしょうか。模範解答、というよりも、むしろ神の下す「結論」のようなものとしてイメージしてみましょうか。神がどのように「解決」してくださるのか、それを想定することにします。すると私たちは、聖書のあちこちからそれを引き出すこともできますが、なんといっても一番の「結末」は「黙示録」でしょう。これでもか、というほどに、「終わり」の姿を描いています。
 
それは時に、荒唐無稽だとも言われます。しかし、世の終わりについては、人間は誰も知らないのです。まさかそんなことが現実になろうなどとは、思わないかもしれませんが、私たちは身近に経験しています。江戸時代の人が、江戸と大坂との間を2時間半で移動できるなどとは、誰が想像したでしょうか。007の映画に出てきたような、手許から自由に通信できる手段が殆どの人に可能になるとは、半世紀前に信じていた人がどれくらいいたでしょうか。百年以上前の女性が、投票するとか議員になるとか、実現することを想像できなくても、責めることはできないかもしれません。
 
神は、信仰について、一定の正解をもっています。人間にはまだ明らかにされているとは言えないとは思いますが、それが信じられない、というような解答を私たちが出さないように、テストはしないでください、と言いたくなる気持ちが、私たちのどこかにないでしょうか。
 

◆誘惑

しかし、一般に「試み」という語が意味するのは、「テスト」というよりも、むしろ「誘惑」のほうではないかと思います。それが当然でしょう。「誘惑」にも、それに従ってしまええば一定の悪しき結末が待っているかもしれません。だから「誘惑」は、なんとか避けたいものだ、とは思います。
 
また、「誘惑」になど自分はかかるものか、と高を括っているのは、一番の問題だと言われます。詐欺にかからないさ、と笑っている者こそが、詐欺をはたらく者たちのターゲットだ、という考え方もあります。その豪語の内にある隙というものを知っているのが、詐欺師のプロだからです。
 
イエスの弟子たちのうちのトップ3が、ゲッセマネの園で幾度も眠りこけてしまったのを、私たちは嗤えるでしょうか。福音書などでの失敗例を見ると、読者として私たちは妙に優位に立ってしまい、自分の方が上だ、などと妙な錯覚を起こすことがあります。これは、世界を外から眺めてしまうという、近代的世界観にどっぷりと浸った私たちの悪しき性です。きっとそれ以前は、物語は自分がそこに登場する当事者、関係する人物であると感じていたに違いありません。その物語が現実であるとすると、自分もその現実の中にいるからです。
 
私たちは、聖書を、その本来的な読み方に差し戻さなければなりません。そうしなければ、命が注がれません。挙句、聖書を文献として批評したり、神を自分の手下のように見たりするといった、救いようのない罪に染まりつつ、なおかつそれに気づかない、という最悪の状態になりかねません。
 
さて、「試み」が「誘惑」だとしても、それを私たちが安易に乗り越えられるものだ、とは考えない方がよい、というところにまで来ました。中には信仰の強い人がいて、「この主の祈りを祈り、信じれば、誘惑には勝つことができる」と勇ましいことを言うかもしれません。立派なことです。しかし、私はそこに危うさを覚えます。誘惑に流されるのはそういうタイプではないだろうか、と。
 
私たち人間だけの力で、サタンの誘惑に勝てるとは思えないのです。イエスの助けなしには、できないのです。それが、聖書が伝えることだと私は思っています。だから、「試み」ないでほしい、と願う必要があるのです。
 
テストのように、正解がひとつあるのだ、という思い込みがあると、その正解を見つけたと確信したとたん、呑まれてしまいます。神の業にも、サタンの誘惑にも、決まった正解があるのではないのではないでしょうか。いずれにしても、誘惑を甘く見てはならないのだと、肝に銘じておきたいと思います。
 

◆誰が試みるのか

さて、一種のテストであるように、私たちは「試み」を捉えました。但しそれは、一つの正解をのみもつようなテストではないことに気をつけるべきでした。
 
その出題者は、誰なのでしょう。「試みに遭わせず」と願うその「試み」は、普通に考えると、サタンのようなものであるに違いないと思うでしょう。実際、荒野でイエスにサタンが来たときに、「悪魔の誘惑」があった、と聖書は告げています。
 
すると試みる者がきて言った、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」。(マタイ4:3,口語訳)
 
その後、これは「誘惑する者」と訳語が替わっていますが、明らかにこれはサタンです。しかしまた、最新の聖書でも、「試みる者」という訳語が存在します。
 
そこで、私も、これ以上我慢できず、試みる者があなたがたを試みて、私たちの労苦が無駄になることがないように、あなたがたの信仰の様子を知るために、テモテを遣わしたのです。(テサロニケ一3:5)
 
試みる者、それは確かにサタンです。しかし、神がそれを許容したと思しき場面はあります。ヨブ記で、主はまんまとサタンの策略に載せられたような場面を、私たちは感じざるをえないのです。サタンが主の前に来たとき、神はサタンに、ヨブはなかなか立派だろう、と自慢します。するとサタンは、それは神がヨブを幸せにしているからです、もしヨブの財産や子どもたちを奪ったら、神を呪いますぜ、と神にもちかけるのです。神は、ヨブ自身に手を出さないことを条件に、じゃあやってみろ、とサタンがヨブを惨めな目に遭わせることを許可します。実はこうしたことはさらにもう一回あったわけで、ヨブとしては大迷惑なわけです。
 
この事態には、神にも責任がある、と考えるのが、人間の倫理です。その解釈は私が決めてしまうことはしませんが、新約聖書からも、少し考えるヒントを与えられてみたいと思います。ペトロの手紙一の4:12-13です。
 
12:愛する人たち、あなたがたを試みるために降りかかる火のような試練を、何か思いがけないことが起こったかのように、驚き怪しんではなりません。
13:かえって、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ち溢れるためです。
 
「試みる」ことに対しては、キリストの苦しみに与ることだ、と呼びかけています。迫害の手が及んでいる背景に基づいていると思われますが、私たちは神から試みられるというふうにはとるべきではないことを教えてくれるものと考えます。
 
しかし、イエスが弟子のことを試みたという記事が、ないわけではありません。
 
イエスは目を上げ、大勢の群衆がご自分の方へ来るのを見て、フィリポに言われた。「どこでパンを買って来て、この人たちに食べさせようか。」こう言ったのはフィリポを試みるためであって、ご自分では何をしようとしているか知っておられたのである。(ヨハネ6:5-6)
 
明らかに、イエスはフィリポをテストしています。それでも、私たちは黙示録で、決定的な理解を迫られることだろうと考えます。イエスのテストが教育だとしたら、悪魔のそれは滅びの罠となるでしょう。
 
あなたは、受けようとしている苦難を決して恐れてはならない。見よ、悪魔が試すために、あなたがたのうちのある者を牢に投げ込もうとしている。あなたがたは、十日の間、苦しみを受けるであろう。死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう。(黙示録2:10)
 

◆悪から

ここで、「サタン」というものについて、少しだけ触れておくことが必要だと思われます。
 
それは「悪魔」なのでしょうか。こうした存在は、聖書の中で「ルシファー」や「ディアボロス」などの呼び名ももっています。こういうのは、近年はファンタジーものやゲームの中で大活躍していますから、マニアックな人は実に詳しく知っています。あらゆる伝説を調べて、蘊蓄を語る人もいますから、勉強になりますが、懲りすぎて「悪魔学」に浸ってしまうのには注意しましょう。
 
私はそうした知識はありません。冷静に説明してある本もあると思いますから、関心のある方は、知識を整理してみるのもよいかもしれません。ただ、「悪魔」の語は仏教由来の用語のようであり、芥川龍之介は擬古文を用いて「ぢゃぼ」と書いていますが、どうやらそれはポルトガル語由来のようです。ラテン語の「ディアボロス」を引いているとのこと。このように、各国語の呼び名が次々と日本語の内に押し寄せている、といまは理解しておくことにしましょう。
 
今回のテーマからすれば、いわゆる「荒野の誘惑」で悪魔がイエスと対話をする場面が際立っています。「イエスは悪魔から試みを受けるため、霊に導かれて荒れ野に行かれた」(マタイ4:1)のでした。ここで三つの「聖書の言葉」を持ち出して、悪魔はイエスを神から引き離そうとします。それぞれの解決はとても魅力があったし、味わうべきものがあるのですが、今日は遠慮します。
 
イエスは悪魔の誘いをすべて退けます。聖書の言葉によって神から話そうとする悪魔と、同じく聖書の言葉によって悪魔を退けたイエスとの対比は、たくさんのことを教えてくれます。が、三つ目についに撃退したときの一言が印象的です。
 
そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが近づいて来て、イエスに仕えた。(マタイ4:11)
 
なんだかこの辺りは、戯画的に描きたくなるかもしれませんが、基本的に私たちには見えない世界の出来事です。たとえ聖霊が鳩のように訪れようと、炎の舌となってこようとも、それは視覚的に説明してしまわないようにしなければなりません。ただ、この「主の祈り」が私たちに、「私たちを試みに遭わせないでください」(ルカ11:4)のように祈れと教えるとき、悪魔の配下に陥らないように、と神に願うことが含まれているのだ、という理解は、押さえておきたいところです。それでマタイのイエスは、「私たちを試みに遭わせず/悪からお救いください」と教えたのだと思います。
 
悪魔は、時に静観しています。人間を見て、知っています。しかしまた、悪魔を見ることができる者は、その姿を認識しています。
 
身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、誰かを食い尽くそうと歩き回っています。(ペトロ一5:8)
 
何もいないようにしか感じられない。しかしその姿は吠え猛る獅子である。悪魔を舐めてはいけません。耳が尖り、矢印状の尻尾が付いている着ぐるみのようなキャラクターなどではないのです。これが悪魔です、と名札をつけているわけでもないのです。
 

◆イエスの眼差し

イエスはよく祈った方でした。人知れず、寂しいところへ隠れ、祈っていた、とも言われています。弟子たちだけが、そのことを知っていましたが、その祈りにおいて、イエスは父なる神と結びつき、交わっていたように描かれています。
 
確かにイエスは、人を癒やすとき、その病の因である悪魔と対峙しました。悪魔や悪霊を人から追い出すことで、病を癒やしたとされています。病気が悪魔のせいだと考えられていた時代の表現ですから、現代医学とは方法が異なりますが、さて、身体がすべて化学物質で説明ができるのかどうか、それは難しいような気がします。脳の働きさえすべて物質に還元できると考えている人もいますが、それで説明し尽くせないであろうことも、朧気に感じられているような気もします。
 
イエスは悪魔と向き合うことが、なかったわけではありません。が、イエスは常に父と交わっていた、というところに目を移したいと思います。悪魔を正面から見つめるようなイエスの姿は、想像できないのです。悪魔とはまともな対話をしていないのではないでしょうか。権威を以て悪魔を叱りつけるようなことはあっても、悪魔と対話らしい対話をしているようには見えないのです。
 
ヨハネ伝では後半に、長いこと父と話す場面が記録されています。イエスは常に、たとえばあのように、父とつながっていたのだというふうに思われます。父に向き合い、父と心を通わせます。イエスは父と子とのつながりの中で地上を歩まれていたに違いありません。
 
イエスの眼差しは、悪魔の方向に固定はしなかったのだ、と思います。人間として、何か誘惑は受けたのかもしれませんが、常に悪魔よりも高い権威でそれを抑えていました。ヨハネの黙示録では、イエスは悪魔とまともに戦うことはありません。それでいて、悪しきものはついに滅ぼされます。それは、ただの空想物語でもなければ、単なる寓話でもないと思われます。
 
悪の滅亡は、「テストの正解」だったのです。
 
人間だけの力で、その解答を導くことができるのか。私はそれは無理だろうと考えます。聖書はずっと、そのように告げていたと捉えます。イエス・キリストに倣い、イエス・キリストを仰ぐことによって、イエス・キリストがその解答を現実にもたらしてくださる、そのことを聖書は語っているのだと理解します。
 
父なる神を見上げるイエスの視線を、私たちも身につけたい。イエスに倣い、眼差しをひたすら神に向けていたい。悪魔が横から何をしてこようと、そちらに目を奪われず、心が流されず、「主の祈り」によって、神とつながっていたいと願うのです。
 
◆お救いください
 
私たちを試みに遭わせず
悪からお救いください。(マタイ6:13)
 
「試み」それから「悪」について受け止めてきました。最後には、マタイだけが綴っている言葉を聞き、それを祈りたいと願います。「お救いください」という、祈りの末尾です。「主の祈り」の最後が「救ってください」と結ぶとき、それは私たちの祈りが、常に結局は「救ってください」であるべきだ、ということを告げているように思えてなりません。
 
ヘブライ語で「救ってください」を聖書では、音として「ホサナ」と表記していました。子ろばの背に乗ってエルサレムに入城するイエスに、群衆が盛んに歌い祝します。「ホサナ」という歓声です。それは、間もなく「十字架につけろ」という怒号に替わるのでしたから、私たちはその歓迎を完全に受け容れることは難しいと思います。
 
むしろ、黙示録における天の賛美のように、神をひたすら称える歌でありたいと願います。
 
確かに、私たちは「考えます」。どうして神はこのように災害をもたらすのか。神がいるなら、神が愛なら、悪人が栄えるのは何故なのか。罪もない人が不幸な死に方をするのかどうしてなのか。これに対して、牧師やベテランの信徒は答えます。「神はそれをも益にしてくださるのです」「悪人は裁かれます」「不幸な人は天国で幸せになるのです」――それはそれでよいでしょう。しかし、そのように言われて、説得される人ばかりとは限りません。そうすると、「そう信じないのは不信仰ですよ」などと言われる可能性もあります。
 
もしも私が、世界を外から見ていて、そのような現象を垣間見るならば、確かに「神はどこにいる」と言いたくなるかもしれません。しかし、私はその世界の中にいます。世界の一部です。私もまた、当事者なのです。
 
私自身気づかないままに、悪魔の誘惑を受けていることでしょう。悪魔によりつい思ったことが口から出ることもあるでしょう。相応しくない選択をしてしまうこともあるでしょう。「ああ、それは私の罪でした。悔い改めます」と言ったところで、とことんへし折られてしまうことはないものらしく、すぐにまた笑顔で立ち上がり、何事もなかったかのように人々の前で振る舞います。
 
私は常に試みられ、悪の支配を受けている。少なくとも自分ではそれをすべて明確に判断することができないのですから、そうとでも見なしておかないと、いい気になっていたら、ずるずると悪魔の手先を務めていた、ということにもなりかねません。こうしたことは、人間にはすべて見抜くことはできません。人間の理屈を通して、知ったかぶりをするのが、一番危険ではないかと思います。すべてが人間に明かされているわけではないのです。
 
主イエスが「こう祈りなさい」と教えた「主の祈り」の言葉は、私たちへのイエスからの直接的な資料です。直に与えてくださったプレゼントです。私たちの疑問も、もやもやも、「いいから祈りなさい」とこの祈りをプレゼントされたのです。
 
それは、この私を救ってください、と切実に祈った、かつてあのときの自分に戻る瞬間を経験させてくれることでしょう。ですから、この祈りのメッセージ・シリーズを閉じるにあたり、「主の祈り」を、ぜひゆっくり、共に祈りましょう。すらすらと、ではなく、たどたどしく。そう、いまは「マタイによる福音書」の通りの言葉で祈ることにしましょう。
 
天におられる私たちの父よ
御名が聖とされますように。
御国が来ますように。
御心が行われますように
天におけるように地の上にも。
私たちに日ごとの糧を今日お与えください。
私たちの負い目をお赦しください
私たちも自分に負い目のある人を
赦しましたように。
私たちを試みに遭わせず
悪からお救いください。(マタイ6:9-13)
 
イエスの教えた祈りを、祈りのためのお決まりの文句としてではなく、一つひとつ、あなた自身の祈りとして読みたいものです。あなたの祈りは、あなたが願う通りに世界を変えることにはならないかもしれません。しかし、あなたが祈れば、あなたを変えることはあるのです。

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