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スカーレット (イザヤ1:10-18, ヘブライ9:18-22)

◆読書のすすめ
 
小学校低学年から学習塾に通わせるご家庭があります。将来の受験のために、早くから、というわけでしょうが、現実にはもうこの時点で、子どもたちにはかなり学力差がついている場合があるのを目の当たりにします。学習にすいすい入っていける子と、答えが全く分からない子と、分かれるのです。
 
間違いばかりだ、という意識を植え付けないように配慮しますが、それぞれの子の心を尊重し、生かすようにもっていくのには技術が必要となります。もちろん、中学年あるいは高学年から豹変する子もいますから、できるだけ成功体験ばかりで低学年の頃はいられたらいいのに、とは思いますが、親御さんとしては、どうしても「できない」ところに目が行ってしまうのではないでしょうか。
 
途中からぐんぐんと良い方向に変わっていく子に特徴的な背景を感じることがあります。本を読む子が、そうなることが多いのです。否、少し想像を交えて言うならば、本を読み聞かせてもらっていた子だと私は思います。
 
絵本の読み聞かせ。これはとても大切なことです。これから子育てをする方は、食べることと、絵本の読み聞かせに、気を配っていくことをお勧めします。
 
2022年11月2日、松居直(ただし)さんの訃報が知らされました。京都の商人の家の生まれでしたが、周りに美術的な環境がありました。同志社大学で信仰が与えられ、福音館書店に入り、その後社長になります。多くの絵本を世に出すと共に、絵本に関する思いを各方面で訴えました。特に絵本の読み聞かせが、如何に子どもたちの心を育むものかを強く語るものを、幾冊かの本でお読みしました。それは、信仰に裏打ちされたものでもあったので、私には、より心の中に伝わってくるようでした。
 
いえ、実のところ、松居さんの主張に出会う以前すでに、何かに憑かれたように、私は我が子に絵本の読み聞かせばかりしていたのです。理論的な確信はありません。なにより、読み聞かせる私自身が楽しかったのかもしれません。時にはテレビ番組「おかあさんといっしょ」に子守をしてもらうこともありましたが、一日のどこかで必ず、絵本を息子に読み聞かせていたと思います。
 
経済的には厳しかったはずなので、絵本はさほど購入する余裕がありません。しかし、京都から福岡に引っ越してきたとき、近くに図書館があるというのが、決定的な役割を果たしていたように思います。絵本を借りまくりました。読み聞かせは無限ループのように達成されます。また、京都の職場でアルバイトに来ていた大学院生が、お子さんに、と何冊もの絵本をくださったこともありました。いくら絵本が好きだからと言って、そんなことまでしてくださるとは、全く信じられないようなことでした。
 
この影響は、後に知ります。勉強を押しつけることもなく、小学校時代はのびのび好きなことをさせていただけなのですが、息子たちはそれぞれ自ら本を読むことを始めました。そしてその後、自分の望む国立大学へと、いとも簡単に(と傍からは見えるように)進学して行きました。親としても助かりました。我が家の家計は、いつもぎりぎりのところでなんとかなるように、導かれていることを感じます。
 
◆緋文字
 
クリスチャンの方々は、読書はお好きですか。聖書以外の本なら大好き、というジョークを仰るかもしれませんね。でももっと本を読み、またお買い求め戴きたいものです。いまキリスト教書店は風前の灯となっています。ただでさえ購買層が限られているのに、その顧客たるクリスチャンが買わないとなると、書店は成り立たなくなります。
 
かく言う私も、その悪い流れに棹さすことばかりしかしていないのを、申し訳なく思います。なにぶん本が高価になりました。なんとかして古書から探すということばかり繰り返しています。それに、学生時代以降は苦手だった小説も、最近は好むようになりました。私の救いの物語のスタートは、三浦綾子さんの小説でしたから、決して小説が嫌いなわけではなかったのですが。
 
同じ小説をもう一度読むということを、よくなさる方もいらっしゃいます。私はあまりありません。が、時にどうしても読みたくなる本というのはあります。その一つに、ホーソーンの『緋文字』というものがあります。キリスト教をモチーフにした名作ですが、お読みの方も最近は少ないかもしれません。今日は、この本をひとつの要石としながら、聖書に耳を傾けようと考えております。
 
そう、説教題にご用意致しました「スカーレット」とは、「緋色」のことです。この『緋文字』の原題は、"The Scarlet Letter"と、日本語と同じ意味の語が並んでいました。もしかすると、NHKの朝ドラのタイトルかとお思いになりましたか。あれは、陶芸に打ち込む女性の熱い思いを、炉の炎の色とを重ねていたのでしょうか。
 
夫が行方知れずとなった女性ヘスターが、娘を産みます。17世紀のアメリカの村は、これに対して厳しい対処をします。姦通は罪でした。姦淫の罪を犯した女性を呼ぶ「adulteress」という言葉の頭文字「A」を服に付けて生活しなければならなくなります。しかしその父親が誰かということを、ヘスターは決して口にしません。
 
筋を明かしてしまうのは忍びないのですが、父親は、町の牧師ディムズデールでした。牧師は、真実を明かすことができないでいます。そんな折、ヘスターの夫が村に戻り、真実を感づきます。ディムズデールは追い詰められ、自らの良心と信仰に押し潰されるようにして、破滅へと向かいます。逆に迫害の限りを尽くされたヘスターのほうは、その娘パールと共に、逞しい生き方を続けたようにも見えます。
 
◆血まみれの手
 
今日は、イザヤ書をお開きしました。バビロン捕囚を挟んでの、壮大なイスラエルの回復の預言書です。その冒頭の箇所なのですが、ここへ至るまで、実はかなり厳しい口調で、イスラエルへの裁きを告げていました。
 
イザヤが神の声に呼ばれて、預言者としての人生を始める時のことは、ようやく6章になって現われます。そこまで、イザヤ書は冒頭から批判の連続でした。ユダの国とその都エルサレムが、いかに正義を失い、神に背いてきたか、が語られていたのです。
 
その厳しい口調を読むと、私などは自分のことを言われているような気がしてきて、胸が苦しくなります。いったい、これを他人事のように読み続けることができる人がいるのでしょうか。しかし、それを読み上げることは、この場では致しません。どうぞ、この後で相当な覚悟を以て、イザヤ書の初めからをお読みになるとよろしいかと思います。ここでは、その途中から、少しだけ引いておくことにしました。
 
それを見ると、ユダの人々は、神を礼拝しないわけではないことが分かります。むしろ、立派に生け贄を献げ、儀式の作法に則り、礼拝を続けています。
 
13:もう二度と空しい供え物を携えて来るな。/香の煙はまさに私の忌み嫌うもの。/新月祭、安息日、集会など/不正が伴う集いに私は耐えられない。
14:あなたがたの新月祭と定めの祭りを/私の魂は憎む。/それらのものは私には重荷であり/担うのに疲れ果てた。
 
人間は、神に精一杯の生け贄を献げているふうなのですが、神は、もうそんなものを持ってくるな、と言っています。神が、疲れ果てた、などと言うのはありえないようなことです。そう、これはレトリックに外なりません。そのような突き放した言い方で、人間たちに反省を促しているのです。反省、それは宗教的には「悔い改め」と言えばよいかもしれませんが、今はそちらに走ることは致しません。
 
中身がない、形だけの礼拝。そして自分たちは「悪い行い」をしているということにすら、気づいていない。神はそれを見抜いています。私たちもまた、見抜かれています。どうですか。これでもズキンときませんか。
 
非難されているのは、献げ物と礼拝だけではありません。私たちが神に祈っても、神は聞くものか、とまで言うのです。
 
15:また、あなたがたが両手を広げても/私は目をそらし/あなたがたが祈りを多く献げても、聞くことはない。/あなたがたの手は血にまみれている。
 
私たちの手は血にまみれている、と指摘されています。ここだけでも、もう私の胸は痛くて痛くて、仕方がありません。
 
◆教会と信仰者を顧みる
 
けれども、希望を置くことも、イザヤは忘れません。
 
主は言われる。
さあ、論じ合おう。
あなたがたの罪がたとえ緋のようでも
雪のように白くなる。
たとえ紅のように赤くても
羊毛のように白くなる。(イザヤ1:18)
 
ただ、これを安穏と受け止めてしまうのは、あまりに能天気な気がしませんか。ヘスターの緋の色が、そう簡単に白くなると思えますでしょうか。まして私自身に突きつけられた様々な悪について、キリストの十字架が全部赦してくれました、と口で言ってへらへらしているようなことに、私はどうしてもある種の抵抗を感じざるを得ないのです。
 
やっぱり、胸が痛くなるのです。どうしてそんなに胸が痛くなるのでしょう。たとえば、ろうの方が教会の礼拝に加わっているとします。牧師夫妻は、少しでもコミュニケーションをとろうと、手話を覚えるように努めました。特に奥様のほうは、上達が早く、完璧な手話通訳ができるには至りませんが、説教の要所は伝えることができました。手元には、説教の原稿も渡されますが、手話でライブで説教に身を寄せるというのは、とても大切なことでした。
 
コミュニケーションとは、同じ場、同じ時に、同じ言葉を共有することです。互いの対話でもよいし、説教のように、語られるものを共有するということでもよいでしょう。それは、礼拝で語られる言葉を当たり前のように聞いている聴者には、改めて気づくことの難しい問題かもしれません。
 
たとえば、教会の礼拝に聴覚障害をもつ方が出席していました。新しい牧師の説教は少しも福音的ではないし、中身の無い聖書の説明に過ぎませんでしたが、ある事情でその教会に来たので、簡単に離れることはできないとします。この牧師という人は、手話には関心がなく、覚えるつもりは全くありません。原稿を渡すだけで、礼拝後も交わろうともしないのです。礼拝説教が、聴くことにより正にライブで言葉が出来事になるなどということを知らないのです。もちろんここでは、手話という言語をその「聴く」という範疇に入れていることをご理解ください。
 
その牧師という人が、神との出会いや救いの体験をもたないことまでは、聴覚障害をもつ方は確信していませんでしたが、以前の牧師は、手話に関心をもち、その奥様が説教を、たどたどしい手話ではあっても、その説教を伝えてくれました。しかしもはや話の内容の無さに加え、コミュニケーションも無いことに、我慢しなくてはなりません。聴覚の障害というものは、ただ聞こえないということに留まらず、本質は、コミュニケーションができない苦しさをもつものです。コミュニケーションをとろうとする気持ちが向こうにあれば、決して孤独感に苛まれずに済むでしょう。でもそれさえもないのだとすると、そもそも教会生活そのものを我慢して過ごすことしかなくなります。
 
その牧師という人が、教会のメンバーは神の家族だ、などと語り、ハレルヤと笑顔で話すことの、なんとそらぞらしいことか。口だけで敬虔そうな言葉を使い祈ることの、なんと空しいことか。
 
これはひとつの、あらんかなの例に過ぎないかもしれません。しかし、教会がしていることは皆善意に満ちているとか、神の言葉を掲げてやっているから愛のつながりだとか、そんなことばかり「信じて」いるような教会が、「不正が伴う集い」に外ならない、と言われているように、感じないでしょうか。
 
15:また、あなたがたが両手を広げても/私は目をそらし/あなたがたが祈りを多く献げても、聞くことはない。/あなたがたの手は血にまみれている。
 
これは、過去のイスラエルの民にのみ投げかけられた、他人事なのでしょうか。それとも、私たちは「いい気になっている」のではないか、と胸に手を当ててよく考えてみなければならないのでしょうか。
 
◆聖書という絵本
 
気づかない。それは実に悲しいことです。それでいて、ありがちなことです。私もまた、気づかない罪や、冷たい仕打ちが、多々あるに違いありません。「イエス・キリストはすべての罪を赦します、ハレルヤ」というのは、確かに福音ではあるのですが、それが誰かを苦しめ、誰かに不条理な我慢を強いているかもしれないことに、気づかないこと自体が、大きな罪であるかもしれません。
 
どうしてそのような、気づきのなさが起こるのでしょうか。今日は絵本の話をしましたが、その絵本の読み聞かせのことから、そのヒントのひとつを与えられるかもしれない、と私は気づきました。それをお話しします。
 
聖書は、絵本に喩えられると思いました。言葉が印刷された本です。言葉はそこに止まっています。絵本の絵が動くことなく、ただ描かれただけの状態であるのと同様に、聖書の言葉も、そこにあるだけでは、ただ書かれただけの文字であるに過ぎません。
 
しかし、「聖書を読む」とき、その止まった言葉が動き出すことになるでしょう。もちろん、聖書をいくら読んでも、死んだ文字のままのものとして眺めているだけ、という読み方をする人はいます。きっと、多くの人類はそのように読んでしまったのでしょう。けれども、信ずるに至った人は、その言葉が動き始めるのを知ったのです。一つひとつの言葉の背後にあることが、その人の想像力の中でつながります。しかもそこに、自分が加わるという体験をすることにより、言葉の力が自分に与えられるようになります。絵本を読む子どもの心の中に、絵本の物語が動き始め、自分が絵本の世界の中にいる気持ちになって、同じようにドキドキしたり笑ったりするのと同じように。
 
印刷された、あるいは耳に聞こえた言葉の向こうから、何かがやってきます。聖書の場合には、言葉の背後から、神がやってきます。聖書は神の言葉だ、ということが当然だと思われるほどに、その人は神からのものを受け取ります。これを教会では「恵み」と言います。その恵みは、ささやかな分量であるかもしれません。しかし、その人は知ります。自分はなんと小さな器なのだ、だから少しの神の恵みが、こんなにも自分の中に注がれると、もう溢れてしまうのを覚えるのです。
 
聖書をもう一箇所お開きしました。ヘブライ書の9章から引くことにします。ユダヤの儀式、とくに祭司による動物の犠牲の儀式を軸として、そこにキリストの姿を見ることを勧める文書です。あるいは「説教」と呼んだほうが適切であるかもしれません。
 
18:だから、最初の契約も、血が流されずに成立したのではありません。
19:すなわち、モーセは、律法に従ってすべての戒めを民全体に告げたとき、水と深紅の羊毛とヒソプと共に、若い雄牛と雄山羊の血を取って、契約の書そのものと民全体とに振りかけ、
20:こう言いました。「これは、神があなたがたに命じられた契約の血である。」
 
すでに当時の教会でも行われて射たであろう、聖餐式を意識したような書きぶりですが、イスラエル民族は、このようにモーセに基づく儀式を、大切な伝統として宗教儀式の中心に据え、伝えてきたのでした。モーセが、神と人との契約を表すものとして、犠牲の動物の血を位置づけたのです。
 
ひとは、その意義を忘れてしまうこともありました。ただ闇雲に犠牲の儀式をして、自分たちは神の律法を守って継承しているのだ、という意識でいたかもしれません。旧約聖書の預言者が、それを時折批判しています。時に、異教の偶像に対しても犠牲を献げるというようなことをしていたため、厳しい預言をしたこともあります。
 
ひとがどんなに無理解でいたとしても、神はこの「契約の血」を忘れはしなかった模様です。モーセの場面と、キリストの場面とが、絵本の中で別々に描かれていたとしても、神はその間をつなぐものを見つめていらっしゃいました。私たちにも、そのつながりが見えるでしょうか。私たちは、その間をつなぐ想像力をも持ち合わせているでしょうか。
 
◆血の故に清めと赦しがある
 
神が人間に渡した絵本、つまり聖書は、緋色の画面に満ちています。動物の血、そしてイエスの血です。ヘブライ書がそれを印象的に描いているのを見ました。
 
20:「これは、神があなたがたに命じられた契約の血である。」
21:また彼は、幕屋と礼拝に用いるあらゆる器具にも同様に血を振りかけました。
22:こうして、律法によれば、ほとんどすべてのものが血で清められます。血を流すことなしには赦しはありえないのです。
 
「血で清められます」という言葉がありました。分かりにくい言葉です。教会にふだん来ていない人には、奇妙な言葉です。血は汚すもの、また日本でよく言われるように、血はケガレの象徴だと受け止められるかもしれません。でも、教会に来ている者にとっては、聞き飽きた言葉であるかもしれません。あまりに当たり前のこと過ぎて、何の感動も覚えず、想像力も欠落してしまっていないか、胸に手を当てて考えてみましょう。
 
壮絶な犠牲なのです。命が無惨に奪われる行為です。それがあってこそ、初めて「清められる」のだといいます。これは驚くべき「逆説」です。まともに理解することができない、不思議な事柄です。それがつながる動きを以て自分の中に及んだとき、私たちはさらに、厳粛な事実の前に立たされます。
 
「血を流すことなしには赦しはありえない」と書いてあるからです。恐ろしいことです。血を流さなければ、赦しというものはないのだ、というのです。有名なキリスト教作家の一人であるC.S.ルイスの『ナルニア国ものがたり』に、アスランというライオンが登場します。イエス・キリストの役回りを担っています。その第一作『ライオンと魔女』では、兄弟を裏切った故に処刑されようとするエドマンドに代わり、アスランが処刑されます。血を流すのです。しかし、アスランは蘇り、魔女と戦い、勝利しました。
 
酷い文化です。ケガレを水に流すような風土とは違います。血によって初めて赦しが成り立つというのです。私たちも、自分の身を切る痛みを覚えつつ、赦す、ということがあります。ところが、身を切るどころか、命を差し出さなければ、赦しが成立しないというのです。
 
けれども、それがこの聖書の、厳しい現実です。そこから目を逸らしてはなりません。聖書の言葉と言葉が、この血によってこそ、動いてつながっていくのです。
 
◆緋色が白くする
 
15:また、あなたがたが両手を広げても/私は目をそらし/あなたがたが祈りを多く献げても、聞くことはない。/あなたがたの手は血にまみれている。
 
ひとは、どうあがいても、この程度のものでしかない、とされました。両手を広げて祈っても、神はそれを忌み嫌う、それほどに私たちは不誠実であり、自分のことに気づかない者たちです。自分で自分のことが分からない、ということを、他人事にしている者こそ、まさに問題であるのです。
 
だから、キリストを十字架につけたのも、間違いなく私たちです。いえ、皆さんに対して押しつけがましいと思われるのもよくないので、私です、と言います。私が、キリストを十字架につけたのです。私の手は、そして全身は、血にまみれています。
 
その血は、キリストの流した血です。その血は、私のほうに飛び散ってきて、胸に緋文字を刻みました。ヘスターの罪、そしてディムズデール牧師の罪。彼は緋色の文字を付けたヘスターを傍観するかのようにして、自身への非難を逃れていたのでしたが、かしこまった黒服の内側に、やはり緋色が確かに及んでいたのでした。それは、死をもたらす緋色でありました。
 
イザヤが言う如く、白くならなかったとしたら、そうなのです。しかし、神に委ねるならば、神の言葉は必ず実現します。白くなるのです。キリストの血が、あなたを白くする。そればかりは、あなたが覚えるしかない出来事です。罪があるままに、罪に染まりながらも、その罪が緋となり紅となり赤であろうとも、羊の毛のように白くなるのです。「逆説」が出来事となるのです。
 
信じたから、罪を犯さなくなる、などとは申しません。罪が消えるということはなくてよいのです。ただ、それは白くなるのです。緋色になったからこそ、白くなる。聖書はその約束を告げています。その血は、私が流さなければならなかった血なのですが、イエス・キリストが流したが故に、私を白くしたのです。それは、あなたも同じです。

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