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『ベツレヘムの星』(宮田光雄・新教出版社)

古書店で偶然に見つけ、宮田光雄さんの名を見て、これは知らなかったと思い、購入した。「聖書の信仰」の著作集は全部読ませて戴いたが、本書はエッセイによる辞典のようで、魅力に思えたのだ。サブタイトルは「聖書的象徴による黙想」とある。クリスマスの黙想と称した序章の中で、そのクリスマスの記事の中に出てくる星だの光だのが、聖書では何かを象徴しているに違いない、という辺りから、聖書を象徴として読み解いていくことの大切さを読者に問いかける。これには私も賛成である。もちろん、辞書に記したかの如くに、これは何々を象徴している、と定式化してしまうことはよろしくない。だが、聖書に記された言葉がまるまるその言葉が普通に示すものだけしか意味しない唯物論的な理解しか認めないというのは、事実無理であろう。もしもそれが、聖書を文字通り理解することだと勘違いしているのであれば、首をかしげるしかない。
 
古代遺跡や絵画などに、そうした象徴は見事に理解されて描かれていることがある。本書はモノクロながら、それを時折写真で見せてくれる。これは親切だ。それも普段目にすることのないようなものが多く、私もたくさん学ぶことができた。
 
本編で取り上げられたその象徴を並べてみよう。
 光・道・火・水・船・木・家・鳩・魚・手・足・目
象徴というと、もっと複雑なものをたくさん収容したシンボル事典なるものがある。それに比べると、項目は断然少ない。だが、一つひとつが、A5ほどの大きさの本の十何頁かずつ、完成したエッセイのように綴られていくのは、なかなか読み応えがある。旧新約聖書から縦横に引き、聖書のどことどことがつながるかを見事に示しながら、その意味を解説する。時にギリシアやローマの文化、あるいは中東各地の文化とも比較しながら、聖書の独自性を明らかにするなど、広く教養を求める人に対しても親切な形になっていると思う。
 
また、時にハッとさせられる何気ない一文にも出会うことがあった。例えば「道のもつ特別の機能は、外部世界が開かれてくることにあるといってよい」(p40)など、私はなかなか自ら言葉にして表現できなかった、新たな地平を見せられたような気がして、まさに外部世界が開かれてきたことはうれしかった。
 
筆者は、平和と政治の問題、まただからこそアウシュヴィッツについてもたくさんの考察をしているのだが、「火」についてそのアウシュヴィッツを持ち出してくると、胸をえぐられるような思いがした。
 
このように、象徴は、知的にもだが感情的にも人の心に食い込んでくる何かをもっている。本体と理念的なものとがどちらも関わるので、知性も感情も刺激するのである。それがまた、豊かなイメージをも喚起するということなのだろうというふうにも思えた。その意味では、シンプルなように見えるかもしれない、この聖書的象徴という対象は、実に大きな力をもつものであるという気がしてくる。これは多分、私が思う以上に大きな意味のあることではないだろうかという予感がする。
 
いまのその「火」が、新しいエクレシアの交わりを導くものでもあるなどと誘われると、ペンテコステの炎のような舌についても、厚みのある考えが得られるとは思えないだろうか。
 
その他、現代的な絵画や神学者のエピソードも、知る限りのことを筆者は提供する。例えばカール・バルトが、自宅の書斎の執筆机の前に、グリューネヴァルトによる磔刑の波面の絵が掲げられていたこと。バルトは、このように自分はイエスのことをキリストでありここに救いがあるのだと指し示すことをしているだけのことなのだ、と考えていたのだというのです。ああ、それはまさに私のモットーではなかったか、と悔しい思いをするほどに、よく分かることではないか。
 
ピカソの「戦争と平和」という画についても、丁寧に解説をしてくれるところがあった。よくなされるように、「ゲルニカ」ではない。教会に関係しているからでもあるだろうし、太陽が神の目であるという辺りからも、そこに描かれた一つひとつのキャラクターについて、祈るような思いが伝わってくるような解説であった。
 
最後には、聖書的象徴の意義についてまとめられた章がある。古代から中世、現代へと時代を巡るその随想は、壮大な魂の人類史を辿るようであった。特にそこには、そこまで正面切って扱われなかった「十字架」が示される。そうだ。キリスト者が象徴を通して神と出会うとすれば、最終的にこの十字架と出会わなければならなかったはずである。実に感動的に、本書はクライマックスを以て幕を閉じるのである。
 
最後の「あとがき」にも触れられているように、プロテスタント教会は、それまでの反動もあって、さかんに聖像破壊を成し遂げた。その伝統はいまなお続くのであるが、聖書の象徴は偶像ではない、と筆者は言う。むしろ、人間の言うことを絶対視するようなことこそ、神の像を人間がつくっていることではないのか、と、穏やかな口調ではあるが、私から見れば、相当な怒りをこめてぶつけている。プロテスタントという偶像すらありうるのだと言いたげなその言葉は、「決断への呼びかけ」を、必要な決断としてあまりに強調してきたのではないか、と問う。聖書のもたらすイメージは、私たちを目に見える日常世界から、私たちを別世界へ超越するように促してくれる、というのだ。そうか。超越か。これは私にとっても、新しい地平となりうる概念であるかもしれない。
 
確かに、象徴を考えることは、新たな体験、新たな世界に気づかせてくれるものだと思い、ありがたい気持ちでいっぱいになった。

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