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一人ひとりが映し出される光景

マタイ27:32-56 
 
初めの兵士が、少し長い時間映し出された後、画面は目まぐるしく、いろいろな人の姿を見せます。罪状書きを挟んで、二人の強盗がいます。この二人については、すべての福音書が触れています。ルカはそのうち一人のほうを、パラダイスに連れて行くよう描きましたが、他の福音書記者はそのようには書いていないので、本当はさあどうでしょうか。
 
通りかかった人々は、イエスに向かって、自分を救ってみろよ、と罵りました。十字架から降りたらどうなんだ、お得意のあの奇蹟でさ。人を救う前に自分を救ってみろよ。そんなことできないくせに、いんちきをしていたんだろう。ユダヤ当局の人々も叫びます。同じようなことを言い、そこから降りたのなら信じてやってもいい、などと嗤います。
 
それは荒野の誘惑で、悪魔が言ったようなことではありませんか。イエスは答えることはありません。神の子と自称するが、それが本当なら神が救うのではないか、などと嘲笑が囲みます。カメラはまた、強盗たちを映します。この期に及んでなおイエスを罵ります。それから世界は光を失いました。暗さが包むのは、人間の罪の故なのでしょう。
 
絶命の際にイエスは叫びます。わが神、なんぞ我を捨て給うや。マタイにしては、これが詩編の引用だという解説すらしません。旧約と結びつけることをモットーしてここまで綴ってきたのに、それをしようとしません。それほどに、この場面は緊急事態であり、十字架の姿をどのように描くべきか、ということに気持ちを集中させているのかもしれません。
 
その声を聞いた者の中には、預言者エリヤを呼んでいると考えて、ビネガーだか麻酔薬だかをイエスの口へ運ぼうとした者がいました。ただ静観を促すような者もいました。イエスはここで、肉体的に限界が来ます。このとき、神殿や都で怪奇現象が起きたことをマタイは記しますが、百人隊長や見張りの兵士たちが何を見たのかは曖昧なままにしています。
 
それなのに、「この人は神の子だった」と口にしました。これが直ちに信仰の心を表すとは限りませんが、読者にそうなのか、と問いかけるような力はあります。女たちが、この残酷な見せしめの刑を見つめていたというのにも驚かされます。人々は本当に、こうした残虐な有様を正視していることができたのでしょうか。昔はそんなものなのでしょうか。
 
イエスに仕え、従ってきたのは、女たちでした。男の弟子たちは逃げ出しましたが、イエスの最期を見届けたのはむしろ女たちであったように描かれています。最後までイエスに従ったのです。その故に、イエスの復活のときにも、最初に女たちが出会うことになります。当たり前のように見過ごさないで、胸に刻み込んでいたい場面です。

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