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「ホサナ」と叫べない

4週後に受難日と復活祭を迎える福岡のキリスト教会は、非常事態宣言解除の中で、集まることができる見通しを、いまのところ期待している。
 
復活節の一週間前の主日は、棕櫚(しゅろ)の主日と呼ばれる。新共同訳聖書では「なつめやしの枝」と訳しており、ヨハネによる福音書の記事に基づく。ただ、他の福音書でも、自分の服を地面に敷いたというような描写がなされており、民衆の歓迎の度合いが窺える。
 
イスラエル各地で評判をとったイエスが、エルサレムの町にやってくる。病人を癒し、食べ物を分け与え、ローマ帝国の権威にも怯まない知恵ある教師、それは、イスラエルが待ち望んだ、解放の王メシアではないか、と人々は期待したのだ。
 
イエスは子ろばを不思議な仕方で調達して、それに乗って城壁の町エルサレムに入城する。これを群衆が熱狂的に出迎える。
 
そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ホサナ。主の名によって来られる方に、/祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、/祝福があるように。いと高きところにホサナ。」(マルコ11:9-10)
 
そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」(マタイ21:9)
 
「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、/イスラエルの王に。」(ヨハネ12:13)
 
「救い給え」というような響きをもつこの言葉は、殆ど「万歳」のような意味合いで使われていたと思われる。「万歳」と私たちが口にしても「いつまでも生きるように」などといちいち意識しないのと同様である。
 
しかし、その意味が含まれることを意識することが悪いとは思えない。だから、私たちも「ホサナ」と主イエスを迎えようではないか、そんなふうに呼びかけることも可能であろう。
 
だが私は素直に賛同できない。「救い給え」という言葉が、イエスによる救いを預言しているという読み方は当然可能である。だが、だからと言って、いま私たちがさあ「ホサナ」と喜ぼう、という呼びかけには、からだがついていかないのだ。
 
イエスに向けて「ホサナ」と熱狂的に声をかけ、エルサレムに迎えた群衆は、その後数日のうちに、完全に態度を変える。同じイエスに向けて、「十字架につけろ」とシュプレヒコールを繰り返すのだ。ここと重ねて考えるとき、「ホサナ」という昂奮は、きわめて情動的であり、裏切りの伏線でしかないように思えてならないのである。
 
これだけイエスに熱意を示した群衆は、いとも簡単に寝返って、イエスに憎しみをぶつけるようになってしまうのだ。聖書は、この点を私に突きつけているように感じられてならない。それはおまえの姿ではないのか。信仰をもったとしてイエスを迎え、喜んでそれに仕えるようなことをしたのは事実かもしれない。だが、ひとたび何かあると、自分の正しさの原理だけが自分をコントロールするようになり、イエスとイエスに従う者たちを排除し、人殺しに加担していくことに満足していくようになる、それが人間の姿ではないのか。そんなふうに問いかけ、警戒を求めているように思えてならないのである。
 
見渡せば、聖書の教義を巡って争いがある。ヨーロッパでその争いは度重なる戦争や争議となり、数えきれない人々を殺害してきた。日本では幸い、キリスト教内部でそうした争いが起こるほどの勢力は持ちえなかったが、日本の教団や教派の中で互いに軽蔑し合い非難し合うようなことは絶えたことがない。牧師というのはリーダーではないなどと建前を言うプロテスタントにおいても、自分の正しさを基に他人を見下し、つかみかかるような態度を止めない「牧師」は確かにいる。その口から発される「メッセージ」は、せいぜい聖書講演会の原稿であり、自分のコンプレックスをなんとかして慰めようとするような心理がありありと窺えることがよくある。
 
自分の中に熱意があるとき、それは何に基づいているのか。何を目指して励んでいるのか。自分でよかれと思って押し進めることが、目の前のひとを殺してしまうということに、私たちは愚かにも気がつかないことが多い。「世界平和」を掲げる威勢のいい人が、自分の家族や隣人と平和が築けないでいるのに、なお自分の理想は正しいと豪語するような愚かさを、私たちは呈していないだろうか。
 
民衆の期待する王としてやってくるならば、イエスは馬に乗って入城しただろう。馬は当時軍馬として用いられるものだったし、「王」というのは貴族ではなくて、軍の総帥であったはずである。しかしイエスは、ろば、しかも子どものろばを選んだ。それはイエスから、自分は軍力でローマ帝国を追い払うような王になろうとは考えていない、という無言の表明であったと理解することができるだろう。民衆は、そのメッセージを受けとることができず、まあ馬ではないがとにかくやってきたんだと歓迎したのではないかと推測する。しかしこの噛み合わなさは、数日後に一気に排斥へ転ずることになる。
 
この罠を含み有つ「ホサナ」を、私はどうしても叫べない。

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