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天にましますわれらの父よ (マタイ6:9, ルカ11:2)

◆呼びかけ

「主の祈り」を、少しずつ受け止めてゆくことにしています。今日はその初めで、最初の行だけに注目します。
 
天におられる私たちの父よ(マタイ6:9)
 
父よ (ルカ11:2)
 
ルカ伝はとてもシンプルです。この一言に、マタイ伝の言いたかったことも凝縮されているのでしょうか。いまはマタイ伝のほうを検討することにします。
 
日本語だとこうなっていますが、原語は語の並ぶ順序が異なります。順序について言えば、「父・私たちの・天において(ある)」となります。
 
文語訳聖書に基づく、プロテスタント教会で定番の「主の祈り」では「天にまします我らの父よ」と表示されています。「まします」は「在す(坐す)」の尊敬語ですが、日常からは遠くなったようにも感じられます。「いらっしゃる」という意味です。
 
これは、まず祈りで「呼びかけ」をしているものだ、と考えられます。まず神に呼びかけているのです。祈りにしろ何にしろ、誰に心を向けているのか、をということはとても大切なことです。それを明確にする、祈りの冒頭は、祈り全体の行方を担う、大切な方向を定める言葉だと意識すべきでしょう。
 

◆父

原語の順で、まず「父」に留まります。これは「呼格」と言って、ギリシア語で「呼びかけ」るときの格の形をしています。そこで、訳されているように「父よ」というスタイルだと理解されます。確かに「呼びかけ」ているのです。
 
どうしても現代的な視点からすると、どうして神を「父」と呼ぶのか、引っかかりをもつ人々のことを気にしなければなりません。つまり、神が「男性」であってよいのか、ということです。
 
なぜ「母」ではないのか。神に「母性」を感じる人もいます。日本では遠藤周作が有名です。カトリック教会が大騒ぎをしました。それはともかく、そもそも「性」が関わるのはおかしいのではないか、という意見もあります。かと思えば、マリアを通じてイエスが生まれたという事態については、神はどうしても「父」でなければならない、と考える必要もあるでしょう。
 
確かに当時の社会的習慣や常識というものについて、考え直してみることは大切です。でも、いまの感覚でそれを非難することについては、いくらかブレーキをかけたほうがよいと思われることが、よくあります。もしも人間的な素朴な感覚を敢えて壊す必要もないのだとすると、「父」という捉え方には、それはそれで何らかの意味があるもの、と期待することがあってもよいのではないかと思います。
 
人は、母から直に生まれます。非常に肉体的なレベルで、母のお腹から生まれた、という言い方がなされますが、文字通りのことです。自分の誕生そのものを記憶はしないにしても、他の人がすべて母親のお腹から産まれるのを見れば、自分もそうだと信じない理由はありません。
 
では父はどうなるでしょう。どこか抽象的です。子どもにとり、父という存在は、当面謎でした。しかし、家の中で何かしら偉い人であることは感じ取れますし、自分を産んだ母親が傅いているのを見ると、自分もそうあらねばならない、とも考えることでしょう。特に対外的に一家の「顔」を演じているとなれば、尚更です。
 
父親が我が子と認知しなければ捨てられる、という話が聖書の時代にあったというのは、すでにお話した通りですが、日本でも、家系図には父の存在が重要であったことは確かです。女性は「女」としか書かれず、結局名が伝えられない、ということもままあることでした。紫式部も清少納言も、本当の名は分からないのです。
 
知られるのは、「父の名」でした。「名」たるものが、特別な存在であることを伝えます。この「名」については、また「主の祈り」の次の段階で、落ち着いて考えることに致します。
 

◆父よ、と呼ぶ

「主の祈り」について参考書を求めようとすると、これは古代から無数にあるわけで、よほどの学術調査であっても、すべてを網羅することはできません。また、メッセージは、他人の考えを辿ってそれでよしとするものでもありません。ただ、何らかの指針や、皆さまにも分かち合って戴けたら、という願いのために、二三の本に目を通しておくこにしました。その一冊が、『主の祈り 説教と黙想』(及川信牧師・一麦出版社)です。
 
その「父」に関する語りは、実に悲しい出来事ばかり並んでいました。それは、親から虐待され、あるいは放置されて死んでゆく子どもたちの事件のレポートです。それを敢えてここで引用する必要はないと考えます。いくつかの事件を辿り、無戸籍のままで生きている子どもや、父に見捨てられた子どもの例が取り上げられました。「父からも母からも、一瞬たりとも愛されることなく闇の中に死んでいく命がある。その事実をどう考え、どう受け止めたらよいのか分からず悶々とした」(p12)というのは、キリスト者の共通の思いであると信じたいと思います。
 
私は、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。(ヨハネ14:18)
 
イエスは弟子たちに、こう言い残して十字架へと向かったようなものでした。私たちはどうなのでしょう。「みなしご」というのはいまは殆ど使われない言葉ですし、近い境遇の子どもたちを傷つける言葉であるかもしれません。ただ、聖書は慰めの中でこの言葉を人に向けます。あなたには「父」がいるのだ。あなたは独りではない。命を懸けてイエスが告げたその言葉を、いま教会で、あるいは聖書から確かに聴いている私たちは、果たしてこの良い知らせを、届けているのでしょうか。
 
いいえ、そもそも私たちキリスト者が、それを噛みしめているのでしょうか、と問いたい。神に向かって、「私の父」と呼ぶことができているのかどうか。そんなの当たり前だよ、とふんぞり返っているようなことを、まさかしていないかどうか、問い直す必要があるはずです。
 
もう一つ、今回横に置いておくことにした「主の祈り」についての本は、『主の祈り キリスト教の小さな学校』(福田正俊牧師・日本基督教団出版局)です。ここにはいろいろな知識も詰められています。そこに、ユダヤ教の立場から神を「父」と呼ぶのかどうか、という話がありました。
 
ユダヤ教の場合には、人びとが神を彼らの父と呼んだ例はそんなに多くはなく、また神を特に父と呼ぶこの神信仰は、中心的な位置をしめていなかったと言われている。(p32)
 
また、「あわれみ深い神」という見方は、「完全に非ユダヤ的」だと言った人もいたそうです(p33)。そして、私たちは神に向かって語るというところに信仰を見出すという考え方に立って、次のようにも書いています。
 
この「父よ」と呼びかける祈りによってのみ、信仰は「信仰」となる。……祈りがまさに信仰の本質なのである。(p46,47)
 

◆私たちの

日本語での「主の祈り」の呼びかけは、原語と逆の順序で言葉が並んでいました。「父よ・われらの・天において」の三つの要素がありますから、「われらの」はどちらにしても、中央にあります。これは、人間たちの、しかもキリストの名の下にひとつとなったキリスト者たち、あるいは教会を意味するものと思われます。
 
しかし、祈るというのは、個人でも祈ります。「私の」であってはいけないのでしょうか。聖書を個人的に信仰する、というのが、信仰の決意であったとすれば、祈りもまた、「私の父よ」が最小のモデルとなるべきではないのでしょうか。
 
先週、主の祈りへの入口を歩んだとき、私たちは、マタイ伝とルカ伝とに、その入り方に少々特徴的なものがあるような気がする、と見てきました。そのとき、ルカ伝の中に教育的配慮を感じたのに対して、マタイ伝の方では、比較的、「隠れたところで自身と向き合い、神と向き合って祈るのだ」という方面に注意を向ける意図を感じました。それは、「あなたが祈るときは」であって、「あなたがたが」ではありませんでした。個人的に神と差し向かいになることが描かれている、と感じました。
 
そのマタイ伝の示す「主の祈り」が、「私の父よ」とはせず、「私たちの父よ」となっています。ルカは端的に「父よ」でしたから、ここで考察の対象になるのはマタイ伝だけです。個人的な祈りを発端としていたマタイ伝が、「こう祈りなさい」と挙げたモデルを、「私たちの父よ」としているのです。
 
確かに祈りは、個人的なもので終わりはしないようです。個人の祈りはもちろんあるべきですが、福音書は、仲間がいることを前提としています。分かりやすく言うと、その仲間というのが「教会」です。「教会」はもちろん建物のことではなく、人のことです。人の集まりであり、それは具体的な集まりであると共に、どうかすると抽象的に想定することもあります。キリストの名の下に共に生きる仲間、それが「教会」なのです。
 
それならば、祈りもまた、共同体の祈りでもあることになります。ただ、この共同体というのは、イエスと弟子たちのことを指すことがあったのでしょうか。もう少し分かりやすく言うと、イエスと弟子たちのグループについて、イエスが「私たち」と呼ぶことがあったでしょうか。
 
ありました。私たちがエルサレムに行く(マタイ20:18)とか、私たちのために食事の準備をしなさい(マルコ14:15)とか、行動を表すときには、当然「私たち」を示す場合があります。ルカ伝にも見られます。ところが、ヨハネ伝はだいぶ趣が違います。多くは引用しませんが、ひとつだけ、告別の説教の中から拾いましょう。
 
あなたがくださった栄光を、私は彼らに与えました。私たちが一つであるように、彼らも一つになるためです。(ヨハネ17:22)
 
この「私たち」は、イエスが祈る父と二人であることを意味するようにしか聞こえません。「彼ら」が弟子たちです。イエスは、父と子の深く強い結びつきを以て「私たち」と呼んでいます。それは、創世記のあの場面を呼び覚まします。人を創造する場面です。
 
神は言われた。「我々のかたちに、我々の姿に人を造ろう。そして、海の魚、空の鳥、家畜、地のあらゆるもの、地を這うあらゆるものを治めさせよう。」(創世記1:26)
 
神はひとりなのに、どうして「我々」などというのか、不思議に思う人も多いと思います。それは三位一体なのだ、と言われても、ピンとこないでしょう。そのように複数形を使うのは、権威ある存在者が自らを言うときのヘブライ語(に限らない)の特性だ(尊厳の複数)、などという説明もあります。そう言えば私たちも、論文で、自分が思うのに「我々は思う」などと書きますね。
 
しかし、どんな理屈を持ち込もうと、ヨハネ伝が強く描いている、イエスと父なる神との一致の意識に優る「私たち」の使用法はないでしょう。
 
それと同時に、イエスは祈るような場面で、自身と弟子たちとを一緒の立場に置いて、「私たち」とは呼んでいないことに気をつけておこうと思います。キリスト者もまた、「私たち」という呼び方で、イエスを自分たちと同様に扱うことはしたくないと思います。ただ、キリスト者は「私たち」という祈り方をせよ、とこの「主の祈り」は教えています。祈りの言葉はこの後、「私たち」が続くのです。
 
だとすれば、キリスト者は、決して「私は」という場所へ追い込まれはしないでしょう。祈りの中で「私たち」と祈るように告げられています。キリスト者は、「私」という独りではないのです。「私たち」と祈るように、励まされているのです。
 
しかもそれは、教会で見かける人たちに限りません。世界中のキリスト者を含みます。また、時間的に過去に遡って、すべてのキリスト者のことでもあるのです。このことは、『主の祈り キリスト教の小さな学校』では、特に大切なこととして、次のようにまとめています。
 
「神の国」の来る日を先取りして、いわば預言者的に、先行的に、今はまだこのように祈ることのできない無数の人びとを代表しつつ、「われらの父」と呼びかけることができ、また呼びかけねばならないということが、この「われら」という言葉が、そして「主の祈り」がもっている偉大な、雄渾な響きである。(p49)
 

◆天

さて、マタイ伝は、ユダヤ人の読者を基本的に想定していたと思われます。いろいろな形で、旧約聖書を大切に考えていました。そこで、十戒の規定も大切に受け止めました。
 
あなたは、あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。主はその名をみだりに唱える者を罰せずにはおかない。(出エジプト20:7, 申命記5:11)
 
むやみに「神」「神」と口にしてはいけない。そういう意識からか、マタイ伝には「神」という語が別の語で言い換えられることが多くありました。それが「天」です。つまりは、「天国」とは「神の国」のことなのです。但し、この祈りの中の「天」は、さすがに「神」そのものではないように見えます。
 
天におられる私たちの父よ(マタイ6:9)
 
いよいよ、日本語訳では最初にきますが、ギリシア語では最後に置かれていた、「天」ということについて、受け止めようと思います。
 
確かにそのような意味の語なのですが、「天」と言われると、私たちはどうしても、上を向いてしまいます。私は中国語はよく分かりません。恐らく中国において「天」という語は、聖書とは違う意味なのでしょうが、創造主とか、ロゴスとかいうものをイメージさせる語ではないかと想像します。
 
でも、やはり空を仰いでしまうでしょう。如何ですか。最近、空を見上げたこと、ありましたか。「びっくり仰天」しても、天を仰いではいない、というふうに、最近は空を見ない人が多くなりました。月の形や見える方角など、もう誰も意識していないようです。よかったら、時折、天を見上げてください。お薦めは、芝生や草原で、大の字になって寝そべることです。広く見渡せるところがいいですね。目の前に見えるすべてが空になり、目の前は全てが「天」になります。そして、自分はいま、地球を背負っていることになります。地球全部を背負って、天と向き合うなんて、すごいことだとは思いませんか。
 
ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスはお答えになった。「神の国は、観察できるようなしかたでは来ない。『ここにある』とか、『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの中にあるからだ。」(ルカ17:20-21)
 
天国とは神の国でしたね。するとここで、その「神の国」は「あなたがたの中にある」と言っていることに、驚きを隠せません。私たちの心の中でしょうか。恐らく違うとされています。「あなたがた」つまり「私たち」は、私たちキリスト者がキリスト者として共にある集まり、聖書の元来の意味の言葉でいう「教会」のことだと考えられています。神の国は教会の中にある。教会と呼べるところ、イエスを信じてイエスに従う者が集まるところ、そこが神の国だと言っているように聞こえます。
 
よく知られているように、ここでいう「国」は国土のことをいうのではありません。そもそも近代国家などというのは、歴史的にいう「国」の形のごく限られた意味での姿ですから、もっと頭を軟らかくして考えたいものです。「国」は国土であるより先に、「支配」の及ぶところを指します。支配権の及ぶ領域です。確かに、「教会」であるならば、神の支配が余すところなく実現されて然るべきところであるとも言えるでしょう。あくまでも「本来」という但し書きを付けておくことにしますけれども。
 
しかし、理念としてでもいいし、信仰により思え学ものでもいいのですが、「教会」と呼ぶに相応しいところで、「主の祈り」が祈られるべきだとするのは、よいことでしょう。そこでは、祈りがなされます。祈りは、神と人との交わりの場です。神と私たちとが結びつくリアルさが、祈りの本質でありましょう。
 
「天におられる」は、英語で示せば「who in the heavens」です。ギリシア語では、英語のbe動詞がなくてもそれがあるように振る舞うことができますから、「おられる(まします)」の意味が説明されて、もちろん差し支えありません。しかし、ギリシア語には直接ないのはないのであって、「おられる」という日本語をあまりに強調することは、私の感覚では避けたほうがよいのではないか、と感じます。「私たちの父よ、天における」くらいでもよいかもしれません。
 

◆神の子とされたから

さあ、「天におられる私たちの父よ」を見渡してきました。一つひとつの言葉に立ち止まって、そこから見渡せる景色を眺め、気がつくこと、神から教えられたことを、とりとめもなくお伝えしてきました。
 
もう少し時間があります。それでは、今まで見た景色と同じものであるかもしれなくても、違った場所から見つめてみることにしましょう。私たちは「私たちの父よ」と神を呼びました。私たちにとり、神は父なのでした。これを逆から眺めてみましょう。神が父なら、神から見れば私たちは「子」です。誤解を恐れずに端的に言えば、私たちはここで「神の子」という立場にされていることになります。
 
「父よ」と呼ぶことができるのは、「子」であるはずです。「父よ」と祈りなさい、ということは、私たちが「子」であるからに外なりません。本当でしょうか。ヨハネの手紙第一から、少し拾ってみましょう。まずは第3章から。
 
私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどれほどの愛を私たちにお与えくださったか、考えてみなさい。事実、私たちは神の子どもなのです。世が私たちを知らないのは、神を知らなかったからです。(3:1)
 
愛する人たち、私たちは今すでに神の子どもですが、私たちがどのようになるかは、まだ現されていません。しかし、そのことが現されるとき、私たちが神に似たものとなることは知っています。神をありのままに見るからです。(3:2)
 
「今すでに神の子どもです」と言い切っています。それは、神が私たちを愛して、御子を世に与えたことで、私たちが神の子どもと呼ばれるようになったからです。「事実、私たちは神の子どもなのです」という力強い宣言を、真正面から受け止めたいものです。そして、同じくヨハネの手紙第一の5章でも、少し違う脈絡ですが、私たちのことを「神の子」だという前提で書かれているように見受けられます。少々ややこしいのは、イエス・キリストのことも「神の子」と呼ぶことがあるところですが、文脈で明らかに区別できます。イエスはもちろん「神の子」です。そして私たちも、イエスとは別の意味で「神の子」です。キリスト者の長兄である、という見解も可能になる所以です。
 
イエスがキリストであると信じる人は皆、神から生まれた者です。生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します。(5:1)
 
「イエスがキリストであると信じる人」を、「神の子」だとしているように見えます。今日は、このことについては、これ以上は説明じみたことはできません。すでに信じている人に向けて呼びかけるに留めます。しかし、まだ信じていない人も、キリストの救いを信じることによって、神の子とされる、ということを届けたいと願っています。そうなれば、「父よ」と祈る意味は、もう明らかにされていると言えるでしょう。
 

◆天を見上げよう

「父よ」と呼びかけることは、私たちがすでに神の子とされていることを前提としています。ここには「信仰」が働いています。そして、たとえ独りで祈っているときにでも、「私たちの父よ」との呼びかけは、それが、私たちが共に神の子とされていることを意味していると言えるでしょう。
 
独りで祈る。共に祈る。祈りは、その都度こうした祈り方を行き来しながら献げられています。でももし、もしも祈ること、あるいは生きることに疲れたら、自分を責めたり、神に不平を言ったりする前に、顔を上げて、天を見上げてみませんか。
 
先ほど、こんなことを申しました。「天」を「神」としてよいものかどうか、と。それはミステリーです。神を、天というような偶像にしてはいけないのではないか、という意見は、尤もなものです。
 
しかし、「天におられる」というのが「主の祈り」の言葉でした。天というのは、神のおられる場のように描かれています。でも、それは福岡県などというような、特定の土地であるのではないように思われます。それは、先に見たときのように、「実に、神の国はあなたがたの中にある」(ルカ17:21)と考えられました。「あなたがた」は「教会」ではないか、と私たちは受け止めました。「教会」には、もしかすると、あなたの気に入らない人がいるかもしれません。さらにいえば、あなたが嫌いな人がいるかもしれません。その人の中にも、「神の国」はあるかもしれないとなると、「天」がその人の中にあってもおかしくはないでしょう。それにまた、私が嫌で、やりたくない仕事の中にも「天」はあるかもしれません。
 
嫌なイメージだけで辟易しましたら、明るい光も受けてみましょう。小さな肩を寄せ合って、健気に信仰を励まし合っている、小さな教会の中にこそ「天」があるのかもしれません。もしかすると、教会組織を離れて、町で震えている人の中に、「天」があるかもしれません。閉鎖された病棟に閉じ込められたままの人の中に、「天」はあるかもしれません。
 
私たちは、どこにでも「天」を覚えるのでなければならないようです。しかし、祈る度にそれらすべての場合を思い浮かべるというのは不可能です。そこで、さしあたり私たちは顔を上げて、空のほうを見上げてみましょう。それを「天」の代表のように捉えましょう。信仰の目で、そこに「天」を見ましょう。
 
逆に言えば、目の前に見える風景が、どんなに辛いものであっても、明日はどうなるか不安に襲われていたとしても、この地上の悲惨さや人の心の世知辛さに滅入ってしまっていても、天を見上げましょう。それぞれのキリスト者が独りで祈っていても、天においてつながっています。周りに人がたくさんいても、独りの祈りが天に、神に、つながっています。天とは、神であると共に、神とつながる場でもあって、よいと信じるのです。
 
もし、キリスト者の中で孤立したような立場にいたら、どうでしょう。それでも天でつながるでしょうか。はい、つながります。つながっています。天を見上げれば、そこを神の国、神の場として、神がつないでくださいます。インターネットと呼ばれるウェブの世界が、世界中の端末を結んでいるように、独りの祈りはその回線に接続されているのです。
 
その人が神とつながっている以上、神につながるすべての人と、つながっているのです。あなたの祈る先には、神が確かにいるのです。

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