願わくは,み名をあがめさせたまえ (マタイ6:9, ルカ11:2)
◆有て在る者
死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の箇所で、神がモーセにどのように言われたか、読んだことがないのか。『私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。(マルコ12:26)
この「モーセの『柴』の箇所」とは、出エジプト記の3章の出来事を言います。イエスの時代、このようにして、聖書の特定の箇所については示すものだったわけですが、これで聖書を知る人には誰にも適切に伝わっていたことになります。このとき、神の「名」について、聖書の中でも第一級の、重大なことが明らかにされています。
13:モーセは神に言った。「御覧ください。今、私はイスラエルの人々のところに行って、『あなたがたの先祖の神が私をあなたがたに遣わされました』と言うつもりです。すると彼らは、『その名は何か』と私に問うでしょう。私は何と彼らに言いましょう。」
14:神はモーセに言われた。「私はいる、という者である。」そして言われた。「このようにイスラエルの人々に言いなさい。『私はいる』という方が、私をあなたがたに遣わされたのだと。」
15:重ねて神はモーセに言われた。「このようにあなたはイスラエルの人々に言いなさい。『あなたがたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主が私をあなたがたに遣わされました。』/これこそ、とこしえに私の名/これこそ、代々に私の呼び名。
神の名は何か。そう問われたら、こう答えよ。「私はいる、という者」だ、と。かつて文語訳では「有て在る者」と口に馴染んでいました。口語訳だと「有って有る者」、新共同訳では「わたしはあるという者」と、同じ日本聖書協会の中でも改定毎に揺れ動いていました。因みに新改訳聖書では「『わたしはある』という者」が伝統的に使われています。
この「いる」または「ある」については、未来のように受け取ることもできるのだと言われています。ヘブライ語には元来、現代の私たちが整理するときに言う、過去・現在・未来という区別をする考えがなかった、と聞いています。特に、神の言葉については、それが過去だけとか未来だけとかいう理解をするのは、神を神でなくしてしまうような不敬なことでもありましたから、「未完了形」であっても、私たちの考える過去をも未来をも指すことがあるというのです。
神はいまだけここにいる、というようなものではありません。かつてあり、いまもいて、後もずっとある、そうでなければこの神はありえない、ということを知らせているのだと思われます。
今日私たちは、「主の祈り」の「御名が聖とされますように」と訳されたところを中心に据えて神の言葉を聞こうとしています。これも新共同訳では「御名が崇められますように」となっており、聖書協会共同訳では大きな変更がなされています。口語訳では、「崇める」がひらがなとなっていただけで、半世紀以上にわたり違いはなかったのに、今回は大きく変えられているわけです。
◆崇める
神の「御名」についてはもう少し後に再び考えるとして、「聖とする」のところに先に目を向けます。新共同訳の「崇める」の語が、従来馴染んでいました。「崇める」は日常的に使う言葉ではないかもしれません。「尊いものだとして敬う」というような意味で用いられる言葉です。確かに原語は「聖」と見るに相応しい語が使われています。「聖霊」というときの「聖」の変化バージョンのようなものです。
今月、靖国神社の石柱に、スプレー缶で文字が書かれていたという報道がありました。法的には「器物損壊」となるものと見るのが一般的であるようです。産経新聞は直ちに「礼拝所不敬罪」の適用もある、と見出しにつけていて、いかにも産経新聞らしい宣伝をしていました。
かと思えば、統一協会関係の建物に、スプレーで「カルト」などという落書きをした者が、今年2月に、器物損壊のほかに名誉毀損にもあたるという判決が確定しています。これは「不敬罪」とはまた違うもののようです。「不敬罪」というのは「礼拝所に対し公然と不敬な行為をする罪」のことで、「神祠、仏堂、墓所その他の礼拝所に対し、公然と不敬な行為をした者は、6月以下の懲役若しくは禁固又は10万円以下の罰金に処する。」(刑法188条第1項)と規定されています。これは、慰霊碑には適用されますが、礼拝所ではない事務所のようなところには適用されないそうです。靖国神社の石柱は礼拝所とは言えないような気が、個人的にはするのですが……。
この辺り、霊園でヌード写真を撮影した、世界的な写真家が有罪判決を下されているなど、デリケートな問題を含んでいます。確かに、芸術性という点は理解するものの、教会でそうした活動はご遠慮願いたい、とは思いますね。
さて、「御名が崇められますように」であれ「御名が聖とされますように」であれ、これは祈願を表す言葉ですが、文法的には命令形をとっています。受身で表されています。では、その主体は誰なのでしょう。私たち人間でしょうか。私個人のこととして祈るべきなのでしょうか。
私が神の御名を崇めることができるように。御名を聖とすることができるように。すばらしいことですが、もうひとつくっきりとしたイメージが湧きません。私は時折、具体的にそれを考えるために、「特別にする」という捉え方をしてみることにしています。
恋心を描く漫画やアニメで、時々この言葉が出てきます。「特別だと思う」というのが、友だち以上の、親密な存在になることを示すわけです。同性の恋愛対象のときに幾度か見たのですが、その道に詳しい方もお聞きでしょうから、分かったふりはしないことにします。
「特別にする」は「崇める」とつながらないように思われるかもしれませんが、「聖」というほうは、理解しやすくなるように思っています。「聖」とは「きよい」というよりも、元来「分離する」ことを意味するからです。それは他のものと同じではない、と切り離すことです。「ファリサイ派」という名前がそこから来ていることは有名です。自分たちは普通の人間たちとは違うのだ、それとは区別された存在なのだ、という自負に満ちているようにも見えますが、神は聖なる方、というのも、人間や他の霊的なあらゆる存在から離れた、特別なお方なのだ、という捉え方をしても、さほど狂いはしないだろうと思うのです。
◆神の名
しかし、私たちが「崇める」だけでこの祈りは終わりはしない、とも考えられます。「受身」だと先に申しましたが、聖書で「受身」と聞くと、その主体が神であるときに用いる方法だ、ということを思い出される方も多いだろうと思います。「神的受動態」などといって、殊更に「神」の名を出すことを避ける目的もあってか、「受身」の形を用いて、神がそれをなす主体である、ということを前提としている表現が、無数に見られるのです。
するとここでも「崇められますように」や「聖とされますように」も、神がなすこと、と受け止める可能性が開けてきます。さすがに神が自ら「崇める」というのはおかしいのですが、神の側が特別なものとして自らを示す、という意味で「聖」であってもおかしくはないように見えます。神がなす。神が表す。自らを特別な存在として、聖なるものとして、現れもするし、手を伸ばしもする。神が、イニシアチブをとるのです。
何をなすのか。何を表すのか。それが、神の「名」です。原文にはもちろん「御名」とわざわざ書かれているのではありません。「聖霊」は確かに「聖なる・霊」ですが、「御名」はただの「名」です。「御父」とか「御言葉」とか、本当にその訳がよいのかどうか、私は時に怪しむことがあります。
いま「御父」の例を挙げましたが、今日はアメリカ由来の「父の日」です。「母の日」があるなら「父の日」も、と制定されたそうですが、もうひとつ華やかさはないようです。神のことを「父」と呼ぶことについては、先週詳しく見てきました。思えばこの「父」というのも、「神の名」のひとつであるようなものなのかもしれません。
神の名。その「名」とは何でしょうか。「名は体を表す」と言い伝えられる知恵があります。その「名」は実体を表すために、真の名は隠しておく、それを見破られたら相手に支配される、そうした伝説や物語が、世界各地にあります。
「名を馳せる」というのは、単に有名になることではなく、その権力が遠方に及ぶことを意味することがあります。「名を汚す」というのは、評判を悪くすることではありますが、それにより権力が衰えることを意味することもあります。
神の名。邦訳聖書ではしばしば「御名」と訳出しています。親切ではありますが、私たちはあまり敬語的表現に囚われず、「神の名」を見つめたいと思います。先般、十戒についてゆっくりと耳を傾けたとき、神の名をみだりに唱えることは、むしろ神への信仰に反することになる、と受け止めました。
そのとき、ボーレンの『説教学Ⅰ』の中で、コールブリュゲの言葉として、「神のみ名とは、神がキリストにおいてわれわれに啓示してくださり、われわれの救いのためにわけ与えてくださった、そのいっさいの徳の総体なのです」とあることに注目しました。そして、「救い主の名」として、その名を呼ぶことの大切さを噛みしめました。
◆主の名を呼ぶ
創世記で、アダムが動物たちに名をつける様子が記されています。人は動物を創造することはできませんが、名をつけることはできました。何らかの支配構造をそこに覚えることはできようかと思います。
しかし、人が神の名に気づくことは、カインの出来事の後のことだったように読むことができます。創世記4章です。
25:アダムは、さらに妻を知った。彼女は男の子を産み、セトと名付けて言った。「カインがアベルを殺したので、神がその代わりに一人の子を私に授けられた。」
26:セトにも男の子が生まれた。彼はその子をエノシュと名付けた。その頃、人々は主の名を呼び始めた。
突然、主の名を呼ぶことが書かれています。それについて聖書で最初に登場するのがここです。研究者は、ここで「エノシュ」と名付けられた子がそれに関係している、と言っています。それは、壊れやすいこと、癒やされないことを意味するのだそうです。人間のはかなさや弱さを含んだ意味をもつ名の子どもなのです。
直前にあった、カインからレメクにかけての出来事は、聖書をお読みの方はよくご存じでしょう。史上初の殺人を犯したカインは、神から直ちに死をもたらされたのではなく、その罪を背負って生き延びて役割を果たすようになります。しかし、カインから6代目に生まれたレメクは、これを逆手にとって、傲慢な口を利きました。
カインのための復讐が七倍なら/レメクのためには七十七倍。(4:24)
カインを殺す者には七倍の復讐が与えられる、すなわちカインは殺されることなく生き延びて果たす役割がある、と神はチャンスを与えたのですが、それだったら我がレメクは、77倍の復讐が及ぶほどに、いくらでも復讐の殺戮をして構わないのだ、と豪語したようなものでした。
この時代に、人の弱さがはかないエノシュという名の子の形で現れ、主の名を人は呼び始めるのです。
主は、アダムとエバの前に現れ、話しかけました。カインの殺人のときにも現れ、呼びかけました。しかし、その他に主が人間たちの前に現れたようには書かれていません。けれどもこうして主の名を呼ぶ人々が登場します。間違いなく、主なる神に向けて、コミュニケーションをとろうとするのです。
神と呼べるお方は、この主だけである。その意識がはっきりしているように見えます。神から呼びかけられるだけでなく、この神なのだ、と呼びかけることがなされたというのです。
日本人の多くは、何かしら神的な存在に向かって祈ることをします。「手を合わせる」ということをします。私もそうでした。京都に来ると、神社仏閣はいくらでもあります。道行く中でそこかしこに地蔵尊を見ます。その度に、手を合わせることで、何かしら目に見えない力を敬うのは、ある意味で当然の心がけだ、というように思っていました。
しかしそれは、決して信仰ではないのです。それを神としてそれに従おうとするつもりはないのです。ただ、「聖なるもの」として、敬う精神があった、という程度のことなのです。
「何事の おはしますをば しらねども かたじけなさに 涙こぼるる」と、西行法師は詠みました。「西行法師歌集(西行上人集・西行法師家集・異本山家集とも)」の三系統ある中の「板本系」にあるそうですが、とみにこの句は有名です。
神仏と呼ぼうが何と呼ぼうが構わないのですが、敬虔な思いが大切だとされるのが、日本文化でした。日本の古典文学を見れば、それがあたりまえだとしか思えません。もちろんいま私は、呼びかける相手は主なる神ひとりに限ります。この神から呼びかけられたが故に、私はこの方に呼びかけます。主の名を呼ぶ、というイスラエルの人々の思いは、幾らかでも分かるような気がします。
◆主の名をほめる
ハレルヤ、主はまことに恵み深い。/その名をほめ歌え。その名はまことに麗しい。(詩編135:3)
主の名をほめ歌え。詩編を初め、イスラエルの民は随所で、そう歌ってきました。私の好きなフレーズの一つは、詩編148編です。とにかく「主を賛美せよ」が絶え間なく歌われる詩です。
主の名を賛美せよ。/御名はひとり高く/その威厳は地と天の上にある。(詩編148:13)
詩編は正に賛美歌でありました。どんなメロディで歌われていたのか、録音がないのがとても残念です。いまの中東の音楽には、一定の共通した特徴がありますが、かつても、どこかそういうふうなメロディだったのでしょうか。詩の表題に時折、楽器や曲の指定があります。十分意味が解読されていない音楽記号のようなものも見られます。いつか、これらが解明されて、古代の歌が聴ける日が来るでしょうか。AIの発達は、そこまで実現してはくれないのでしょうか。
詩編は賛美歌でした。ルターは自ら音楽を創る才能に恵まれていましたが、カルヴァンはというと、詩編の歌詞を歌うことしか認めない、というような態度をとりました。いまでも、詩編だけを盛り込んだ賛美歌集(『詩編抄集』)が、日本にもあります。
賛美歌というのはデリケートなもので、教派や教団によって、ずいぶんと違いがあります。その教会の牧師の趣味によって、大きく左右されることもあります。コーラスが好きな牧師がいれば会衆賛美でも美しいハーモニーが流れますが、音程をとることに恵まれないある牧師は、斉唱以外は認めないこともありました。
礼拝の賛美歌も、ずいぶんと古い『讃美歌』を保つところもありますし、ようやく『讃美歌21』へと進展してきたのが昨今でしょうか。『聖歌』の方面を重んじる教派もありますし、教団独自に編集したものを使おうとするところもあります。また、いわゆる「ワーシップソング」を使うところもあれば、それはけしからん、とするところもあります。尤も、この「ワーシップソング」なるものも、もう半世紀ほどの歴史を日本でも刻んでいますから、いまだにギターやドラムスはだめだ、という教会は、よほど伝統を大事にしているのでしょう。但し、オルガンが伝統だ、という意見の方は、オルガン自体が歴史的に新しい楽器だ、ということを、どのくらい意識しているか、尋ねてみたい気もします。
同じ言葉の繰り返しを、ワーシップ系は好みます。何でも繰り返しているうちに、霊の流れを覚え、内に聖霊が満ちてくるのを感じる、ということもあります。音楽には、感情を揺さぶるものがあると言いますが、霊的にも、何かをもたらすものだと思います。
しかし、新しい曲調になじめない人の中には、これを煙たがる人もいます。礼拝で選ばれた讃美歌であっても、気に入らない曲の場合は、それを歌わないどころか、起立さえしない「牧師」もいます。礼拝をするつもりはなく、自分の独自の聖書理解を、会衆に訴えたいがために講壇に立つのが目的なのだろうか、と勘ぐらせてしまいますので、それは改めたほうがよろしいかと思います。
◆神を大きくする
イエスはお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。よくよく言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。(ヨハネ12:23-24)
ヨハネ伝で、イエスが、自分の十字架を強く意識し始めた様子を描く場面です。「一粒の麦」は、イエスのことを象徴する表現のひとつとなりました。また、そういうイエスに従って生きる信徒の姿を喩えることもあります。そしてこれに続いて、イエスが「心騒ぐ」と、心の乱れを打ち明ける場面があります。
「今、私は心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、私をこの時から救ってください』と言おうか。しかし、私はまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「私はすでに栄光を現した。再び栄光を現そう。」(ヨハネ12:27-28)
イエスは、騒ぐ心に、これを逃れたいと父に願うか、一瞬の葛藤を示しています。パウロが、このまま殺されるか生きながらえるか迷うような心があることを、フィリピの教会の人たちに告白する場面がありましたが、イエスにも、それに似た心理が、少しはあった、ということなのでしょうか。
でも、自分は「この時のために来た」という使命感をそれに打ち勝たせている様子がここにはあるようです。このときに「父よ、御名の栄光を現してください」と口にしました。これに対して天から声があった、としているのですが、このとき「神の御名」のことを挙げていることに、私たちは気づかされます。
イエスは、御名の栄光を現すように、と祈ったとき、神の心と重なったものと思われます。十字架へと向かうイエスの心が神の御名を称えたときに、神が勝利する決定的な土台となりました。神の名は、ここで最も権威あるもの、最も大切なものとなったのです。それは、神の名が崇められたということでした。
そこで、マリアは言った。/「私の魂は主を崇め
私の霊は救い主である神を喜びたたえます。(ルカ1:46-47)
有名なマリアの賛歌の始まりですが、「主を崇め」という言葉がありました。この賛歌は、最初の言葉をとって、よく「マグニフィカート」(後世簡略化した訛りにより「マニフィカト」と呼ばれる)と呼ばれます。最初の言葉はこの「崇め」にあたりますが、「メガ」とも関係がある系統の語で、「大きくする」という意味が基本です。
「神を崇める」というのは、「神を大きくする」ということなのです。あたりまえではないか、と仰るかもしれませんが、私たちはいつも「神を小さくする」ことに邁進しているのではないか、と考えることが必要だと私は感じます。人間が何でも支配するものと考えている。自分の欲望が、神の言葉を押しのける。私が正しいという前提でものを考え、神を隅っこに追いやり、できるならいなくなってほしいとすら潜在的に願う。自分が限りなく大きくなり、神がどんどん小さくさせられる。それが人間の姿ではないかと気づくと、「神を大きくする」というのは、決してあたりまえのことではないのではないか、と考えます。
そこでもう一歩踏み込むならば、そして素朴な理解をするならば、「崇める」とは要するに「神を神とする」ということに尽きるのではないでしょうか。神ならぬものを神としがちな私たち。具合の悪いことに、自分自身を神としたがる悪癖があるのが人間です。しかし、神なるお方をこそ、神とする、そこが要なのではないか、と捉えたい気がします。
◆聖なる者
さて、十戒の中に、「あなたは、あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。主はその名をみだりに唱える者を罰せずにはおかない」(出エジプト20:7, 申命記5:11)というものがあることを、すでに聞いています。イエスもまた、「祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。彼らは言葉数が多ければ、聞き入れられると思っている」(マタイ6:7)と戒めていました。
名を尊ぶ信仰の中には、「称名」といって、繰り返し名を称えればよい、というものもあります。そのスピリットを理解しないわけではないのですが、それだけで自分中心の傾向性を免れることはできないのです。
私たちは、「御名が崇められますように」と「主の祈り」で祈ります。神の国が実現することを信じて、待ち望むからです。福音書の中の訳を使うならば、「御名が聖とされますように」と祈ります。
ところが神はあのモーセの柴の箇所で、「聖」を突きつけられています。
神は言われた。「こちらに近づいてはならない。履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地である。」(出エジプト3:5)
そして聖書は、神によって、実は私たちが「聖なる者」とされていることをも告げています。
すなわち、父なる神が予知されたことに従って、霊により聖なる者とされ、イエス・キリストに従い、また、その血の注ぎを受けるために選ばれた人たちへ。恵みと平和が、あなたがたに豊かに与えられますように。(ペトロ一1:2)
イエス・キリストの十字架の赦しと救いの故に、それを信じる者は「聖なる者」とされているというのです。神に対して、「特別な者」とされているというのです。
ただ、神の名を聖とせよ。そのように迫られてプレッシャーを感じる必要はありません。「御名が聖とされますように」との祈りは、もうすでに神ご自身が、ご自身の名を聖なるものとして分けているものを、私たちがただ受け止めるために、口にせよ、というように捉えてはどうでしょうか。私がまず神を特別なお方として胸に懐く信仰をもって、神を大きなお方として仰ぐことから、始めてみるとよいと思うのです。
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