その日を前にして
ゼカリヤ8:12-17
預言者の書は、時に事後予言のような形をとることがあります。その事実をすでに知った上で、過去の場面でその預言者が、未来を知っていたかのような演出をするのです。エルサレム神殿の破壊を予言したり、捕囚からの帰還を指摘したりしていたのがそうです。では、「主の日」とか「終わりの日」とか呼ばれているのはどういうことでしょうか。
捕囚から解放されたこと、あるいは小さきながらも新たなエルサレム神殿が再建されたこと、こうしたことを表しているのでしょうか。それにしては、イスラエルゆユダのもっともっと大いなる救いが描かれているような気もします。だとすればそれは、記者も本当には知らなかった未来の姿を描いていたのだ、ということならないでしょうか。
だからこそユダヤ民族は、未来を軸に希望をもって生きていけたのだということかもしれません。ゼカリヤは告げます。回復されるこの地に、平和の種が蒔かれる、と。実りが豊かに生じ、「民の残りの者」にそれらは祝福として与えられるのです。呪いとなったユダとイスラエルは、いまや祝福となるのです。
この「いま」は回復の日です。現在の私たちにとっても、なお未来であるような時かもしれません。かつての人間は主を怒らせました。それは人間に災いをもたらす怒りを招きましたが、その裁きが決して誤っていたというわけではありません。但し、今度は主は幸いを与えようとしています。恐れるな。だから人々よ、互いに真実を語れ。
人間たちの中で、真実と平和の裁きを行うことが指令されます。心の中に悪を企むな。偽りの誓いを求めるな。主はこれらを憎むのだ。しかし思い起こします。イエスのあの裁判の席で、ユダヤの祭司たちや群衆は、偽りの誓いをしました。真実を語りもしませんでした。果たして私たちはどうでしょうか。主の日を前にして、何を語るのでしょうか。