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「何かの一部にならないと存在意義がないとは思わない」

何かの一部にならないと存在意義がないとは思わない。
ねじ穴にハマらなくたって、それ自体に十分価値がある。
周りと形が違うねじだって、存在していい。

ドラマ「顔だけ先生」


ドラマ「顔だけ先生」で、不良品のねじについて話しているシーンで出てきたセリフです。

なかなか環境になじめず、「一匹狼でいい」と思いながらも、居心地の悪さに苦しむタイプなので、響いてきました。



小学生の頃は、仲良しの子っていたけど、そこまで固定化されてなかった。

低学年の頃は男女問わず仲良しがいたし、高学年になるにつれて特定の女の子だけで一緒にいるようになったけど、その子たちと一緒じゃないと気まずいということはなかった。


でも、中学校に入ると、グループがはっきり固定化されてた。

基本的にはいつも同じ子たちと一緒に行動してた。休み時間とか移動教室とか、同じグループで動かないと不自然な感じがあった。もちろん1人でいると「変な子」扱いされた。

グループにもランクがあって、キラキラしたグループ、標準的なグループ、おとなしいグループの3つ。交流があるのは同じランクのグループ同士で、おとなしいグループの子がキラキラしたグループの子と話すことはほとんどなく、カースト制度みたいな感じだった。


高校に入っても、グループは固定化されていたけど、グループ間の交流が活発だった。少し大人になっていくのか、カーストの高低差は小さかった。いろんなグループを行き来する人が人気者だった。

中学校の時は、いわゆる「中学校デビュー」の子にいじめまがいのことをされて辛かったけど、高校は高校で、おもしろくなくても周りに合わせて笑ったり、教室で休みたいのにどこかについていけなくなったりして、「仲良しグループ」の子たちと一緒にいることに、だんだん疲れるようになった。

「仲良しグループ」の中にいるのに、他のグループの子よりも自分のグループの子と心理的な距離が遠い気がして、居心地が悪かった。


でも、高校では1人でいてもそこまで不自然な感じではなかったというのもあり、休み時間や放課後は、べったり「仲良しグループ」の子と一緒にいなくても、1人で過ごす時間もだんだん増えていった。

そうすると、同じく1人でいる子と話すことが増えたり、私に話に来る子も現れたりした。そうやって1対1で話すと、楽しかったし、もっと話したいと思うことも増えた。


大学も高校と同じような感じはあったけど、クラスという単位が取っ払われて、本当に仲のいい子と仲を深めるようになっていった。居心地のいい人と一緒にいたらいいという時間が増えた。


我慢して無理に周りに合わせなくても、自分と気の合う人がいることも分かったので、社会人になってからも、一匹狼になることにそこまで抵抗はなかった。仲良しごっこする必要もなく、個人プレーで成り立つ仕事だったし、1対1で付き合える人がたくさんいた。

だからといって、仲良くなった人と会社以外でもよく遊びに行くというほどは距離を縮めることは、ほとんどなかった。仲良くなりたいという思いもありつつ、仲良くなることに躊躇しつつ、最終的には1人で過ごすのが一番居心地がよかった。

前の会社で、私に興味を持ってくれて、今でも一番仲良くなった人がいる。当時、その人と話していると、私には、孤独の中でいろんなことを考えていたからこそ持っている魅力があると言ってくれた。(もっと素敵な言葉だったのに思い出せない。。。)


中学生や高校生の頃は、私は人とはうまくやれないんだと思った。今でも特に女性と仲良くするのは苦手意識がある。どんなチームの一員にもなれないと思ってた。自分がつまらない、どうでもいい存在だとさえ思っていた。

でも、私のことを「おもしろい」「魅力がある」と言ってくれる人と出会えた。その人のおかげで、私は、好きだと思える自分と出会えた。幸せな気持ちになれた。


今でも、私はあまり周りにうまく馴染めない。
私は、どこにもハマることのない、不良品のねじなのかもしれない。

だからといって自分の存在を否定することはない。

どこにでもハマるねじは、いろんなところで誰かの役に立つのかもしれないけど、なかなかハマらないねじは、ハマるところが見つかった時の喜びは大きい。どこにもハマらないねじは、ねじとしての役目とは違う新たな役割を担うかもしれない。

それに、周りと難なく馴染めていると人には、見えない苦労があるかもしれないし、居心地の悪さを我慢してる可能性だってある。


苦手意識にとらわれすぎず、
適当に周りに合わせながら、
リラックスできる時間を確保する。

そして、自分だけは自分の存在意義を否定しない。

少しでも居心地のいい時間が増えるといいな。



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