2024-09「途中からスイートチリソースを垂らすとおいしかった」

今月もツイートをまとめます。


今月のツイート

 1980年のアメリカ映画。ポール・シュレイダー監督作品。男娼が殺人事件の犯人にしたてあげられそうになる話。

 きらら作品みたいなオモコロチャンネル。原作の四コマ漫画があるんだろうな、と錯覚する映像。勝手なことをいえば、このフォーマットのショート動画を量産してほしい。

 ラップ巧者が集まったヒップホップクルー。

 毎週ちさと・まひろを見ることができてうれしい。第一話の序盤の厨房ファイトから、アイデアや工夫に満ちた新鮮なアクションを見ることができる。期待に応えてくれる制作陣にたいする感謝の念が湧いてくる。

 第三話でまひろがぬいぐるみを「お迎え」する展開は、『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』の会話の芝居に『べビわる』との近似性を勝手に感じていたので、我が意を得たりと自慢げになっていた。

映画:『きみの色』

 山田尚子監督作品。主人公のトツ子は共感覚の持ち主で、人の姿を見るときに同時に色を感じる。そして、単に色が見えるだけでなく、その人からどんな色が見えるかを重視しているところがある。

 彼女はいってしまえば自分勝手なものの見方をして憚らない。しかし、それは彼女にとって大切な世界の見方である。たとえば、その態度は、同級生の作永きみから発せられるきれいな青色に撃ち抜かれたトツ子が十字架を切る場面にあらわれている。この我儘さは見ていて気持ちがよい。それは彼女の変化をしるしづけるものだからだ。ラストのトツ子のダンスではアニメーションによって彼女の身勝手さが自己発見へと到達する。

映画:『ナミビアの砂漠』

 山中瑶子監督、河合優実主演作品。うまく飲み込めなかった。情報量が多いとはいえその各要素はどれもユニークで思い出すことができるのだが、これといった像を結ぶことができない。もう一度見たほうがいいのだろうか。ただ、注目に値する作品だからといって、いくら時間をかけてもその作品とよい友達になれるとはかぎらない。特にこういう作品の場合は、作品としての存在意義を一回で「びびっ」と受信できるのが望ましいのではないか? と思いもする。

 ただし、夢のなかで再体験の夢を見るようなループに入ることはなく、夢と現実の区別がついている。永劫回帰を日ごとに行うような生。寝床に就くたびに「よしもう一度!」をいう必要がある生。

 向こうにも予定があるなかで会うことができたとはいえ、話したりなかったのも事実。友人の、それは楽しかろうね、という話を聞くのは私も楽しい。

ドラマ:『ポーカーフェイス』

 ライアン・ジョンソン制作のドラマ。一話完結型で気軽に見ることができるので、U-NEXTに加入している人はぜひ。

 田舎町の閉塞感ゆえの殺人を『スター・ウォーズ』のアンチテーゼとして作ってほしい。というのは、辺境の惑星で殺人を犯す青年の姿はもしかするとルーク・スカイウォーカーが辿った道だったかもしれない……みたいな捻った話ができそうだからだ。80年代的SF娯楽作から70年代的アメリカン・ニューシネマにアメリカ映画史のコマを戻せばアンチテーゼになるじゃない?、という単純な発想だけど。

 11:05~あたり。ここでは、『となりのトトロ』のネコバスが、スタジオジブリのアイコン的なキャラクターとしてだけ言及されるのではなく、空想の生物の実在しない柔らかさがたしかに表現されていたという作品の記憶と実感とともに呼び起こされている。

 フェデ・アルバレス監督作品。イザベラ・メルセドがとんでもなくひどい目に遭っていた。『ロムルス』の鑑賞後、家で『プロメテウス』と『コヴェナント』も見た。

 怖い映画は苦手だ。映画にたいする集中が恐怖によって妨げられて、鑑賞後に映画を見た記憶が切れ切れになってしまう。ただでさえ映画を断片的にしか見ていないというのに。

 『アイドルマスター シャイニーカラーズ 事務的光空記録』第二巻も買いました。

 途中からスイートチリソースを垂らすとおいしかった。

 斑鳩ルカさんはナポリタンだけでなく、チーズオムナポリタンも食べるだろうか。

批評:秋山駿と柄谷行人

 日野啓三・秋山駿・柄谷行人「読書鼎談」という記事からの引用。この回では、村上春樹『1973年のピンボール』と立松和平『遠雷』の二作品を評論している。

 前者の主人公がピンボールという記号的な遊びに身を投じるのに対して、後者の主人公はかつての農村のあり方が失われていくなかトマト栽培に精を出す。『遠雷』についての感想はあとで書くとして、面白いのは、柄谷がこの二作のうちに対立ではなくて一致を見ている点。

柄谷 […]この人物がトマトを育てて、トマトと格闘しているということが、必ずしも「自然」に直面したり、つながっているようには見えないんだ。むしろ村上春樹の小説でいえば、ピンボールをやっているのと同じようにみえる。いまで言えばギャラクシアンとかさ(笑)、つまりトマトがギャラクシアンのようにワーッとおしよせてくるのと同じようなイメージなんですよ。それはトマトが一種のフェティッシュになっているわけで、それを感じたね。トマトの繁茂するイメージというのが、土、大地、自然のイメージじゃないと思うのね。だから、農業的なものが崩壊して、宙ぶらりんになってきているというような問題よりも、むしろこの青年がトマトに夢中になっているということのほうが面白いと思う。

(『文藝』1980年9月号、237頁)

 おそらく柄谷は、『遠雷』の次のような箇所を指しているのだと思う。

[…]満夫は頭上の鉄パイプにさがっているラジオのスイッチをいれた。ボリュームいっぱいのハードロックが流れてきた。銀色の繊毛に覆われた葉が果実が、リズムにあわせて細かく震えだすように見えた。トマトの勢いはいよいよ盛んになってきた。トマトの軍勢との闘いだ。[…]

(『遠雷』河出文庫、99頁)

 ただし、柄谷はこのフェティシズムを否定するわけではない(242頁)。『遠雷』にたいする柄谷の不満は、トマトにたいするフェティシズムがあるにもかかわらず、不用意に本物の農村・自然の「存在感」のようなものを想定しているために中途半端なんじゃないか、というところにある。その点、柄谷は、村上春樹を批判していることは知られているけれども、フェティッシュを徹底することに関しては理解を示しているように見える。

シャニマス:『アイドルマスター シャイニーカラーズ 2nd Season 第3章』

 真乃の「行く?」という誘いから、真乃と透は事務所の屋上に出る。夕暮れを眺めながら、二人は柵のそばに並んで話す。屋上での会話で、真乃と透は互いがどこかしら似通っていることを発見する。二人はともに世界、自分、言葉との距離をはっきりと掴めないままアイドルの仕事をはじめた。それぞれに葛藤を抱えていた二人がささやかな相互理解を手にする。

 そのようすは、一人ずつ切り取った二つのカットで表される。たしか、はじめに左側に立つ真乃のカットから、次に右側に立つ透のカット。二つのカットに分けられていた彼女たちは、やがて二人で一つの画面に収まる。

 シャニマスの理念が今もなお実在にたいする倫理だとしよう。だとすれば、映像作品におけるそれは、複数の人物が並ぶ一つの画面を映すだけではなく、一人の人物が映る画面の連続を示すことにほかならない。二人は同じ地平に並ぶ。ただし、一人ずつの二つのカットの連なりがあったことを忘れてはならない。この連続こそまさしく真乃と透の目の前にある世界、自分、言葉との距離である。

 真乃と透の会話で、リズムが回復する瞬間が訪れる。真乃と言葉を交わして透は生を実感する。そこで心臓の音が鳴りだす。最終話目前にしてビートが鳴り出したのだ。第1期の第1章からピアノとストリングスの劇判に苦しい思いをしてきたのはこのためか、とさえ思った。もちろんこれは強引な見方だ。けれども、私の中では、このアニメ作品はリズムの欠如のゆえにほとんど息づいていなかった。浅倉透の鼓動の音が鳴り出した瞬間に息を吹き返した。

 大江健三郎の1988年の小説。『洪水はわが魂に及び』の核シェルターでの共同生活が好きなので、森の中の使われなくなった地下壕=「映画基地」での活動がはじまったときに期待が膨らんだ。しかし、主人公のオーちゃんは、そこで出会った森君やサッチャンら若者たちと連帯するわけではないし、生活をともにすることなく実家から通うだけだ。オーちゃんは、若者たちにたいして、連帯とまではいかずとも、何かしらの同世代としての意識を持たなかったものだろうか。反発であれ何であれ。

 大江の小説のなかにはしばしば「励まし」という語が出てくる。危機的状況に立たされた人物が、家族の存在であれ文学作品の言葉であれ何かを「励まし」にして奮起する姿は、読んでいて素朴にじんとする。

 『キルプの軍団』では、主人公の高校生・オーちゃんが、元・運動家の鳩山という男から小さな「励まし」を受け取る。オーちゃんは、鳩山がその仲間と撮る映画の制作を手伝うことになり、鳩山とその構想を話し合うなかで勢いづけられる。しかし、その様子を見ていたサッチャンはこういう。以下はサッチャンとオーちゃんの会話。

 ──鳩山さんから、いい気持にしてもらったんでしょう? あの年代の運動家は若い人をふるい立たせるのがうまいのよ。坐ってられなくて、走り廻りたくならせるほど、アジテーションがたくみなのよ。
[…]
 ──別に鳩山さんがアジテーションしている、とは思わないですよ。励ましてもらった、とは感じますけど……
 ──励ました、でもいいよ。私はレトリックにこだわる人じゃないから。[…]

『キルプの軍団』講談社文庫、268、269頁

 「励まし」を「アジテーション」ととらえる人物は、大江の作品のなかでもおそらく珍しい。大江の作品世界において「励まし」は素朴に受け取られるばかりではないことを確かめておけたのはよかった。

 実写版の監督になる奥山由之は、ちょうどラッパー・TaiTanとのラジオ特番で名前を知ったばかりだった。奥山が監督したMVを目にしたことはあったけれども。11月に初監督作『アット・ザ・ベンチ』が公開されるので、それを楽しみにする。正直、お手並み拝見……みたいな力みが生じてしまっている。

 小中学校の同級生たちと酒を飲んだり、立ち話をしたりした。結婚を考えて動きたい、いい人がいたら紹介してくれ、という話題も出てくる。本気か。

 『ソウルイーター』は小学校のころに夢中になって読んでいた。夕方にアニメの再放送もやっていた。

 主人公たちと敵が戦いを繰り広げるなかで、狂気と規律の対立や調和みたいな話を喧々諤々やりあうのだが、議論が進展することはなく、美的にかっこいい感じで進んでいく。

 奥山大史監督作品。地方のスケート場を舞台に、少年が少女との出会いをきっかけにアイスダンスをはじめる話。

 池松壮亮が演じる元プロのフィギュアスケートのコーチが、スケート場に通う少年に滑り方を教えるシーンを見て、身体の動かし方を教わる経験は独特だなと思った。そこからさらに、女子の生徒と組んでアイスダンスの練習をはじめることになるのだが、二人で息を合わせて同じ動きをする一連の映像がよい。夕方のスケート場の緊張感と、氷の上を滑る二人の動き。

映画・小説:『遠雷』

 根岸吉太郎監督作品。1981年の映画。原作は立松和平の1980年の小説。ビニールハウスでトマトを栽培する農家の青年の話。農地を売った金でよそに女を作った父親や、すぐそばにできた団地の人妻と駆け落ちする親友、農地を売った成金一家の娘との結婚話など、時代の変化を前に右往左往するようすが語られる。

 内容と関係のない感想を先に書いてしまう。主人公・満夫とのちの結婚相手・あや子とお見合いする場面では、あや子の両親はそろって出席しているのだが、満夫の父親はよその女の世話になっているため母親だけが出席する。映画では、中華料理の円卓を囲んでいる場面だが、特に思うところはなかった。

 しかし、あとから原作を読むとこう書かれている。「中華料理の円卓なので、父がいないのがそれほど不自然ではなかった。先方の気遣いだ」(河出文庫、67、68頁)。映画ではこのことが台詞で説明されたりはしないのだが、見る人によっては画面だけからこの気遣いを読み取ることができるのだろうと思う。私には到底無理そうだ。

 小説から映画への変更点、満夫とあや子の結婚式と、親友の殺人の告白を同時の出来事として描いたことだ。映画ならではのクロスカッティングで、新たな家庭の誕生を祝うようすと殺人者の悲惨なようすが交互に語られる。また、原作ではあや子と親友が出会うのだが、映画ではこの二人は交わらない。対比が効いていてよい変更だと思う。

 『遠雷』は団地とビニールハウスという場所を描く。団地について、農家の主人公は豊かな生活の場所としてとらえない。たとえば、「ここはまるで島だ。田んぼや雑木林の真中に不意につくられた人口の離れ島だった」(35頁)、「団地が流れ着いた人間たちの汚水の溜り場に見えた」(62頁)、「整然とならんだ黒い大きなビルはまるで墓石だった。墓石のひとつひとつに迷路がかくされているのだった」(66頁)など。

 他方、ビニールハウスは主人公の生活の基盤であるのみならず、性的な意味合いをもつ。作中にモーテルも登場するが、ビニールハウスのほうがずっとセクシャルな場所である。たとえば、彼はそこで自慰をおこなう。「熱いかたまりがトマトにむかって跳んだ」(108頁)。

 そして、満夫は幾度もそこに女性を連れ込む。そこで「赤いトマトは女を照らす赤い電球」(56頁)であり、「女はトマトの葉を一枚折りとって汚れた腹をぬぐった」(57頁)。「あや子との肉の境目が消え、溶けて流れていく気がした。トマト畑を思うがまま自由に泳いでいく」(172頁)

[…]この女とビニールハウスを残して何もかもなくなってしまえばいいと思った。コンクリート塊の団地も、見せかけばかりの家も、手入れもされていないわずかばかりの雑木林も、大地も街も、何もかもが崩れて粉になり消えてしまえばいい。

(『遠雷』河出文庫、176頁)

 場所についてのこうした夢想が、ビニールハウスを中心にしておこなわれる。

音楽:「俺らカルチャーに愛のあるナード」

 毎年『ラップスタア誕生』というヒップホップのオーディション番組が放送されている。2024年は長崎出身のラッパー・Kohjiyaが優勝した。ツイートの画像で指ハートをつくっている人物。優勝後も精力的に活動していて、featuringで参加している曲がいくつも発表されたのだけど、中でも10歳以上年の離れたBIMやPUNPEEと作った「DNA」は出色の出来で、今月にはTHE FIRST TAKEにも登場した。

 『ラップスタア誕生2024』でKohjiyaが優勝したとき、私は、歴代優勝者と同じようにヒップホップのオーセンティックさを体現したラッパーが選ばれるんだなあ、みたいなつまらなさを感じていた。ただ、これは、Kohjiyaがすでに「DREAMIN BOI ISSUE」のなかで「何がリアルで 何がリアルじゃないか 今もわからない」とラップしていたにもかかわらず、それをちゃんと聞いていなかった私の誤った見方だった。

 PUNPEEやBIMみたいな界隈に呼ばれるなんてわかってるな、という話ではない。そもそも私はPSGやCDSの熱心なリスナーではないから。それに、「Kohjiyaがナードなわけないだろ」「いや、PSGのリスナーを公言していたし、実はめちゃめちゃツイッタラーで」みたいな話でもない。そうではなく、PUNPEEやBIMとのフィーチャリング曲のフックで「俺らカルチャーに愛のあるナード」と歌い上げるKohjiyaに恐れ入った。この曲に必要なラインを歌い上げてみせる胆力。KJ seasonってこういうことかと遅ればせながらわかった。

 阪元裕吾監督作品。映像のルックとお話のノリがややミスマッチでサムくなってないか、キャストは豪華だけど話がやや散漫になってないか……。けれど、シリーズが三作まで続いてTVシリーズも放映されている今の時点では、作品全体として「完成度」を求めるようでは的外れなのかもしれない。アクションは文句のつけようがない完成度だし、シリーズを通じてキャラクターや世界観を崩さずに、新たなユニークなキャラクターを投入してくれている。これで十分すぎる。

 「オモコロの奇才に震えろ!」一万円札ジョイントでおなじみの出版区。どちらのチャンネルにも出演しているのはおそらく練マザファッカーことD.O.だけだ。

今月の下書き

 出会う人々が個々人としてあらわれず、それを一つの「人なるもの」がさまざまなかたちを見せるものとしてしかとらえられないという人がいたとすれば大変だろう。

 その人は、蟻の群れを見ると、この世界には「蟻なるもの」みたいなものがあり、それを素にしてぞろぞろわらわらと蟻が発生しているんじゃないか。そして、人間もそうなのではないか、と考える。もちろん、卵生や胎生の事実を知ってはいる。けれども、ほんとうは違うんじゃないか。こういう発想を仮定したとき、おそらく個体と種とか流出論みたいな話にいきつくことになるのだろう。

 蟻は大小の違いがあれど、ほとんど同じに見える。人間の場合は、ほとんどの場合見分けがつくので、ときどき誰かがと誰かが似ているという事態に遭遇するくらいだ。その場合、顔の見た目でもいいし、言動についてでもいい。それは私自身でもいい。何にせよ、ある二人の人間が似ているということはある。

 「類似」が興味深いテーマであるのは、それが血縁と関係するせいでもあるだろう。けれども、子は親に似て生まれ、それゆえ兄弟姉妹は似るというのは偶然的な事実だ。親と子がまったく似ても似つかぬ姿で生まれてくる世界も可能であり、全能の神は自分の似姿以外も作ることもできる。問題は、そのような世界でもなお何かと何かが類似しているという事態がありえて、それは血縁と関係なくなお興味深いということ。何かと何かが似ていると判断できる事実にある。

 べつに人間の類似に限った話ではないのだけど、そこにこだわってしまうのは私の趣味だ。何かと何かを似ていると判断することが、道徳的に引き起こしてしまうものに関心がある。

田村隆一「沈める寺」を覚えた。

 というのも、大江健三郎が田村隆一の詩を「難解であるからこそ愛誦することが必要であり、愛誦は自然に、しだいに深まる理解を導くから、絶対に骨折り損ではないという種類の詩の数かず」と評しているのを読んだから(「田村隆一と垂直的人間の声」)。

 詩を諳んじられるのはなかなかよい。本を開かずに済む。ただ、なかなか別の作品を覚えてどんどん暗誦しようというほどやる気になってはいない。

今月のファボ・ブックマーク

 峯田茉優さんも『ソウルイーター』を読んでいる。

 ミームと社会運動のパロディ。

読んだもの

ヴォルテール『カンディード』

 この小説はライプニッツが唱えた最善世界説を皮肉っていることで有名。「すべてが最善である」という信念をもつ主人公・カンディードが、各地で酷い目に遭った人物たちに出会い、その身の上話を聞きながら、自らも酷い目に遭う一種の地獄めぐり。

 途中、カンディードはたまたま黄金の国・エルドラドを訪れる。そこの住民は宝石や金銀を石ころ同然に扱うので、カンディードは国王に頼んで彼らにとって「黄色い泥」でしかない金を譲ってもらい、旅の費用にあてる。

 話が進む条件を都合よくどこかからもってくるという点では、『ロビンソン・クルーソー』でいう難破船から資材をとってくるみたいな話だ。物語を進めるためのエネルギーの供給源が露骨に登場するのはすこしおもしろい。それを駆使して生活の基盤を組み立てることに成功するロビンソンと、金にものを言わせて有利にことを運びもするけど結局はその財産を失う羽目になるカンディードで顛末は異なるけれど。

 今月はおしまい。ツイートや日記を読み返してもなんだかよくわからない月だった。納得がいかない月。


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