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記憶定着日記:二〇二二年一二月

今年最後の記憶の定着です。

今月のツイート

最近泳げていない。

シャニマス:アルストロメリア「Give me some more…」

 シャニマスの楽曲がサブスクで配信されはじめた。

「Give me some more…」はたまらなくいい楽曲だ。これまでのアルストロメリアの楽曲にはないエロティシズムがある。

 ただ、あまりに魅力的な楽曲であるからこそ、次の二つの点に注意したいと私は思っている。第一に、いくら肉体性に接近しているようでも「プラトニズム」は保持されている点。歌詞のなかでは「純愛」を「貫いて」と歌っている箇所がこのことを示している。もしくは、芝崎さんがレコーディングの時のエピソードが示している。声出しもかねて張り切ってテストを歌ったら「男を引き連れた千雪さん」のイメージになってしまったので注意された話。

 第二に、ステレオタイプへの注意。これまでのアルストロメリア楽曲を「若い女性アイドルの貞節」として一括りにして、今回の曲で性的な「成熟」を果たした、というような抑圧的なステレオタイプな解釈は避けたい。

 Remixが出るだなんて寝耳に水だった。「Our Lives」はここ数年の音楽のなかでいちばん好きな曲なのです。オリジナルのKMのトラックももちろんいいんですが、これも負けず劣らずよい。二倍楽しめるようになった。うれしい。

小説:村上春樹と電話

 どういうことだよ、と思っている。

 村上春樹の小説のなかの電話。たとえば「嘔吐1979」や、『ダンス・ダンス・ダンス』の上巻に出てくる電話に関する考察。その他の作品にも、主人公が自室からいろんな人に電話をかけたり、思わぬ相手から電話がかかってきたりする光景がよく出てくる。それこそデビュー作の『風の歌を聴け』から一貫して電話が出てくる。

 村上と電話についての考察で代表的なものとして、鈴村和成『テレフォン』がある。ちなみに村上はエッセイ「村上朝日堂」のなかでこの本の献本を受けたことを書いている(該当箇所を控えていなかったので、典拠を示せられないのですけど)

*追記(2023-04-09):私の記憶違いがありました。村上が言及したのは、鈴村の別の著作『未だ/既に』でした。『村上朝日堂の逆襲』のなかの「読書用飛行機」というエッセイ。ページ数でいうと174、175頁。ちゃんと出典を確かめないとダメですね。すみませんでした。

 ただ『テレフォン』は村上のキャリアの初期に書かれているもの。ツイートに挙げた作品はどれもこの本のあとに書かれている。

 2013年には、大澤聡が「電話小説たちの行方」という論考を書いている。この論考は『村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』をどう読むか』という評論アンソロジーに収められている。大澤は、『色彩~』のなかでの主人公・多崎のコミュニケーション・ツール、メディアの使用に注目し、インターネットの登場以降において村上の小説に出てくる固定電話というアイテムがアナクロになっている点を指摘している。そのアイテムの更新は村上自身はなしえないだろうから、後続の作家たちによってなされるしかない、と論を締め括っている。

映画:セリーヌ・シアマ

 怒涛のようにセリーヌ・シアマ関連作品を見た。そのあとに『ユリイカ』セリーヌ・シアマ特集号を読んだ。いい鑑賞体験でした。たとえば『水の中のつぼみ』こと「たこの誕生」。シアマの作品の中でもかなり好きな作品だった。でも、論考を読んでいると、かなり限られた側面しか見られていない気がする。

『ぼくの名前はズッキーニ』に触発されてのツイートは、『燃ゆる女の肖像』に関連する。マリアンヌ、エロイーズ、ソフィの三人が館で過ごしたユートピア的な空間が私は何よりも好きだった。

 ユリイカでの論考を読むと、シアマは人と人(特に女性同士)が水平であることを志向していることがわかる。それは、水平に移動するカメラワークや慎重なキャスティングに見られる。

 反対を言えば、シアマはわれわれの生活で体験される人と人との関係はたいていが非対称であるという視座を持っている。私は、川上未映子との対談での松浦理英子の発言を思い出した。

松浦 〔…〕私は女と男という差異があるのも嫌だし、それ以前に個体と個体の間に見た目や能力といった差異があることさえすごく嫌なんですよ。それでものすごく自分が苦しんできたという思いが……。こんなこと自分で言うのかっこ悪いですよね。
〔…〕
松浦 他者というとちょっと難しいレベルになってくるんですが、そんなに深い話じゃなくて、そこにいる人と自分との間に違いがあるのがもう辛くて辛くてしょうがないというような気持ちですね。画一化された社会などダメな社会だということは言うまでもないし、差別論などでいわれる、差異を認め合おう、差別を楽しむべき、ということならわかりすぎるほどわかっているんですよ。そういう次元の話とは全く別に、根本的に個体と個体との間に差と隔たりがあるのが寂しくてたまらないんですね、私は。

『六つの星星:川上未映子対話集』単行本 p.94

 松浦は、『裏ヴァージョン』『奇貨』で同居生活とその解消、『最愛の子ども』で「家族」と「私たち」の高校生活と卒業を描いてきた。これらは水平な空間の現出とその終わりを描いていたと言える。

 ただし、シアマが脚本のみならずカメラワークやキャスティングといった視覚表現によって「水平」を可能にしている、対して、松浦は文学作品のなかでいかにして個体間の差異と対峙しているのか。

悪夢を見た。

原作は未読だった。評判どおりの凄い作品だった。

映画:ロード&ミラーの二作目

 続編『アクロス・ザ・スパイダーバース』のトレイラーが公開された。スパイダーマンがたくさん出てきて、あの革新的だった映像も踏襲されている。

 しかし、過去のフィルモグラフィを見ると、ロード&ミラーの二作目はほんのり不安だ。

 ロード&ミラーは過去三回ほど、続編を制作している。『くもりときどきミートボール2』(原案・製作総指揮)、『22ジャンプストリート』(監督)、『LEGOムービー2』(脚本・制作)だ。どれも面白い作品にはなっているのだが、「一作目を超える二作目」を撮れてはいない。

 ロード&ミラーは「とびきり面白い単作」を撮ることのできる作家なんだ、それでいいじゃんと私は思っている。彼らは単体の作品ごとに題材と映像表現のビビッドなアイデアを出してくれる作家なのだ。

 その評価が正しいかどうか、『アクロス・ザ・スパイダーバース』を見てみないと分からないけれど。前作『イントゥ・ザ・スパイダーバース』で出したアイデアは続編に耐えるアイデアだったかもしれないから。

 グレタ・ガーウィグ作品。バービー人形は革新的であったかもしれないが、その女性の表象は……という限界まで見据えているだろう。消費社会での女性の「自立」神話。その問題を、どの程度までどう扱うか(観客にどう受け止められるか)は、期待が半分、不安が半分。

 シャニマスの妄想。福島から東京に出てきた三峰さんがユーロスペースで『フランシス・ハ』見てたら最高じゃないですか。

ほどよくくだらない青春コメディを一人で見るのは楽しかった。

 今月、匿名ラジオのイベントDVDが発売された。特典のなかのひとつにオーディオコメンタリーがあった。3時間弱の匿名ラジオが聞けてめちゃくちゃオトク。

 三島と全共闘の討論のなかで、右翼・左翼の対立が却けられる。このこと自体、現在の議論のなかでも珍らしいことではない。次に焦点が当たるのは解放・持続、論理・意地の対立だ。当時ではお決まりの対立だったのかは分からないが、少なくとも私には右左よりも新鮮な対立に思えた。
 全共闘の「敗北」について訊ねられて芥は「自分の国で自分が生きているじゃないか」といって敗北を認めない。しかし芥が亡くなってしまっては勝利はかなわないだろう。一方で三島は作品と行動と自決によって戦後史に名を刻み、日本、天皇、文学があり続ける限り持続するのだ。

『ぼっち・ざ・ろっく!』でも踏襲されていて、素直に感動してしまった。

『水星の魔女』がいよいよな感じになってきた。

映画:『青春デンデケデケデケ』

 いい映画だった。

日常系が現在志向であるのはどうして。

 回想形式を採用すると、たいてい、回想して過去を懐かしむ誰か一人(=主人公)を特別視することになる。このことが、メインキャラクターたちの集団の横一列な空気感を壊してしまうのだろうか。

いい映画だった。

個人的には、今年最後に見るのにふさわしい映画だった。珍しくパンフレットを買った。

映画:2022年ベスト10

 「今年はこれが一番だ!」という興奮があったわけではなかったので、ベストを選ぶのはちょっと難儀したね。

 その分、旧作の鑑賞には恵まれたのでよかった。新海誠の過去のインタビューをきっかけに知った『海がきこえる』、ひたすら美しい撮影に心を掴まれた『トニー滝谷』と『幻の光』の二作、西部劇をいくつか見ていて中でも面白かった『シルバラード』、見事な青春映画だった『リンダ・リンダ・リンダ』と、その山下敦弘監督が参考にしたという『台風クラブ』などなど。

ワイヤレスイヤホンの接続が切れていた。びっくりした。

これが2022年最後のツイートです。

今月の下書き

小説:リアリズムについて

『アイドルマネージャー』というシミュレーションゲームは「リアル」だと言われる。 女性アイドルが恋愛という"不祥事"を起こしたり仕事の量だけでなく内容によってメンタルが左右されるといった点で「リアル」に見える。しかし私には、『アイドルマネージャー』はアイドルをリアルに描いているのではなく、(私を含む)このゲームの鑑賞者はペシミスティックあるいは露悪的であることを喜んでいるように思えた。「リアル」という評価はその態度を覆い隠しているのではないか、と。
 しかし、ブルーメンベルクによる現実性概念の大まかな説明を聞くと、たしかに「リアル」だと言うのは間違いではないと思い直す。古代・中世・近代の思想史の流れのなかで、「現実性」は明らかな変遷を遂げているのだ。『アイドルマネージャー』的な「リアル」は、彼の描いた20世紀までの概念史の延長線上につけたされた「リアル」の一形態であるならば、「リアル」に他ならない。
 ではその今現在の「リアル」の内実とはなんだろう。それは21世紀のインターネット登場以降のメディア論・環境によって特徴づけられるはずだ。『ゲーム的リアリズムの誕生』を手がかりになるだろう。とりわけ東が「環境批評」と呼んだものを、新たなリアリズムにたいする理論的な枠組みとして与えられるのではないか。もしくは、東・大塚の対談『リアルのゆくえ』は、世代的な対立が刻印されているテクストとして読むことができるかもしれない。
 メディア環境がうむ「リアル」。私は『アイドルマネージャー』というシミュレーションゲームを機にこのことを考えはじめた。しかし、現在の文学でいえば『推し、燃ゆ』について考えるのが相応しいかもしれない。
 「推し」の炎上の騒動と人気投票のなかでメディア・SNSのなかでの酸欠状態のリアル。
「寝ぼけた目が〈真幸くんファン殴ったって〉という文字をとらえ、一瞬、現実味を失った」(3頁)
 現実の喪失から、メディア上のリアルが展開していく。しかし最後に行きつくのは次のような「現実」である。
「家に帰った。帰っても現実が、脱ぎ散らした服とヘアゴムと充電器とレジ袋とティッシュの空き箱とひっくり返った鞄があるだけだった。」(123頁)
 この小説の終わりに主人公は自分の身体が重いことに気がつく。炎上は重さから解放されることである。『推し、燃ゆ』が「リアル」であるといえるのは、SNSという環境のなかでのファン活動ではない。推しの応援と学校・労働・家族の往還こそがリアルなのだ。

 長いし話題が転々としている文章。

「忽(ゆるが)せ」を「蔑(ないがし)ろ」と混同して「ないがせ」と読んでいた Twitterで検索したらそれぞれ三人くらい「ないがせにする」「ないがせにしない」って使ってる人がいた

読み間違い。

『線たちの12月』、人付き合いが苦手なばかりに小糸さんが少し無責任になる瞬間。たまらなく好きかもしれない。
「め、めちゃくちゃ暴れないと 負けそう……!」と同じくらいに感動している。

小糸さんにも、ちょっとしたよくない部分がある。

「ソバー」でめちゃくちゃ笑ってしまった。

オモコロのラジオ「音声放送」の有料コンテンツ。

はじめて明晰夢っぽいものを見た。でも、事象内容として「夢であることが分かっている」と与えられているようなもので、ありありとこれは夢だとわかっている経験ではなかった。

夢を見るのはたのしい。

 作品世界の中に現実のものと類似する情報環境を設定し、それをツイッターという現実の情報環境で再現することによって 「実在性」 を増させる試み。さらにはそれが成功していること。

冒頭の長文と同じことをシャニマスの「ツイスタ」についても考えた。

実在しない美少女(アニメ・ゲームのキャラクター、VTuber)と性器抜きに電子的な関係を結び、(アイロニカルに)礼讃するのはわかるのだが、問題はそれを「セックス」として語ることだ。そのように語ると、その関係の価値がセックスに依存していまう。その関係をセックスと呼ぶ理由はどこにもないのではないか、という大きな疑問が残る。

非対人性愛の、インセル的なバージョンに関して。

真理を認識するには自己禁欲的でなければならないと考えられていたところ、デカルトは合理性をそのような道徳から解放して認識の主体を構成した。カントは再び道徳を呼び込んで普遍的な主体を構成した。

 って、フーコーが言ってた(フーコー・コレクション第5巻「倫理の系譜学について──進行中の仕事の概要」の最後のあたりを参照)

偉いので、 「見る/見られる」図式をむやみやたらに使う前にジョン・バージャーとローラ・マルヴィを読みます。

『ユリイカ』のセリーヌ・シアマ特集号のなかの論考でバージャー『イメージ 視覚とメディア』とマルヴィ「視覚的快楽と物語」が参照されていたことで知った。このことに関連して、

視覚芸術における「ネイキッド/ヌード 」(ケネス・クラーク)の区別から、小説にとって裸とは何かを論じた文章はないんだろうか。

という疑問が浮かんだ。いや、まだクラークの本を読んでいないけど。

小説:『同時代ゲーム』

『同時代ゲーム』、「無名大尉」が出てきて「地理的制覇」 を始めるあたりから面白くなってきた。つまり「五十日戦争」 がすこぶる面白い。

 大江健三郎の『同時代ゲーム』をせっせと読んで、年越し前に読み終えることができた。
「第四の手紙」は、戦力は乏しいが山での戦術に長けた村のひとびとと「無名大尉」率いる大日本帝国軍の攻防が描かれていて、戦争もののジャンル的な面白さがありますね。「第一の手紙」からでなく、ここから読み始めてしまうのがハードルが低い読み方なのではないか。

映画・アニメ:バリケード封鎖と文化祭ライブ

 バリケード封鎖と文化祭ライブの何が違うのか
『ぼっち・ざ・ろっく!』最終話と『三島由紀夫vs全共闘』を立て続けに見たあとに、映画『青春デンデケデケデケ』を見たのでこの問いが出てきた。
 日本の青春モノのエンタメ作品における「文化祭ライブ青春モノ」の系譜がある。『リンダ・リンダ・リンダ』(2005)、『涼宮ハルヒの憂鬱』の「ライブアライブ」(2006)、『けいおん!』(2009)の流れはよく言われる。その系譜に新たに『ぼっち・ざ・ろっく!』(2022)が加わった。
 もう少し遡ると、1992年公開の映画『青春デンデケデケデケ』がある。時代設定は1965~1968年。舞台は香川県観音寺。主人公たちはロックに心酔していき、高校生活最後の文化祭ライブに結実する。四方田犬彦『ハイスクール1968』にあるような、都心の高校での政治的な「紛争」の姿はここにはない。60年代の高校生の文化の二つの流れがあるのではないか。(原作小説を未読なので、そちらの方でどうなっているかは分からないけれど)
 こういった考察はもちろん『うる星やつら2 ビューティフルドリーマー』(1984)をどう考えるか、という語られつくしているであろう問題に行きついてしまうので厄介。

今月のファボ

よい二次創作イラスト。

よい漫画。ありふれた詩情が、その凡庸さではなくて認識の限界によって否定される。

めでたいねえ。

年代記的なものから自由なツイート。ただ、西暦という桎梏が残っているのですけれど。

ほえーとなったニュース。そういえあば今年は『モードの迷宮』をパラパラと読んだ。

意表を突かれた。

いい四コマ。

今月のブックマーク

学問:非対人性愛とオタク論

セクシュアリティを考えるうえでは、ときにオタク論から距離をとることが必要になる。私もこの二つを混同して把握していたことに気づかされた。

ネタツイ。

よい二次創作。

ChatGPTがリリースされて、Twitterで話題になっていた。

 私には「名付け親になりたい」願望がある。この願望は悪質な権威欲の一種だろう。では、意味を込めた名前を付けるのと、シンプルな動機で名前を付けるのとでは、どちらが悪質な権威の発現となるだろうか。等しく悪質だろうか。
 あと、二つ目のツイートの最後の一文は私はわからない。

よいツイート。

いいイラスト。私もかる~い色弱なので、ナンジャモのコイルが左右で違うことを知って驚いた。

グリンチにとり憑かれたふしぎな猫の動画。

よい日記。

よい漫画。

ネタツイ。

徹子の部屋での、新しい戦前になるのではないかというタモリの発言。

Twitterユーザーに響くツイート二つ。

以上、2022年最後の記憶の定着でした。

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